照らされて降る雨(6)
柚子はと言うと、詩乃とはどこにも出かけることもできず、会う時間も話す時間も減ってしまって、不安は募るばかりだった。体育祭の後夜祭も、本当は詩乃と踊りたいと思っていたが、詩乃がダンスパーティーのような行事が嫌いなのを柚子は去年のクリスマスイブに知ったので、強くは誘えなかった。「一緒に踊ろう」ではなく、「どうする」と誘うと、詩乃は首を横に振った。「新見さんと踊りたい人を優先してあげてよ」と。確かに柚子のもとには、六月の中頃の時点ですでに後夜祭のダンスのお願いがたくさん来ていた。柚子は、詩乃が嫌だということは押し通せないので、水上君とのダンスは仕方ないと諦めて納得することにした。
しかしそこまでわかりやすく距離を置かれると、柚子も、本当に水上君は、私じゃない人――愛理ちゃんのことを、と本格的に心配になってくるのだった。文芸部に行って、皆に彼女宣言しちゃえばいいんじゃない、と千代は柚子に助言していたが、柚子は結局まだ、愛理に、自分が詩乃の彼女であることも宣言できず、また愛理に詩乃との関係のことを聞いたり、上手く探りを入れたりもできていなかった。マスゲーム団の活動では話しかけるけれど、肝心のもう一歩が踏み出せない。そんな悶々とした日々が続いた。
体育祭がいよいよ目前に近づき、その二日前の木曜日、詩乃は放課後、印刷業者から届いた五十部の部誌を事務室のまで取りに行った。部誌は、皆の努力もあり、期日中にしっかり完成させることができていた。
詩乃は事務室で、五十部の部誌の入った段ボール箱を受け取り、その足で文芸部の部室に向かった。校内は太鼓と応援歌、マスゲームのダンスミュージック、吹奏楽部が奏でる体育祭のテーマ曲――色々な音で溢れかえっていた。体育祭に向けて、皆最後の追い込みをかけているのだ。
部室に向かう道すがら、ML棟からCL棟につながる渡り廊下で、詩乃は段ボール箱を落としそうになったので立ち止まり、よいしょともう一度、箱を胸の前に持ち上げた。ふと空を見れば――空は今にも嵐になりそうな、黒というより濃い紫の不気味な色の雲で覆われていた。
詩乃が文芸部の部室の扉を開けると、すでに部員が一人来ていた。
井塚だった。
井塚も、詩乃が来るとは思っていなかったので、扉が空くとびくりと驚いた。井塚は、ノートパソコンを開きながら、文庫本を読んでいた。
「一人読書会?」
詩乃は部屋に入り、井塚に声をかけた。
段ボールを部屋の片隅に置き、うっと体を伸ばす。
「それ、部誌ですか?」
「うん」
詩乃は短く答えると、早速段ボールを開けた。
井塚は、部誌というからには卒業文集などによくある野暮ったいA5版サイズとばかり思っていた。ところが部誌は、井塚が手にしている本と同じ文庫本サイズ。ツルりとした材質のカバーには、えんじ色の波のようなデザインが施されている。段ボールを覗き込んだ井塚は、ごく小さくであったが、驚きの声を発した。
『文芸部短編集』というシンプルなタイトル。
詩乃は一番上の一冊を取って、井塚に渡した。井塚は軽く会釈をしてそれを受け取り、パラパラと適当にページをめくった。部員六人の短編なのに随分ページ数があるなと思い、井塚は目次を確認した。そこでまた、井塚は驚かされた。
「――先輩、一人一作じゃないんですか」
井塚が、詩乃に訊ねた。
詩乃は今回、一人で三つの作品を入れていた。一万文字強の話を二編と、三万文字の話を一篇。ページ数が少ないとそれだけで貧弱そうに見えるので、部誌というからには、ある程度の体裁は必要だろうと、詩乃は思っていた。まだ井塚以外の部員は、文字数の多い、一万文字を超えるような短編は書けないので、そうなると、足りないページ数は、詩乃が埋めるしかなかった。とはいえ、去年は一人でそれをやっていた詩乃にとってみれば、今回の部誌制作は、全く労力ではなかった。短編も、寝かせているものがまだたくさんある。
「トータルで二百ページくらいにはしたかったんだよね」
詩乃はそう言うと、自身も、まだ温かいような新品の部誌を一冊取って、井塚の斜め向かい――いつもは由奈が座っている席を大きく引いて、そこに座った。ぱらぱらとページをめくった後で、ぱたんと本を閉じ、机に置いた。部誌を読み始めていた井塚は、詩乃の行動を意外に思い、顔を上げた。
「読まないんですか」
「うん。今はいいや」
そう言って、詩乃は肘をつく。
井塚も、本を閉じた。
「明日届くって言ってたじゃないですか」
井塚が、ぽつりと言った。
確かに詩乃は、皆にはそう言っていた。
詩乃は気の抜けたような声で答えた。
「今日いない部員には同じことだよ」
「今日来るなら今日来るって、言ってくれればいいのに」
井塚の子供じみた、拗ねたような口ぶりに、詩乃はいっそう、肩の力が抜けてしまった。
「予定調和に反逆したい気分って、ない?」
「別にありませんけど――大体小説なんて、予定調和じゃないですか」
詩乃は井塚の応えを聞いて、声を上げて笑った。
井塚は、詩乃のそんな笑い声を聞いたのは初めてだった。一体何がおかしいのか井塚には理解できなかったが、井塚は何か、子ども扱いされたような気がした。
井塚は、詩乃が自分と同じ一芸で転校入学していることを、神原教諭に聞いて知っている。入学の際その「一芸」と学校に判断されたライトノベルを、今はもう書いていないということも。そして――一般文芸ジャンルの小さな短編懸賞をとり、その短編の載った本が、こっそり今も本屋に並んでいるということも。
井塚は、詩乃がライトノベルを書かなくなったのは、出版社の方から打ち切られたからだと思っていた。そうでなければ、あんな金になるもの、手放すはずがない。吐いて捨てるほどある短編の懸賞なんて、それが出版されたとしても、印税なんてほとんど入ってこない。そのことを、井塚も商業小説家の端くれとして知っていた。
だから水上先輩より、自分の方が上だ――井塚はそう思い込みたかった。部数も印税も、そんな短編の比じゃない。一般文芸だから何だ。結局部数と印税だろ、と。
「――まぁそうなんだけど、やっぱり消したいんだよね、作為みたいなのを」
力の抜けた声で詩乃が言った。
「なんでですか。いいじゃないですか、読む方は別に、楽しきゃ何でもいいんですよ。結局本なんて、読まれてなんぼじゃないですか。芸術性なんて、やりたい人間か勝手にやってればいいんですよ。高尚とか、オタクと何が違うんですか」
井塚が随分とムキになるので、詩乃は「そうかもね」と微笑を浮かべて頷いた。詩乃はそんな井塚に、その心の中の葛藤を見る様だった。
空調機の送風音の隙間から、太鼓の音が聞こえてきたので、詩乃は話題を変えようと口を開いた。
「健治も頑張ってるのかな」
詩乃は、窓の外を見て、言った。
「カロリーの無駄遣いですよ、体育祭なんて」
詩乃は、肯定も否定もせず、ただ窓の外を眺め続ける。
井塚は、詩乃のその態度が不満だった。もっと怒ったり、不機嫌になったり、眉間にしわを寄せるくらいの反応は期待していた。ところが、詩乃の見せた態度は逆だった。いつもより断然穏やかな雰囲気で、額には皺もなく、目元は緩んでさえいる。
「イベントは嫌い?」
詩乃は、さらりと、そんなことを井塚に聞いた。
「嫌いです」
井塚は即答した。
それから、その答えの補足か言い訳のように続けた。
「あんなの、踊らされてるだけですよ。まんまと主催者側の策略にのって、それをありがたがってるなんて、俺には滑稽ですね。バレンタインデーだって、クリスマスだってそうじゃないですか。あんなの、お菓子会社が儲かるためにやってるんですよ。この体育祭だってそうです。学校の宣伝じゃないですか。そんな策略に踊らされた何も考えない連中が、汗を搔くのが青春だ、若者なら恋をすべきだ、とか、そんな一方的な価値観を押し付けてくるんですよ。俺は、そんなのに加わりたいとは心底思わないですね」
今日は随分よくしゃべるなと、詩乃は思った。そんな様子が愛理とは違った意味で一年生の後輩らしい。詩乃の表情は、自然と柔らかくなっていた。
「この本も、無駄だったかな」
詩乃は、目の前に置いた部誌の裏表紙に目を落としながら言った。
井塚は、一瞬ギクっとしたような表情を見せた。
「まぁ……俺はこれで、今年のノルマも達成したので、無駄ではなかったですね。先輩も、これでノルマ達成じゃないですか」
良かったですねと、井塚は言った。
井塚の皮肉や憎まれ口を愛理は嫌うが、詩乃は逆に面白がっていた。その人間が何を嫌うのかを知らなければ、憎まれ口も叩けない。そこへゆくと、井塚はなかなか、自分のことをわかっているのかもしれないなと、詩乃は思うのだった。
「井塚君さ――」
「……なんですか?」
井塚は、ついに開戦かと身構えた。
「文芸部で、合宿しようか」
「は、はい?」
「今年は活動費も出るし、場所は、やるならいい所があるって神原先生に言われてるから、折角だし」
「……文芸部が合宿する意味って、というか、そもそも合宿する意味って何なんですか。三百六十五日分の数日だけ一緒に過ごして、それで何か変わると思いますか? 修学旅行とかもそうですけど、あれって、大人の自己満足じゃないですかね」
今日の井塚は良いなと、詩乃は思った。口調も、いつもより早口で、何かに必死になっている。そしてその「何か」というのが何なのか、詩乃にはわかるような気がした。自分と井塚との決定的な違いはソレなのだ。井塚は合宿を「意味が無い」と言っている。でも心ではそう思っていない。むしろ井塚はきっと、その「意味」というやつを、見つけたいと思っているのだろう。
「――降ってきたね」