照らされて降る雨(5)
柚子がやって来たのに美祈はすぐに気づいた。
「あ、新見先輩」
「千葉ちゃん、お疲れ様。なんかもう、だいぶいいねぇ」
ありがとうございます、と美祈は照れる。
人工芝に座って休んでいる美祈グループの生徒たちは、柚子が来たことで、練習のこととはまったく別種の緊張を覚えた。
「皆もお疲れ様」
柚子が皆に向かってそう言うと、生徒たちは、男子も女子も、その笑顔にうっとりしてしまって、まともに返事ができなかった。その中の一人、愛理は、お姫様を前にした平民の図を頭の中に思い浮かべていた。見た目にはそこそこ自信のある愛理も、下は体育着のハーフパンツ、上はマスゲームのオレンジ色の練習Tシャツ――同じ装いをしていることに、罪悪感すら覚えてしまう。
柚子は、何気なく愛理の座っている横に腰を下ろした。
「三島さん、文芸部だよね?」
こそっと、柚子は愛理に声をかけた。
まさか柚子から話しかけられると思っていなかったので、愛理はドキリとしてしまう。
「は、はい! 文芸部です!」
「文芸部いいよねぇ」
「そ、そうですか!?」
ダンス部のほうが断然イケてるんですけど、と愛理は思った。
「先輩、でも、なんで知ってるんですか? 私なんかの部活。それに名前!」
「マスゲのメンバーだもん、名前くらい知ってるよ。それに文芸部は、好きなんだ」
「メンバー全員覚えてるんですか!?」
「ま、まぁ、これでもマスゲ長だからねぇ」
にこにこと、柚子は答える。
愛理は、二年生や三年生の柚子に対する態度の秘密が、今はっきりと分った。
新見先輩は、容姿に恵まれているだけではない。新見先輩は、性格美人なのだ。先輩風も吹かせないし、奢ったところもない。たぶん、愚痴とか他人の悪口とか、言わないタイプなのだろう。看板に偽りなしだ。見た目通りの中身、中身通りの見た目――嫉妬心すら湧いてこない。なるほど、新見先輩が皆から、同学年の生徒からさえもお姫様扱いされている理由が良くわかる。
その新見先輩が、今さっき不思議なことを言った気がする。
文芸部が好き?
聞き間違いだったかな、と愛理は首を傾げた。文芸部は、部活の中でも認知度はかなり低い。そのことは、入学してまだ二月の愛理も実感していた。そんな文芸部を、この新見先輩が、知っている? しかも、好き? どういうことだろうか。
「文芸部、好きなんですか?」
愛理が訊ねると、柚子はこくりと頷いた。
「部長の水上君、去年同じクラスだったんだ」
そう言われて、愛理は困惑してしまった。新見先輩と水上先輩が同じ空間にいるというのがどうにも想像できないが、去年同じクラスだったからといって、それが一体何なのだろう。二人の間に、何かあったのだろうか。二人は実は、仲が良いとか――いやいや……。
「……へぇー、そうなんですか!」
「そうそう」
どうして新見先輩はこんなに笑顔なのだろうかと、愛理は思った。ちょっと、不自然な気もする。愛理がそんな違和感を抱いているうちに、柚子の口が開いた。
「水上君、どう?」
「え、先輩ですか!?」
愛理は、驚いてしまった。新見先輩の口から『水上君』という言葉が出てくると、その意外性だけで、びっくりしてしまう。そしてこの、『どう?』とはどういう意味なのだろう。
愛理はとりあえず、思ったことを答えた。
「うーんと……怖いです」
「怖いの!?」
柚子は少し驚いて、それから、くすくすと笑った。
「何考えてるかわからないんですよねぇ。急に不機嫌になったり、いきなり部室出て行ったり、活動出てこなかったり……」
そうなんだ、と柚子は楽しそうに相槌を打った。
その笑顔が、どうにも単なる知人に対するものではなさそうだと愛理は思った。去年同じクラスだった、というだけの男子生徒の様子を聞いて、ここまで甘みの強い反応をするだろうか。
「新見先輩、水上先輩と、友達だったりします?」
「友達ではないかなー」
にこにこと、柚子は答える。
愛理は首を傾げる。友達ではないということは、知り合い? やっぱり、単なる元クラスメイト? でも、じゃあどうして、文芸部が好きなんて言うのだろう。愛理の頭は、いよいよこんがらがってきた。
「あのさ、愛理ちゃん――」
柚子が、愛理にもう少し詩乃のことを詳しく聞こうとした時、ブレザー姿の男子生徒がやってきて、柚子に声をかけた。お馴染みの制服のブレザーだが、このマスゲームの練習の場では、それがかえって異彩を放っている。金のネクタイ止めが、照明の明かりにピカピカ輝いている。そんなネクタイ止めをしている生徒は、茶ノ原高校でも一人しかいなかった。ピアノ部のエース、ジャズ兼のリーダーでもある、橘昴である。
「休憩中?」
昴は、座っている柚子を見つめて言った。
その昴の甘い声と眼差しに、ドキリとしてしまったのは、柚子ではなくむしろ愛理だった。女への気持ちを、隠すことなく表現できる男は稀だ。愛理は一目でわかった。橘先輩は、新見先輩が好きだ。好き、というより、落とそうとしている。自然体で狙っている女の子に話しかけるなんて、こんな芸当、高校生ながらできるのは、橘先輩くらいだろう。そういう自信がまた、橘先輩を魅力的にしているのかもしれないと愛理は思った。
二人は噂の通り、すでに付き合っているのだろうか?
見た目には確かに、二人が言葉を交わしているだけで、その空間が恋愛映画のワンシーンのようになる。
「あれ、どうしたの?」
柚子は、不意にやってきた昴を意外に思って首を傾げた。
昴は、微笑を浮かべながら、軽く頭を掻いた。
「見に行くって言ったの、忘れてた?」
「あ! そっか! ごめんごめん、そうだったよね」
柚子はそう言うと立ち上がった。
「えっと、全体で合わせるのは、あと三十分くらい練習してからだけど――」
「じゃあ、先に曲のチェックをしよう」
「え! もう編曲作業終わったの!?」
「まぁ、一応ね。今日新見さんの意見を聞いて、またちょっとずつ変えるよ」
そんな話をしながら、柚子と昴は、グランドを横切って歩いて行った。二人の並んで歩く後姿を眺めながら、愛理は、これ以上ないお似合いのカップルだな、と思った。
けれど少し、付き合っているにしては距離がある様に愛理は思った。
「新見先輩と橘先輩、付き合ってるのかな?」
「やっぱりそうなのかな? めっちゃお似合いだよね」
「ね、ちょっとオーラで近づけないよね」
「そうそう――あっ、すみません……みたいなね!」
近くで、そんなやり取りをして秘かに盛り上がる生徒の話し声が愛理の耳にも聞こえてきた。
柚子と昴の噂は、六月に入ると、一気に多くの生徒の話題に上るようになった。二人が一緒にいる場面は、どこを切り取っても絵になる。そしてその「二人でいる」という場面を、六月の体育祭時程になってから、多くの生徒が目撃するようになった。そのことが、この噂に拍車をかけた。
柚子が、よくわからない地味な同級生と付き合っている、という一昔前の噂は、いつの間にか「付き合っていた」という過去形で、ゴシップ好きの多くの生徒の間に、新しい噂に付属するツマ程度のこととして、広まっていた。いつの間にか詩乃は、柚子の過去の男になっていた。
六月は文芸部も忙しかった。体育祭の日に部誌を出すためには、作品自体は、その十日前には、すでに完成していなければならない。製本までに七日から十日は最短でもかかるためである。
詩乃はすでに、五月の段階で体育祭用の短編は完成させていたので、六月はもっぱら、部室にいて後輩の短編に助言を与えたり、添削をしたりしていた。一応は部誌なので、作品として、読めるくらいには後輩の分も仕上げなければならないという責任を、詩乃は持ち始めていた。
しかし詩乃にとっては、その忙しさが救いだった。ダンス部もマスゲーム団も、毎日活動をしている。新見さんがそんなに頑張っているのに、自分は大した活動もしてないというのは、かえって落ち着かない。相変わらず詩乃は、柚子とは昼食だけ一緒に食べる、彼女というより食事友達のような関係になりつつあったが、だからといって、柚子の事が嫌いになったわけではなかった。「好き」につきまとう独占欲との折り合いを、ただ付けられずにいた。詩乃は、自分でも思っていた以上に、二人が多目的ホールで一緒にいた光景にダメージを受けていた。それに加えて、二人の噂である。
――どうやら二人は、一緒にいる時が多いらしい。
詩乃も、頭ではわかっていた。新見さんは人気者だから、男子は放って置かない。イベントのたびに告白されるような女の子である。だから今回も、それと同じだ。
しかし頭ではわかっていても、心は、なおショックを受けたままだった。柚子と昴がどうの、ということよりは、それを発端として、新見さんを失うかもしれない、また大事なものを失うかもしれないというその漠然とした、それでいて決定的なような恐怖が詩乃の中に生じて来て、そうすると詩乃はもう、寒さに耐えるかのように、一人でじっとしていたくなるのだった。
柚子と昴の噂は、赤組マスゲーム団の愛理のせいで、ほとんど毎日のように、文芸部の部室にもたらされた。健治が柚子の事になるとアイドルの追っかけのような言動をするので、愛理はそれを面白がって、あえて柚子の話題を健治に聞かせていた。
今日も橘先輩と一緒にいましたよ、と、たった一言だけの日もあったが、愛理はその一言が、健治よりも詩乃に効いていることは全く知らなかった。詩乃は、柚子を失うかもしれない恐怖や、昴に対する敗北感や嫉妬、そして自分の気持ちがコントロールできない苛立ちを、部誌の作業に没頭することによって発散させていた。そうすることで、少しずつではあったが、柚子と昴のことも、冷静に考えられるようになってきた。詩乃も、次に柚子に会う時には、少しはちゃんとした自分でいたいと思っていた。
そんな詩乃の苦悩とは裏腹に、文芸部の後輩たちは、六月に入って詩乃が毎日丁寧に作品の添削や助言をしてくれるので、少しずつではあったが、詩乃に心を開くようになってきた。怖いには怖いが、実は、すごく優しい所もあるのかもしれない。そんな風に思うようになっていた。