照らされて降る雨(4)
翌朝、三年E組前の階段で、愛理は詩乃が来るのを待っていた。詩乃はいつも通り、授業の始まる数分前にやってきた。そこで、愛理は、ペコペコ頭を下げながら、十枚の作文用紙を入れたクリアファイルを詩乃に差し出して言った。
「すみません先輩、どうかクビだけは勘弁してください!」
林間学校の作文である。
昨日から今日にかけて、何とか作って来たらしい。
やれやれと、詩乃はクリアファイルを受け取った。
「別に雇ってるわけじゃないんだからいいけどさ」
詩乃が言うと、愛理は恐る恐る顔を上げた。
愛理は眉の切れ上がった気の強そうな目鼻立ちをしているが、詩乃の前では、その気の強さは全くなりを潜めてしまっている。
「部誌は締め切り遅れると印刷間に合わないんだからね」
「まことに申し訳ございませんでした!」
愛理は、勢い良く頭を下げた。
周りの三年生のくすくす笑いが聞こえてくる。詩乃はため息をついて、愛理の頭を、クリアファイルで軽く叩いた。
「まぁ、愛理が提出期限守らなさそうなの、何となく予測はしてけど」
「そうなんですか……」
何とも言えない困惑顔の愛理を見て、詩乃は小さく笑った。
愛理からすると、やはり詩乃は、何を考えているかわからない先輩だった。怒っていそうで怒っていない、かと思えば、急に衝撃的な一言を言ったりする。今も、許されたのか、許されていないのか、愛理には判断がつかなかった。笑ってくれているからといって、それが許されたことになるかどうかは、水上先輩の場合は全くわからない。
「授業始まるよ」
「あっ、はい! あの、よろしくお願いします!」
愛理はそう言うと、一目散に、一年生教室の方へと走っていった。
二人のそのやり取りを、朝練を終えて教室にやってきた柚子は、ちょうど見ていた。前にも朝、同じようなことがあった。その時も水上君は、あの子のことを、「愛理」と呼んでいた。
もう本鈴がいつ鳴ってもおかしくない時間だったが、柚子は我慢できずに、詩乃のもとに駆け寄った。
「水上君、おはよう!」
詩乃は突然背中から声をかけられたので、驚いて振り向いた。
やけに元気の良い、オレンジのTシャツ姿の新見さん。思わぬ遭遇に、詩乃はやはり、ドキリとしてしまう。
しかし次の瞬間、詩乃の脳裏に昨日の多目的ホールでの光景がフラッシュバックした。映像だけではない。あの時の音――ピアノの音、二人の一緒に歌う歌声、そして、雨の音。雨に濡れている時のあの冷たさと、頬や腕を流れ落ちる雨水の温さ。全てが一瞬にして思い出されてくる。
詩乃は、一挙に押し寄せてきた感覚と感情に翻弄され、立ち竦んだ。
目の前に新見さんがいる。
しかし詩乃の見ている柚子は、昨日の、昴と一緒にいる時の柚子だった。
「どうしたの、大丈夫!?」
柚子は、詩乃の顔を覗き込み、詩乃の肩に触れながら言った。
柚子は、愛理のことを聞こうと思っていたが、詩乃の様子が明らかにおかしいので、それどころではなくなってしまった。
柚子に触れられて、詩乃は、今ここにいるという感覚を取り戻した。
詩乃は咳き込むように息をして、「おはよう」と、喉の奥から絞り出した。
「体調悪い? 保健室行こうか?」
「……大丈夫。何でもないよ」
はあっと、詩乃は息をゆっくり吐き出した。そうして、自分のことを心配そうにのぞき込む柚子の顔を見た。目が合って、詩乃は思わず笑ってしまった。
「そんなに心配しないで大丈夫だよ」
「心配するよ!」
柚子が怒って言った。
柚子から見れば、詩乃は、過呼吸のような状態に映っていた。瞳孔は開いていたし、呼吸も浅く、今だって「大丈夫」と言いながら、走ってきた後のような汗を掻いている。
一時間目の本鈴が鳴り始めた。
「ほら、一時間目始まるよ」
「授業どころじゃないよ……」
柚子は、泣きそうな目で詩乃を見つめた。
「大丈夫だから」
詩乃はそう言うと、無理やり柚子を納得させ、教室に戻った。実のところ、詩乃自身も、自分に起きたことを、理解できてはいなかった。ただ、ものすごく強烈な感覚に襲われて、何も考えられなくなってしまった。
「おは――ん!? 水上君、どうしたの? 何かあった?」
詩乃が教室のいつもの席に座ったところで、隣の席の千代は、詩乃に声をかけた。千代から見ても、詩乃の顔色は悪かった。千代からそう言われて、詩乃は、自分の状態が少しおかしいことを自覚した。頭痛と吐き気が、同時に襲ってきた。
「ちょっと、寝不足かも……寝てくる」
詩乃はそう言うと、一時間目の担当教諭が入ってくるのと入れ違いで教室を出た。そうして詩乃はそのまま、文芸部の部室に向かった。
柚子に会って体調を崩した朝の一件以来、詩乃は柚子と距離を取るようになっていた。
昼食は今まで通り一緒に食べたが、それ以外で、例えば放課後や休みの日に、一緒にどこか出かけようと誘われても、詩乃はそれを断っていた。
詩乃は自分でも、何がそうさせるのかわからなかった。
新見さんには会いたいと思うのに、いざ会う段になると、急に怖くなる。一緒に食べる昼食の時も、詩乃の気持ちは滅入ってしまって、会話はほとんど無くなっていた。柚子は、詩乃のそんな様子の変化を、もちろん感じ取っていた。今までも詩乃は、会話の途中で黙って考え込んでしまうことは多かったが、近頃の水上君の沈黙は、何かを考えている沈黙じゃない。
でもそれが一体何なのかは、柚子にはわからなかった。
ただ一つ心あたりがあるとすれば、それは、愛理のことだった。もしかして水上君は、あの子のことを、好きになってしまったのではないか。私というものがありながら、そういう気持ちが出て来てしまって、困っているのではないか。だからあの時、あの朝、私を見てあんなに慌ててたのではないだろうか。
疑い始めると、坂道を転げ落ちるように、不安の気持ちは大きくなっていく。
そんなことはない、水上君に限って、そんなことは――。
思えば思うほど、不安になる。
だけど直接聞いたり、鎌をかけたりするなんて、したくない。それじゃあまるで、私が水上君のことを信頼できていないみたいだ。私は、水上君のことを信用している。それは、間違いない。それなのにどうして、こんな気持ちになるのだろう。やっぱり私は、水上君のことを、信用しきれていないのだろうか。
五月中旬から六月にかけては、柚子は、いよいよ始まったダンス部とジャズ研の合同練習と、そして、六月から活動が始まるマスゲーム団の活動準備に追われた。しかしその忙しさから少し離れると、柚子は詩乃のことを考えて、自己嫌悪のループに陥ってしまうのだった。
――水上君、私の事嫌いになっちゃったのかな。
そう思って、夜は一人で泣く日が続いた。
六月に入ると、学校は体育祭モードになる。部活動は四時半から最長で六時半まで。閉門も九時までと長くなる。部活前と部活後が体育祭準備の時間となるためだ。応援団、マスゲーム団、そしてマスコット神輿団の三団体も、この時間を使って活動する。
文芸部では、健治も愛理も抽選を通り、希望する団に入ることができた。
詩乃は今年も、体育祭には須藤教諭推薦の〈特別な〉保健委員として参加することが決まっている。須藤教諭推薦の〈特別な〉保健委員は、体育祭の成功を支える裏方として非常に重要な戦力なので、それに選ばれた生徒は、無理に競技に参加しなくても良い。その立場を利用して、詩乃は、どの競技にも出場せず、また、体育祭のために結成されたどの団体の活動にも参加はしないことにしていた。
平日、六時間目が終わってから部活動の始まるまでの時間は、屋上から聞こえてくる応援団の掛け声や太鼓の音を聞きながら、部活の後は、薄暗闇の窓の奥、グランドから聞こえてくるマスゲームの音楽を聞きながら、詩乃は部室で創作活動に没頭した。
部活動は六時半までとなっているが、文芸部が何時まで部屋を開けていようと、気にする生徒も教師もいず、生徒会も関知していなかった。愛理と健治はそれぞれマスゲーム団と応援団の練習があるので、六時半になると部室を後にした。他の部員は、六時半以降も特に体育祭の活動が入っているわけではなかったが、愛理と健治が部室を出ていくのに便乗して部室を出た。その後は、そのまま帰宅する日もあれば、マスゲームや応援団の練習を見に行ったり、部員同士ファミレスでお茶をしたりすることもあった。つまるところ、詩乃と同じ空間にいる緊張感には、誰も耐えられなかったのだ。
六月も、最初の一週間はあっという間に過ぎていった。
体育祭の活動がスムーズに回り始めるのは、毎年二週目あたりからである。
六月二週目の火曜日――。
その日の赤組マスゲーム団の練習場所はグランド。照明の灯った人工芝のサッカーコートの半面に、百人のマスゲーム団の団員が集まっている。もう片側は、青組のマスゲーム団が使っている。
赤組のマスゲームダンスの指導を行うのは柚子や千代をはじめとした赤組に所属する二、三年生のダンス部や社交ダンス部の生徒である。百人いる生徒を十グループに分け、それぞれにリーダーを決めて教えさせる。柚子は、今回の赤組マスゲーム団のリーダー、通称〈マスゲ長〉なので、全体を見渡し、サポートが必要なグループを転々としている。とはいえ、今の所、サポートが必要なグループもなく、柚子は、徐々に上達していく皆の様子を見て、それを褒めるくらいしか仕事はなかった。
そこで柚子は、愛理に声をかけてみよう、と決心した。
柚子は、団の名簿に愛理の名前を見つけた瞬間から、絶対どこかで声をかけてみようと決めていた。活動が始まって最初の一週間は、練習の流れを作ったり、各グループで何かやりにくさは無いかなどを見るのに神経を使っていたので、愛理と話す余裕はなかった。
でも今なら――と、柚子はそう思った。
愛理のグループのリーダーはダンス部の二年生、千葉美祈。ダンス部でも相当に踊れる方で、来年の部長か副部長だね、と皆には言われていた。ショートカット、はきはきとものを言うタイプで、柚子のような柔らかさはないが、無駄なことを言わないので、その点で、ダンス部の先輩からも信頼されていた。
「うん、良くなった。愛理、一回目のジャンプから二回目のジャンプまでの所、左じゃなくて、右周りだからね」
「は、はいぃ、すみません」
きびきびとした美祈の指導に、女子四人、男子五人の美祈グループの生徒たちは、緊張を覚えながらも、他のグループより一歩も二歩も進んでいることに優越感も感じていた。その指導の合間、休憩時間を見計らって、柚子はそのグループの輪の中に、ひょこっと登場した。




