照らされて降る雨(3)
部室を出た詩乃は、CL棟の玄関で柚子から貰ったスニーカーに履き替えた。
傘立てから自分のビニール傘を取って、ほっと息をつく。
昇降口を出ると、雨水の飛沫を含んだ風が詩乃の頬を冷ました。
詩乃は暗い空を見上げ、傘を開いた。
ビニールにぶつかる雨の音。
その奥に、詩乃は柚子の顔を思い出した。
別に、避けられることは嫌じゃない。怖がられたって、どうでもいい。ズカズカと土足で自分のスペースに入り込んでこられるよりは、勝手に避けていってくれと思っていた。それなのにどういうわけか、たぶん、新見さんと一緒にいるようになってからか、気を許せるかもしれないと思える相手が出てきた。そういう相手に避けられるのは、嫌だと思うようになった。
――あんなに怖がらなくてもいいじゃないか。
詩乃は、部員たちの反応を思い返し、ため息をついた。
そして、自分にとって新見さんは、やっぱり特別なんだぁと自覚する。
ちゃんと話を聞いてくれる、寄り添ってくれる。それを人間関係の「あたりまえ」という人もいるけれど、自分にとってはそうじゃない。血のつながった実の父でさえ、まるで他人の様なのに。新見さんはどうしてあんなに、自分に懐いてくれるのだろう。
――会いたいな。
詩乃は不意に、そんな気持ちが湧いてきた。そうして、気づいた時には、詩乃はダンス部が練習をしている体育棟に向かって歩き出していた。
茶ノ原高校の体育棟は二階を観客席にした巨大な吹き抜けのアリーナを持った総合屋内運動施設である。区営のスポーツセンターにも勝るとも劣らない。地下には弓道場、一階には剣道、空手、柔道の稽古部屋と部室があり、二階にはジムと卓球場、そして多目的ホールが二つある。ダンス部は、二階の多目的ホールのうちの一つをメインの練習場所としていた。片一方の壁一面に大型鏡が並べてはめ込まれ、ダンスホールとして申し分ない。
その多目的ホール――ダンス部の練習場ではこの日、三年生と、セレクトされた二年生による、ジャズ研とのコラボの模擬発表が行われていた。電子ピアノ、ヴァイオリン、エレキギター、フォルドラムの生演奏で、三年生と、二年生の半数ほどがこの模範演技でダンスを披露する。去年の夏祭りでは、ダンスの発表グループは三つだったが、今年は四グループ分けで、それぞれの部員が一曲ずつ、ダンス部としては計四曲を披露する。ジャズ研はそれぞれの楽器に二人奏者がいるので、一人二曲の割りあてになっている。
一年生と、発表に出ない二年生は、ダンスルームの入口あたりに固まって座った。鏡は鬱陶しいということで、全て引き戸で締め切られ、ジャズ兼の演奏者は窓を背に楽器を並べ、その楽器の前に、ダンサーの踊るエリアを作る。観客の生徒に交じって顧問の阿佐教諭と、そして珍しく、外部指導員のジョルジが時間通り現れて、その見学スペースに混ざった。
本番さながら、四曲通しでの発表。
この日のために、ここに出る部員たちは、四月はほとんど毎日、部の活動が無い日も集まって練習をしていた。茶ノ原高校では、週に五日以上の練習はどの部活も表向きは禁止されている。しかしダンス部の三年生にとっては、これが最後の半年である。毎年のことだが、学校の規則に生真面目に従って練習時間を制限している三年生は、この時期になると一人もいなかった。二年生も、それを苦と思わない生徒は、それに加わって、練習をしていた。
『Beat It』、、『The Show Must Go On』、三曲目は『Billie Jean』、最後は『Lose Yourself』。マイケルジャクソンではない曲が二曲も混ざっている。しかし、ジョルジは熱狂していた。特に『Lose Yourself』は、部長がダンスをしながら歌も歌う。難しいラップだったが、生演奏と相まって、これが本番でも誰も文句は言わないだろうという、凄まじい迫力があった。
四曲が終わった後、ジョルジはスタンディングオベーションで奇声を発し、見学していた部員たちは、感動と不安でぼろぼろ泣いていた。踊り切った二、三年生は息も絶え絶えという感じで、発表をした二年生は、自分のやらかした小さなミスに対して悔しがった。
体育の授業でも三年間ダンスを教え、社交ダンス部は全国区、そんな茶ノ原高校のダンス部も、やはり流石だった。ダンス経験のない顧問の阿佐教諭も、素人ながら、年間通して幾度となくその、ダンス部のすごさを体験していた。こんなのを入部から一月ちょっとの内に見せられたら、そりゃあ不安で、一年生も泣くわよねと、阿佐教諭は一年生に同情してしまうのだった。
「お疲れ様、新見さん」
泣いている後輩たちに明るく声をかける柚子に、ジャズ研のリーダーでありピアノ部の三年生、橘昴が声をかけた。
「あ、橘君もお疲れ様。すごく踊りやすかったよ」
柚子は、ふんわりと、いつも通りにそう言った。
柚子と昴は、コラボステージが決まった時点から、すでに何度も打ち合わせをして、一緒に練習もしていた。それが、今日の成果につながった。昴の音に関する才覚は誰もが認めるところで、今回のコラボステージでも、ダンス部のダンスが引き立つように、音楽のテンポや音量、編曲などの細かい部分を調整する司令塔になっている。
「いやいや、新見さんも大したものだよ。僕にはあんな風に体は動かせない。いつ見てもあの、ムーンウォークというのはすごいね」
にこやかに、昴が言った。
「ありがと」
柚子はにっこりと笑顔で礼を言うと、女の子の後輩の頭を撫でた。
「――大丈夫、大丈夫。私も一年生の頃は全然だったんだから。のんびりやっていこうよ。ね、一緒にがんばろ」
後輩たちの話を聞きながら、前向きな言葉をかける柚子。
ダンス部部長の号令で、曲ごとのグループ練習になった。ジャズ研の面々は、ダンス部の各グループの必要に応じて、音を鳴らした。昴はもっぱら、柚子の『Billie Jean』のグループのためにピアノを弾いた。細かいことよりまず踊れ、というジョルジのダンス哲学そのままのような練習風景。ジョルジも、グループを回りながら、ダンスを見せたり、振りのアドバイスを三年生にしたりした。
一時間半ほど練習をして、すっかり日も落ちた。
グループごとの解散となる。
柚子は最後まで残って、練習をしている後輩に付き添った。ジャズ研の面々も、楽器を片付け、各々ダンスホールを後にしてゆく。しかし昴だけは帰らず、電子ピアノも片付けず、柚子が後輩の練習に付き合っているのを、ピアノを前に座りながら、眺めていた。必要な時には音を出してサポートする。
「ごめんなさい……」
最後に一人残った一年生は、中々ダンスのワンフレーズが呑み込めず、柚子と昴に付き合って貰っている事への申し訳なさもあって、しまいには座り込んで、泣き出してしまった。柚子はその隣に座って、背中を撫でで慰めた。
「大丈夫だよ。今日全部やることないんだから。この調子なら、絶対大丈夫だから」
柚子の言葉に、一年生は頷く。しかしそれでも、悲しい気持ちと不安は治まらない。そしてまた、疲労困憊でもあった。開けた窓から風が吹いてきて、その冷たさに、柚子は顔を上げた。いつの間にか、雨が降り始めていた。
「楽しいことを思い浮かべてごらん」
昴が、柚子とその後輩に言った。
ポン、ポンと、昴はピアノの音を響かせ、いたずらっぽく二人に笑いかけると、鍵盤をはじいた。美しく楽しい曲――昴が弾き始めたのは、『My favorite things』だった。自然と、一年生の涙も引っ込み、柚子も笑みをこぼす。昴は柚子に目配せをして、踊りだしたくなるようなリズムをフロアに響かせた。
――多目的ホールの外には、柚子を訪ねてやってきた詩乃がいた。
詩乃は一瞬ホールの中を覗き込んだが、すぐに顔を引っ込めた。
新見さんが、知らない男子と一緒にいた。ただ一緒にいただけではない。優しい笑顔を、ピアノを弾いているその男子に向けていた。ただそれだけのことなのかもしれなかったが、詩乃の本能が、嫌な予感を告げていた。
詩乃は昴とは面識もなく、顔を合わせた記憶もなかった。しかし一瞬見ただけで、昴が自分とは住む世界が違う人種であるということがわかった。
あぁ、そうか、あの男が、〈橘王子〉なんだなと、詩乃は直感した。
心地よい低い声の歌声。ピアノだけでなく歌までうまいようだ。
「歌える?」
「うん、ちょっとなら知ってる」
「一緒に歌おう」
昴と柚子のやりとりが伴奏の間から聞こえる。
新見さんを失うかもしれない――そんな不安が詩乃の脳裏によぎった。その途端、詩乃は急に怖くなって、多目的ホールの前――廊下にできた四角い扉型の明かりから、一歩、二歩とあとずさった。
二人の声が、重なって一つの歌を歌い始める。
詩乃はそれを聞いた瞬間、急な吐き気を覚えた。
――また自分の前から、大事なものが消えてゆく。
詩乃は堪らず、胸を押えながら階段を降りた。
傘を掴み、逃げるように体育棟を出る。
昇降口を出た詩乃は、傘も差さないまま、ぱっと体育館を振り返り見上げた。
二階の、多目的ホールから暖かな明りが漏れている。その明かりが、雨の筋を照らしている。
詩乃は、あの明るい部屋、幸せそうな空間に、自分は入ってはいけないような気がした。
詩乃はやがて傘を差し、誰にも見つからないように、学校を出た。




