照らされて降る雨(2)
新見さんはそんなに知名度があるのかと、詩乃は内心驚いた。学校内の情報に敏感そうな愛理はともかくとして、健治や由奈は、そういうタイプでもない。それでも名前を知っているということは、学校の有名人じゃないかと、詩乃は改めて認識させられた。
「私まだ見たことないんですよねぇ。去年文化祭来たんですけど、その時ステージで見たくらいで――」
「めっちゃ可愛いよ」
健治が言った。思わず、詩乃が照れてしまう。
「え、ケン先輩、しゃべったこあるんですか?」
「ないけど、一回だけすれ違った事ある」
ぶふっと、愛理は噴き出した。笑うなよと、健治はムキになる。
「でも確かに、私ダンス部に友達いるんですけど、本当に可愛いって言ってました。でも、ちょっと近寄りがたいみたいですよ」
「実は性格悪いとか?」
健治が訊ねると、愛理は首を振った。
「それが性格もいいらしいんですよ。でも、存在が高嶺の花だって。一度は話してみたいですよねぇ、新見先輩とか、あと、橘先輩とか!」
びくっと、今度こそ詩乃はわかりやすく反応してしまった。
急に詩乃が動いたので、ちらりと、愛理は詩乃を見た。
詩乃は慌てて視線を落とし、小説の構想でも考えているふりをした。
「橘先輩って、王子先輩の事?」
今度は、花依が反応した。
「そうそう、橘王子」
「絶対攻めだよね!」
「知らないよ!」
いきなりBLトークに突入しようとする花依を、愛理が止める。花依は、趣味で持っているBL小説の専門サイトが秘かに流行ってきていて、その小説の腕を磨きたいということで、文芸部に入った口だった。――でも、橘先輩ってそういう作品に出て来てもおかしくないよねと、由奈が花依の話を拾う。そこからは、女子三人のとりとめのない、男子にすればかなり刺激的な話が展開される。
その話を、詩乃はそれとなく、しっかり聞いていた。
橘昴――ピアノ部の部長でありジャズ研のリーダーをしている。少数精鋭のピアノ部の中でも、昴は経歴も才能もとりわけ秀でている。指揮者の息子で、家柄も良く、その業界では有名な音楽一家の御曹司であり、そして何より、橘昴という男子生徒は、それらのものを背負っても押しつぶされない、恵まれた容姿をしているらしい。その甘いマスクの色香と怪しげな微笑に、これまで多くの女子生徒が恋に落ちてきた――とか何とか、女子三人の話を頭の中で要約し、詩乃は、頭を抱えた。
そんな男が、新見さんと一緒にいるのか、と。
「――そういえば、なんか噂あるんですよ。橘王子と、新見先輩が付き合ってるんじゃないかって」
愛理が、ついにその話を話題に上げた。
花依が、露骨に不満そうな顔をする。
「三島さんやめてくれ、新見先輩は、誰のものでも、ない……」
健治が、こぶしを握りながら言う。
「ケン先輩キモイいですって。――でも、ホントかわかりませんよ。ダンス部の子も、わからないって言ってました。なんか、ちょっと前は、違う人と噂があったらしい、とか言ってたし――」
「うわぁー、嫌だぁ! 新見先輩が男をとっかえひっかえするアバズレだなんて!」
健治が、勢いに任せてそんなことを口走る。
詩乃は、思わず大きめの咳払いをして、健治に一瞥やった。その瞬間、皆が詩乃に注目した。一瞬で、部室の空気がピリつく。まだ皆、詩乃のことは、怖い先輩と思っていた。
あぁ、やってしまったと、詩乃は内心思った。
別に、皆を注目させるような事なんて何もない。しかし、注目させてしまったものは仕方がないと、それっぽく連絡事項を伝えることにした。
「体育祭で部誌を出すから、皆、準備しておいてね」
前振りもなく突然詩乃がそう宣言した。
思わず、愛理が「えー」と声を上げる。しかしそれもつかの間、愛理は、思わず出てしまった声を飲み込み、両手で口を抑えた。そして詩乃を見て、「何も言っていません」と、首を横に振った。
詩乃は愛理から視線を外した。
お咎めなし、良かったと、皆の緊張が緩んだその瞬間、今度は井塚が口を開いた。
「それ、やんなきゃダメですか?」
ノートパソコン越しに、反抗的な目を詩乃に向ける。
「お前、頼むから余計なことは言わないでくれ」と、皆が井塚に目で訴える。当の井塚も、反抗してみたはいいものの、詩乃と目が合うと、その視線の鍔迫り合いに耐えられず、すぐに視線を詩乃の脇に外した。
詩乃は、特に井塚を睨んだりはしていなかったが、後輩たちは、詩乃が怒ったかと思った。実際には、詩乃は顎に手を当て、井塚のことを考えていただけだった。
井塚は、商業用のライトノベルを書いている。ネット小説サイトから見出されて書籍化に漕ぎつき、その功績で、茶ノ原高校に一芸で入学してきた。そういう意味で、詩乃はこの井塚という後輩生徒に、秘かにシンパシーを感じていて、こっそり気にかけていた。
「時間が無い?」
詩乃が質問すると、井塚は、ぶつぶつと小さい声で言った。
「無いってわけじゃないですけど……でも、意味あるんすかね」
詩乃は、眉間にしわを寄せた。
詩乃は〈意味〉とは何かについてただ考えようとしただけだったが、井塚も含めて、他の部員たちに緊張が走る。しかし井塚は、自分からふっかけた手前、今更詩乃の機嫌を取るために、態度を変えるわけにもいかなかった。
「――そもそも、部誌だって、何部出せとか、言われてないですよ。文化祭だけでいいじゃないですか」
畳みかけるように、井塚は詩乃に言った。
詩乃は机に肘をつき、目を瞑って考え込んでしまった。
確かに井塚の言う通りで、学校にも生徒会にも、そして芸術部連にも、年間の部誌の発行回数までは言及されなかった。当然、何ページ以上、というような〈質〉に関することも、特にノルマがあるわけではない。部としてのノルマを達成するだけなら、井塚の言うように、体育祭に部誌を出す必要はない。文化祭の一回だけで良いのだろう。
「――まぁ、部の活動方針なら、従うしかないですけど」
井塚は、言い過ぎたかと自省して、付け足す。
詩乃は井塚の言い分を最後まで聞き、それから、目を伏せた。そんな詩乃の態度は、まだ詩乃のことを良く知らない部員達には、恐ろしく映った。しかも、何も言わない。相当な不機嫌のために生じている無言と皆は解釈した。
詩乃はただ井塚のことを考えてた。
井塚も一芸入試で入ってきた生徒なので、在学中に部を辞めることは、たぶんできない。当然、部を潰すことも。だから、部長である自分が出した部の方針や企画には、なんだかんだ言っても、従って、参加しなければならない。でも、と詩乃は思う。そんなこと他の生徒よりも充分わかっているにもかかわらず、こうして、わざわざ部長の決めた決定事項に異議を申し立ててきた。そこに、井塚の本心があると詩乃は思った。
詩乃は、じいっと井塚を見つめた。
井塚は、詩乃からすぐにまた目を逸らした。
詩乃は、井塚以外の他の部員の顔にも目を向けた。皆、詩乃と目が合いそうになると、自信無さげに俯いた。何か、意見を求められると考えたのだった。
「私は、やります!」
上ずった声でそう言ったのは、愛理だった。
林間学校の前に痛い目を見ているのと、さっき不満の声をあげかけたことを、チャラにしたいと思っていた。
詩乃の言葉を待つ皆の沈黙。
さあっと、雨音が聞こえ始めた。詩乃は振り返り、窓を見た。明るい部室の外、窓の外はもう夕闇で、その向こうから、野菜を炒める時のような、しっかりした雨の音が聞こえてくる。
詩乃は再び皆の方を向き、それから愛理に視線を向けた。
「林間学校の作文の提出は、大丈夫だよね?」
詩乃に問われて、愛理は首を傾げた。
林間学校のあと、それを題材にした作文を書いてくるよう、詩乃は皆に言っていた。締め切りは今日までだったが、愛理以外の部員は皆、一昨日の活動の時に提出を済ませていた。
愛理は作文のことをやっと思い出し、口を開いた。
さあっと、血の気が引いてゆく。
「書いてない?」
「は――、いや、えっと……出します!」
愛理はそう言うと急いでペンを持ち、机に出していたA4サイズの原稿用紙束に向き合った。
詩乃はため息をついた。
詩乃は、大して怒ってはいなかったが、皆は詩乃のため息に戦慄し、急に真面目になって、愛理と同じように、ペンを持って机に向かった。
詩乃は、これ以上自分がここにいると、場の雰囲気が悪くなると思った。しかも愛理の作文が、一時間や二時間で完成するとも思えない。
「今日はもういいよ」
詩乃はそう言うと、一人さっさと帰りの支度をして、立ち上がった。スクールバックを引っ掴み、誰の止める間もなく部室を出ていく。詩乃が出ていった後、はあっと、皆は詰めていた息を吐き出した。
「頼むからちゃんとやってきてくれよ……」
「ごめんなさい……」
健治に言われ、愛理は謝りながら、作文の構想を考え始めた。




