照らされて降る雨(1)
五月のゴールデンウィーク明けの学校、一時間目の必修授業が始まる前は、休み明けの解放感がまだ生徒の中に残っていて、休み中何があったか、というようなことを、生徒同士でしゃべっていた。四月終わりから、この五月のゴールデンウィークにかけては、一年生、二年生が順番に林間学校に行っていたので、部活で先輩をやっている三年生は、そういった後輩たちの話題も出した。特に今年は、二年生の林間学校で幽霊が出たという幽霊騒動があり、その話題は、三年生の教室をもにぎわわせていた。
詩乃もこの日、いつもより十分ほど早く――つまり一時間目の予鈴の鳴る前に登校して来ていた。一時間目の必修授業も他の選択授業と同じように自由席だが、いつの間にかそれぞれの生徒の席は生徒の間で決まっていた。詩乃は、千代の隣である。そして千代の周囲の席の生徒は、もうすっかり千代との会話友達になっていた。
詩乃が席に着くと、千代は含み笑いを浮かべながら、詩乃に朝の挨拶をした。千代は、詩乃が柚子の家に行ったのを、柚子から聞いて知っていた。柚子は恥ずかしがって、その時の惚気話を話さないので、よっぽど良いことがあったのだろうと、千代は思っていた。
ところが、千代がその話を詩乃に振る前に、周りにいたクラスメイトの男子が、詩乃に訊ねた。
「水上って、新見さんと別れたの?」
男子生徒の問いに、詩乃は眉を顰めた。急に何を言い出すのかと思った。
しかし実は、その話は「急」なものではなかった。四月の中ごろから、秘かに、柚子に関する小さな噂が流れて始めていた。柚子とジャズ研のある男子が付き合っているのではないか、という噂が。
今年ダンス部は、夏のダンス発表をジャズ研と合同で行うため、その打ち合わせを、四月の頭から始めていた。ジャズ研のメンバーとダンス部の柚子が一緒にいるところを誰かが見て、それで、噂が流れ始めたのだ。
これまで詩乃がその噂を知らなかったのは、E組の生徒が、気を使って詩乃には直接そのことを聞かなかったからだった。噂の真偽に関する窓口は、E組の場合は千代だった。千代は当然、その噂を否定していた。しかし噂というのは、だんだんと、真実を飲み込むほどの信ぴょう性を持ち始めることがある。今回の柚子の噂も、その色を帯び始めていた。
「全然まだ付き合ってるでしょ、ねぇ、水上君」
千代が、詩乃をフォローする。
詩乃は、答えるつもりはなかった。そのことがお前とどんな関わりがあるんだと、詩乃は質問をした生徒にも、そしてその噂を弄ぶ生徒にも、怒りさえ覚えるのだった。だからそんな奴に、わざわざ説明してやる道理もないと考えた。
「なーんだ。いや、相手が王子だからマジかと思ったよ」
男子生徒はそう言った。
王子って誰だよと思いながら、詩乃は無言を貫いた。
しかしその詩乃の反応さえ、噂のトッピングされてゆく。彼氏の方が、噂を否定しなかった、と。千代が何を言った所で、当人である詩乃が黙んまりなので、噂は本当なのではないか、という疑惑と好奇心の混ざった変な空気が流れる。
一時間目の授業の後、千代は、さっさと教室移動をしようとする詩乃を呼び止めた。千代は、噂を野放しにしていたら不味いような気がしていた。そして千代自身も、詩乃が何も言わないことに、小さじ一杯分ほどの疑念が、心に持ち上がっていた。
本当は、実は、噂の通りなの?
ということは、柚子は見栄を張って、まだ付き合っているようなそぶりを自分に?
――柚子の事を良く知る千代は、自分で考えておきながら、ありえないと思った。柚子は、そういう子ではない。しかし、つまようじの先ほどの疑念でも、疑念は疑念だった。
「ねぇ、水上君」
「うん?」
「柚子の家、行ったんでしょ?」
まだ付き合ってるんでしょ、という質問を言い換えて千代は詩乃に訊ねた。詩乃も、今は千代と二人なので素直に答えた。
「うん」
あっさり肯定するので、千代は拍子抜けしてしまった。一瞬でも疑問を持った私が馬鹿だったと千代は思った。
「ど、どうだった?」
え……と、詩乃は固まった。どう、とは何がだろうかと思った。千代も詩乃に聞いたあとで、私は何を、ぼやけたことを聞いているんだと思った。
「新見さんに聞いてよ……」
そりゃそうだと千代は苦笑いを浮かべた。
「王子って誰?」
詩乃は、千代に訊ねた。千代は早口で答えた。
「ピアノ部の――ジャズ研の三年生だよ。人気があるから〈王子〉とか呼ばれてるみたい。本名は橘君って言うんだけど」
「ふーん……」
詩乃はぼんやりと相槌を打って教室を出た。
廊下を歩く詩乃は、胃のむかつきを覚えていた。
ダンス部が、ジャズ研と夏のコラボステージに向けて練習をしていることは知っていた。ダンス部の三年生とダンスの部の中でセレクトされた二年生は、ジャズ研との本格的な合同練習に先んじて、すでにジャズ研と合わせの練習を始めている。加えて柚子は、今年の体育祭では赤組のマスゲーム団のリーダー、通称〈マスゲ長〉をすることが内定していて、その曲選びや振り付けなども、その時に、皆の助けを借りながらやっているのだという。そういうことは、詩乃は柚子から聞いて知っていた。
しかし、その〈王子〉とあだ名される男子生徒のことは、一言も聞いていなかった。そんな噂になるような生徒がいるということは。
詩乃は、どうにも気になったが、そのことを千代や、柚子本人にあまり聞きたくはなかった。自分の醜い感情を晒してしまうようで、嫌だった。結局詩乃はその噂を知ってから十日あまりの間、胸やけのような不快感を心に感じながら過ごした。その間にも、柚子とは三度、昼食を共にしたが、詩乃は、そんな噂など知らないという風を装った。柚子も、噂については何も言わなかった。柚子にとってみれば、自分の恋愛がらみの噂は常に誰かがしているので、ちょっとのことでは気にしなくなっていた。
五月も三週目に入り、文芸部は、その週末の金曜日に親睦会と称して、皆で食事に行くことになっていた。
文芸部の中では最も情報通の愛理が、他の部活動の親睦会の情報を手に入れてきたのだ。
茶ノ原高校付近の食べ物屋では、五月末頃まで、高校生の団体客の割引というのをやっている所が多い。高校名と部活・サークル名を言って予約すると、三割程度負けてくれる。茶ノ原高校の新入生歓迎会や親睦会では、そういった店を利用するのが通例で、部活ごとに、使う店まで決まっていた。文芸部は一度部として潰れているので、そういった伝統の一切は伝承されていなかった。
そういった情報を手に入れた愛理は、先輩、是非文芸部でもやりましょうよと、提案した。その提案に乗っかったのは二年生の新入部員である杉崎健治と同じく二年生の常磐由奈だった。詩乃は、そもそもそんな会を開くつもりはなかったので、やるなら好きにしていいよと、自らガリ勉を称する健治に会を丸投げしていた。そうして、詩乃の知らない所で、親睦会の店や日取りが決まっていった。店は、学校から歩いて数分の所にある焼き肉屋に決まった。
親睦会を二日後に控えた週中水曜日の部活動。
明後日は焼き肉だと、皆の気持ちも高揚していた。そしてちょうどこの日、体育祭の目玉であるマスゲーム団、応援団、マスコット神輿団の各団への参加申請の用紙が、生徒に配られた。イベントを売りにしている茶ノ原高校には、行事がしたくて入ってくる生徒が圧倒的に多いので、この主要三団へ参加できるかどうかは、毎年、最終的には抽選での決定になる。募集人数に対して、参加希望者が多すぎるのだ。
団には参加するのか、という話題が、早速文芸部の一、二年生にも持ち上がる。由奈と一年生の磯見花依、そして菱沼江井塚は、どの団にも参加しないと言った。由奈と花依は、体育祭ではなく、文化祭の方が好きだった。対して健治は白組で応援団、愛理は赤組でマスゲーム団に申請を出していた。
「ケン先輩が応援団って、マジですか!」
からかうように笑いながら、愛理が言った。
「やってみたかったんだよ! 去年できなかったから」
健治は背が高く、肩幅も広い。その上文芸部にしては筋肉の付き方も良く、しかも坊主である。丸眼鏡はそれっぽくないが、確かに鉢巻き姿は似合うかもなと、詩乃は思った。
「へぇー、ケン先輩〈援団〉ですかぁ、意外です。――あ、モテたいんですか?」
「そりゃ、モテたいよ」
愛理は、爆笑する。
「でも援団の練習、めっちゃキツいらしいじゃないですか。しかもほとんど男子みたいだし」
「いいんだよ!」
健治は、血涙を流しそうに力みながらそう言った。
「なんで皆、そんな、一銭にもならないようなことにカロリー使うんですか」
井塚が、いつもの冷めたような棒調子で言った。
愛理がじろりと井塚を睨む。
またいつものだ、と他の部員たちがため息をつく。
愛理と井塚の相性の悪さは、今に始まったことではなかった。見た目からして派手な愛理と、見た目からして地味な――愛理の言葉を借りるなら「卑屈そう」な井塚、男女の違いはあれど、外見の方向性は全く正反対である。
「じゃあ何、菱沼江は、金がもらえなきゃ何もしないの?」
「メリットになることならやるよ」
「は?」
「だって、そりゃそうだろ。かけた時間と労力に見合うメリットがなきゃ、やる意味ないし」
「それ、つまらなすぎ。だからモテないんじゃないの」
井塚は、勝ちを確信したような笑みを浮かべて言った。
「そう言ってるお前だって、社会出たら、付き合う相手には経済力求めるんだろ。でも俺は誰かのATMになる気はない。だから、モテなくていい。お前だって、彼氏といる時は、彼氏が奢るんだろ?」
ギリリと、愛理が奥歯を噛む。
確かに愛理は、中学時代から、男子と出かける時には、いつもその費用を自分が負担することはほとんどなかった。そして、払わされた時には、ケチな男だなぁと、そんなことを思っていた。
「アイリンは、団はどうするの?」
花依が、愛理に訊ねた。〈アイリン〉というのは、花依が愛理を呼ぶ時のあだ名である。
「私は、マスゲにした……」
井塚に、言い返せなかった悔しさをにじませながら、愛理が答えた。
「マスゲいいよね。去年もすごかったんだよ」
そう言ったのは由奈だった。自分は踊れないけど、見るのはすごく好きと、そういうようなことを続けて語った。
「しかも確か、赤組のマスゲ長って、あの新見先輩だよね?」
健治が言った。
各団のマスゲーム団の団長は、毎年ダンス部か社交ダンス部がやることになっている。各団の団長の発表は六月に入ってからだが、すでに風の噂で、団長の情報は、興味のある生徒だったら知っていた。柚子の名前が出て来て、詩乃はちらっと顔を上げた。
「そう! そうなんですよ!」
愛理が答えた。
「新見先輩って、あのダンス部の先輩だよね?」
由奈が言うのを、愛理と健治は強く頷いて肯定した。




