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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
3,孤独な言葉のために
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とまどうペンギン(5)

 柚子が、お盆に二人分のアイスティーを乗せて部屋に戻ってきた。ガムシロップとカクテルスプーン、そしてミルクも一緒に。柚子の顔が微かに赤いのは、リビングで、姉と母にからかわれたせいだった。首筋に熱を感じながら部屋に戻った柚子は、自分のベッドで詩乃が寝ているのを見て、思わず笑ってしまった。


 意外ではあるけれど、すごく水上君らしい。


 柚子はベッドの前に出していた丸型の木製座卓にお盆を置いた。


 ベッドに手をついて、覆いかぶさるようにして詩乃の様子を確認する。


「ホントに寝てる……」


 くすりと口元に笑みを浮かべ、柚子は座卓に戻って、絨毯の上にぺたんと座った。アイスティーを飲みながら、詩乃の寝姿を見つめる。


 熱がある様にも見えないから、本当に眠かったのだろう。それで本当に、こんな短い間に眠ってしまう所が、水上君だ。水上君が、水上君らしく自分の前で振る舞ってくれるのが嬉しい。


 柚子は笑みを浮かべながら、火照る首筋をアイスティーで冷やした。


 風と、遠くから微かに聞こえてくる電車の音。


 太陽が沈み始める。


 薄暗くなってゆく部屋。


 カーテンだけが、さらさらと揺れる。





「――あれ」


 ふっと、詩乃はある瞬間、何の前触れもなく目を覚ました。


 頭も目も、キンキンに冷やしたミント水を血管に打ち込まれたかのように、冴えている。ぱっと上半身を起こし、自分が今、新見さんの部屋にいることを確認する。――そうだ、寝てしまったのだ。

 そうしてふと、自分の左側を見た。


 そこには、柚子が横になっていた。半身をこっちに向けていて、目は、ぱっちり開いている。――目が合う。詩乃は、息が止まるほど驚いた。自分のことは棚に上げて、新見さん、何をしているのと思った。


「おはよ」


 柚子の柔らかい声と笑顔。


 詩乃は、コクコクと頷いた。


「もうちょっと寝ててもいいよ?」


「いや、大丈夫。もうすっきり」


 詩乃の真ん丸の目を見て、柚子は笑みをこぼした。むくりと上半身を起こして、詩乃の隣にちょこんと座る。二の腕がくっつくような距離。頭がすっきりした分、今のこの状況の危うさを、詩乃ははっきり認識した。薄暗い部屋に二人きり。ベッドの上。


 詩乃はベッドから崩れるようにして降りて、座卓の前に座った。氷が解けて薄くなったアイスティーを、ごくっと飲む。時計を見る。


 ――六時過ぎ。


 詩乃は二時間ほど。すっかり熟睡していた。


 一体自分は何をしているんだと詩乃は思った。三時間遅刻して来て、来た途端二時間も寝てしまって……。


 柚子もベッドを降りて、座卓の、詩乃の向かい側に腰を下ろした。


「ガムシロップ、使っていいよ」


「うん」


 詩乃は言われるままにガムシロップをアイスティーに投入し、カクテルスプーンでかき混ぜた。コンコンと、スプーンの水滴をコップの端で払い落とす。


 甘いアイスティーを飲んで、ふうっと詩乃は息をつく。


「落ち着いた?」


「うん……」


 ふふふふと、柚子は笑った。


 詩乃は、柚子の優しい態度にほっとしつつ、口を開いた。


「部員の、作文の添削してたんだよ。そうしたら色々、止まらなくなっちゃって……」


「そうなんだ。流石部長だね」


「やめてよ」


 詩乃は首を振った。


 柚子は、笑顔の裏にひっそりと潜ませた不安を、どうしたものかと考えた。実は柚子は、愛理が詩乃に作文を提出した日、あの朝、二人のやり取りを目撃していた。ダンス部の朝練から帰って来た時だった。詩乃が、後輩のことを「愛理」と名前で呼び捨てにしていることも、その時に初めて知った。グサっと、心に杭を打ち込まれたような気がして、それからずっと、心臓がチクチクしている。


「皆春だからって、桜ばっかりなんだ。もう桜なんて散ったのに」


「水上君、桜嫌い?」


「そう思う?」


「うーん、ちょっと」


 詩乃は深いため息をついて、それから応えた。


「実はそうなんだよね」


「世の中に、絶えて桜の無かりせば、春の心はのどけからまし――だよね」


 おぉ、と詩乃は柚子が在原業平の和歌を諳んじたのに感動してしまった。


「知ってるんだ」


「水上君が詠んだんだよ!」


 あれ、そうだっけか、と詩乃は首を傾げる。


「返歌は確か――」


「あれはこじ付けっぽくて好きじゃない」


「そうなの?」


 うん、と詩乃は深く頷く。


「儚いから良いなんて、嘘だよ。――サルタヒコが方向音痴だったらなぁ」


「え、え? さるた?」


 詩乃は柚子の可愛らしさに思わず頬を緩める。


 そりゃあ、知らないよね、と思う。


「――あ、そうだ、新見さん、あのさ」


「うん」


 柚子は軽く返事をする。


 本当は、〈新見さん〉と呼ばれるたびに、心が痛んでした。〈柚子〉って呼んでくれてもいいのにと思う。なんであの子のことは呼び捨てなのか、気になって仕方がない。でもそんな詮索は、きっと鬱陶しがられてしまう。


「ピアノ……」


「ピアノ?」


 柚子は、電子ピアノの方を見た。


「あ、弾きたい?」


「ううん、自分は全然弾けないよ。新見さんが弾いてるの、聞いてみたいなって」


 思いもよらぬリクエストに、柚子は驚いた。


 柚子は、今でこそピアノを習ってはいないが、気が向いた時には今でも部屋の電子ピアノを弾いている。


「いいよ! 上手くはないけど」


 柚子がそう言うと、詩乃は応えた。


「上手いより、面白いかどうかだよ。上手くたって感動するとは限らないし」


 柚子は、詩乃の目をじっと見つめた。


 何気ない時、何気ない瞬間に、水上君はとても大事なことを言う。そんな時の水上君の目には、いつも吸い込まれてしまいそうになる。子供のような無邪気さと、その奥にメラメラと燃える意志を宿した、不思議な強い瞳。つくづく、水上君は芸術家さんなんだぁと、柚子は思うのだった。


「私のピアノ、面白いかなぁ」


「弾いてくれる?」


「わかった」


 柚子はそう言うと立ち上がった。


 部屋の電気を点けてから電子ピアノの前の椅子に座り、きゅうっと、両手を頭の上に組んで伸ばす。


「どんな曲がいい?」


「新見さんの好きな曲」


「好きな曲? いっぱいあるんだけどなぁ」


 柚子はそう言うと、早速、思いついた曲を弾いてみた。〈チム・チム・チェリー〉――メリー・ポピンズを見てから、柚子のお気に入り曲の一つになっていた。飛び跳ねるように弾く。


「――おぉ! すごい!」


 詩乃の声を背中に聞きながら、柚子は短いその曲を弾き終えた。


 パチパチと、詩乃は拍手を送る。


「新見さん、相当弾けるんだね」


 詩乃は、興奮していた。


 自分はピアノを弾けないけれど、もし特技を一つ持てるなら、それはピアノだった。それくらい、詩乃はピアノが好きだった。


「ピアノ部とかと比べたら全然だけどね」


「比べることないよ」


 茶ノ原高校にはピアノ部がある。人数は少ないが、全員がピアノの一芸入試で入ってきた生徒で、文化祭では毎年大活躍をする。


「――あ、そう言えば今年ね、ジャズ研とコラボするんだ」


「ジャズ研?」


「うん。ピアノ部と管弦学部と、あと軽音の人とかが集まってるサークルなんだけど、なんかもう、プロみたいだよ」


 詩乃はそう言われて、クリスマスイヴのダンスパーティーのことを思い出した。そういえばあの時、音楽を担当していたのはジャズ研だった。生演奏は、確かに迫力があった。


「文化祭で?」


「ううん、夏。浅草のお祭りと、あと、ダンス部のステージ合宿で」


 そうなんだ、と詩乃は相槌を打った。


 折角だからと、柚子は、ダンス部の十八番、マイケルジャクソンの曲を二曲続けて弾いた。詩乃にとっては、その時間は至福のひと時だった。

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