とまどうペンギン(5)
柚子が、お盆に二人分のアイスティーを乗せて部屋に戻ってきた。ガムシロップとカクテルスプーン、そしてミルクも一緒に。柚子の顔が微かに赤いのは、リビングで、姉と母にからかわれたせいだった。首筋に熱を感じながら部屋に戻った柚子は、自分のベッドで詩乃が寝ているのを見て、思わず笑ってしまった。
意外ではあるけれど、すごく水上君らしい。
柚子はベッドの前に出していた丸型の木製座卓にお盆を置いた。
ベッドに手をついて、覆いかぶさるようにして詩乃の様子を確認する。
「ホントに寝てる……」
くすりと口元に笑みを浮かべ、柚子は座卓に戻って、絨毯の上にぺたんと座った。アイスティーを飲みながら、詩乃の寝姿を見つめる。
熱がある様にも見えないから、本当に眠かったのだろう。それで本当に、こんな短い間に眠ってしまう所が、水上君だ。水上君が、水上君らしく自分の前で振る舞ってくれるのが嬉しい。
柚子は笑みを浮かべながら、火照る首筋をアイスティーで冷やした。
風と、遠くから微かに聞こえてくる電車の音。
太陽が沈み始める。
薄暗くなってゆく部屋。
カーテンだけが、さらさらと揺れる。
「――あれ」
ふっと、詩乃はある瞬間、何の前触れもなく目を覚ました。
頭も目も、キンキンに冷やしたミント水を血管に打ち込まれたかのように、冴えている。ぱっと上半身を起こし、自分が今、新見さんの部屋にいることを確認する。――そうだ、寝てしまったのだ。
そうしてふと、自分の左側を見た。
そこには、柚子が横になっていた。半身をこっちに向けていて、目は、ぱっちり開いている。――目が合う。詩乃は、息が止まるほど驚いた。自分のことは棚に上げて、新見さん、何をしているのと思った。
「おはよ」
柚子の柔らかい声と笑顔。
詩乃は、コクコクと頷いた。
「もうちょっと寝ててもいいよ?」
「いや、大丈夫。もうすっきり」
詩乃の真ん丸の目を見て、柚子は笑みをこぼした。むくりと上半身を起こして、詩乃の隣にちょこんと座る。二の腕がくっつくような距離。頭がすっきりした分、今のこの状況の危うさを、詩乃ははっきり認識した。薄暗い部屋に二人きり。ベッドの上。
詩乃はベッドから崩れるようにして降りて、座卓の前に座った。氷が解けて薄くなったアイスティーを、ごくっと飲む。時計を見る。
――六時過ぎ。
詩乃は二時間ほど。すっかり熟睡していた。
一体自分は何をしているんだと詩乃は思った。三時間遅刻して来て、来た途端二時間も寝てしまって……。
柚子もベッドを降りて、座卓の、詩乃の向かい側に腰を下ろした。
「ガムシロップ、使っていいよ」
「うん」
詩乃は言われるままにガムシロップをアイスティーに投入し、カクテルスプーンでかき混ぜた。コンコンと、スプーンの水滴をコップの端で払い落とす。
甘いアイスティーを飲んで、ふうっと詩乃は息をつく。
「落ち着いた?」
「うん……」
ふふふふと、柚子は笑った。
詩乃は、柚子の優しい態度にほっとしつつ、口を開いた。
「部員の、作文の添削してたんだよ。そうしたら色々、止まらなくなっちゃって……」
「そうなんだ。流石部長だね」
「やめてよ」
詩乃は首を振った。
柚子は、笑顔の裏にひっそりと潜ませた不安を、どうしたものかと考えた。実は柚子は、愛理が詩乃に作文を提出した日、あの朝、二人のやり取りを目撃していた。ダンス部の朝練から帰って来た時だった。詩乃が、後輩のことを「愛理」と名前で呼び捨てにしていることも、その時に初めて知った。グサっと、心に杭を打ち込まれたような気がして、それからずっと、心臓がチクチクしている。
「皆春だからって、桜ばっかりなんだ。もう桜なんて散ったのに」
「水上君、桜嫌い?」
「そう思う?」
「うーん、ちょっと」
詩乃は深いため息をついて、それから応えた。
「実はそうなんだよね」
「世の中に、絶えて桜の無かりせば、春の心はのどけからまし――だよね」
おぉ、と詩乃は柚子が在原業平の和歌を諳んじたのに感動してしまった。
「知ってるんだ」
「水上君が詠んだんだよ!」
あれ、そうだっけか、と詩乃は首を傾げる。
「返歌は確か――」
「あれはこじ付けっぽくて好きじゃない」
「そうなの?」
うん、と詩乃は深く頷く。
「儚いから良いなんて、嘘だよ。――サルタヒコが方向音痴だったらなぁ」
「え、え? さるた?」
詩乃は柚子の可愛らしさに思わず頬を緩める。
そりゃあ、知らないよね、と思う。
「――あ、そうだ、新見さん、あのさ」
「うん」
柚子は軽く返事をする。
本当は、〈新見さん〉と呼ばれるたびに、心が痛んでした。〈柚子〉って呼んでくれてもいいのにと思う。なんであの子のことは呼び捨てなのか、気になって仕方がない。でもそんな詮索は、きっと鬱陶しがられてしまう。
「ピアノ……」
「ピアノ?」
柚子は、電子ピアノの方を見た。
「あ、弾きたい?」
「ううん、自分は全然弾けないよ。新見さんが弾いてるの、聞いてみたいなって」
思いもよらぬリクエストに、柚子は驚いた。
柚子は、今でこそピアノを習ってはいないが、気が向いた時には今でも部屋の電子ピアノを弾いている。
「いいよ! 上手くはないけど」
柚子がそう言うと、詩乃は応えた。
「上手いより、面白いかどうかだよ。上手くたって感動するとは限らないし」
柚子は、詩乃の目をじっと見つめた。
何気ない時、何気ない瞬間に、水上君はとても大事なことを言う。そんな時の水上君の目には、いつも吸い込まれてしまいそうになる。子供のような無邪気さと、その奥にメラメラと燃える意志を宿した、不思議な強い瞳。つくづく、水上君は芸術家さんなんだぁと、柚子は思うのだった。
「私のピアノ、面白いかなぁ」
「弾いてくれる?」
「わかった」
柚子はそう言うと立ち上がった。
部屋の電気を点けてから電子ピアノの前の椅子に座り、きゅうっと、両手を頭の上に組んで伸ばす。
「どんな曲がいい?」
「新見さんの好きな曲」
「好きな曲? いっぱいあるんだけどなぁ」
柚子はそう言うと、早速、思いついた曲を弾いてみた。〈チム・チム・チェリー〉――メリー・ポピンズを見てから、柚子のお気に入り曲の一つになっていた。飛び跳ねるように弾く。
「――おぉ! すごい!」
詩乃の声を背中に聞きながら、柚子は短いその曲を弾き終えた。
パチパチと、詩乃は拍手を送る。
「新見さん、相当弾けるんだね」
詩乃は、興奮していた。
自分はピアノを弾けないけれど、もし特技を一つ持てるなら、それはピアノだった。それくらい、詩乃はピアノが好きだった。
「ピアノ部とかと比べたら全然だけどね」
「比べることないよ」
茶ノ原高校にはピアノ部がある。人数は少ないが、全員がピアノの一芸入試で入ってきた生徒で、文化祭では毎年大活躍をする。
「――あ、そう言えば今年ね、ジャズ研とコラボするんだ」
「ジャズ研?」
「うん。ピアノ部と管弦学部と、あと軽音の人とかが集まってるサークルなんだけど、なんかもう、プロみたいだよ」
詩乃はそう言われて、クリスマスイヴのダンスパーティーのことを思い出した。そういえばあの時、音楽を担当していたのはジャズ研だった。生演奏は、確かに迫力があった。
「文化祭で?」
「ううん、夏。浅草のお祭りと、あと、ダンス部のステージ合宿で」
そうなんだ、と詩乃は相槌を打った。
折角だからと、柚子は、ダンス部の十八番、マイケルジャクソンの曲を二曲続けて弾いた。詩乃にとっては、その時間は至福のひと時だった。




