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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
3,孤独な言葉のために
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とまどうペンギン(4)

「先輩、遅れてすみませんでした! 短編、ちゃんと書いてきました!」


 愛理は溌剌とそう言いながら、スクールバックからクリアファイルを出して、詩乃に渡した、クリアファイルの中には、作文用紙が四枚入っている。愛理の処女作、〈桜と猫〉である。猫が、桜は嫌いなんだよなぁと、ぼやくというだけの作品である。


 詩乃は、唇を結び、それを受け取った。


 目を細めて、受け取ったそれを見下ろす。


 機嫌が悪いのか、怒っているのか、それとも眠いだけなのか、愛理には判断できない。とにかく愛理は、作文が突き返されやしないかと気が気ではなかった。教師に対してだって、愛理はここまで緊張したことはなかった。


「詩なら読まないよ」


「詩じゃないです! 短編です!」


 詩乃はため息をついた。


 詩乃からすれば、新入部員が短編を書いてこようが、書いて来まいが、正直な所、どっちでも良かった。添削や作品のアドバイスは、自分の勉強にもなるから、部員が必要とするならやろうと思っている。しかし、宿題を出したり、提出日を守らせたり、自分のアドバイスを聞けと強要するつもりは全くない。昨日愛理に一言言ったのは、愛理が提出日を守らなかったからではない。言い訳をされたからだ。言い訳をする側とされる側、その構造が我慢ならなかった。課題を出したのも、提出期限を設けたのも、部員が、文章が上手くなりたいと言うから、その方法を提案したに過ぎない。嫌なら、心底やらなくていいと詩乃は思っていた。


「別に、書いてこなくても良かったのに」


 詩乃は、ぽつりと本心を呟いた。他意はなかったが、愛理にとっては、それは強烈な皮肉だった。中学時代、愛理は、服装のことなどで随分生活指導の教員に怒られてきたが、そういう教師の百万語よりも、詩乃の一言の方がはるかに強烈だった。


「ごめんなさい……」


 しゅんとしょげきって、愛理は頭を垂れた。


 詩乃は眉間にしわを寄せた。


 強要しているわけじゃないのだから、謝られる筋合いすらない。外見をそれだけ好き勝手遊んでいるんだから、作文の方だって、勝手にすればいいのにと詩乃は思う。好きにしてくれと、よっぽどそう言って放ってしまおうかとも詩乃は思った。しかし、こんな朝っぱらから三年教室までやってきた生真面目さを思うと、それも可哀そうかなと詩乃は思いなおす。


「授業は?」


「ありますよ!」


「放課後で良かったのに」


「放課後、水上先輩どこにいるんですか! 連絡先も知らないし!」


 詩乃はぼうっと考えて、あぁ、そうかと思った。考えてみれば、自分の連絡先は、まだ部員の誰にも教えていない。なるほど、愛理が自分とコンタクトを取るなら、確かにこの時間しかないなと、詩乃は気づいた。


 キーン、コーン、カーン、コーン――。


 鐘が鳴り始めた。


「……遅刻?」


「そうですね……いや、自分のせいだからいいんですけど」


 詩乃は、そんな愛理の物言いに、ふっと小さい笑みを浮かべた。


「――じゃ、じゃあ、あの、行きますね」


 作文が突き返されないうちにと、愛理はそう言って、詩乃に背中を向けた。


「愛理」


 詩乃は、その背中に呼びかけた。


「短編、ご苦労様」


 まさか労いの言葉をかけられるとは思っていなかった愛理は、驚いた。


詩乃は作文用紙の入ったクリアファイル片手に、ふらあっと、廊下を図書室の方へと歩いて行った。E組には一時間目の教科担当の教師が今まさに入っていく所だったが、詩乃は、全くそんなことお構いなしである。


「先輩、授業――」


 愛理は詩乃に呼びかけたが、しかし自分も、先輩の心配をしている場合じゃない。先生がうっかり一分くらい遅刻してくる可能性に望みをかけて、愛理は一年教室棟に走った。詩乃は愛理の足音が騒がしく遠ざかっていくのを聞きながら、図書室へと歩いた。


 三年E組の教室から、図書室までは目と鼻の距離である。


 その自動ドアが開くのを待って、詩乃は図書室に入った。


 愛理は遅刻するだろう。それなのに自分だけ無傷というのは、どうにも詩乃は嫌だった。


 詩乃は結局この日、一時間目は丸々図書館にいて、一時間目の授業は全くすっぽかしてしまった。





 ゴールデンウィーク中の火曜日。


 詩乃が柚子の家に行くことになっていたその日。


「ごめん……」


 詩乃はインターホンを押し、柚子が玄関先に出てくるや、頭を下げて謝った。そのまま詩乃は、背中を丸め、心臓を押える。詩乃の装いは、実に春らしかった。薄水色のジーンズに白Tシャツ、その上から、目に飛び込んでくるような鮮やかな青のカーデガンという格好。


 新しいジーンズとカーデガンだと、柚子はすぐに見て取った。


 柚子は、玄関から出て来て、詩乃に駆け寄った。半袖の黒Tシャツに、同じ色の七分丈のボトムスというルームウェア姿である。


「大丈夫だよ」


 門の扉を開けて、柚子は詩乃の丸まった背中を優しく撫でた。


 詩乃は息を切らせている。


 駅から走ってきたせいだった。


 上下する詩乃の背中と、汗ばんだその体温を手の平に感じながら、柚子は、ひとまずはホっとしていた。約束の時間は一時だったが、今はもう四時を回っている。詩乃は三時間の大遅刻をやらかしたのだった。柚子からかかってきた何度目かの電話で飛び起きて、慌てて家を出てきた。


「本当にごめん……」


「そんな気にしないでよ! 全然いいから、ね、上がって上がって」


 柚子はいつもの明るい調子でそう言って、詩乃を玄関まで支え招いた。


 初めて入る柚子の家。


 広い玄関に、詩乃は息を呑んだ。


「お邪魔します」


 小さな声で言って、詩乃は靴を脱ぎ、家に上がった。その時に、うっかりよろけてしまう。

咄嗟に、柚子が詩乃の身体を支えた。


 今日は随分弱っているなと、柚子は思った。


 そして、律義に、いつものぼろぼろのバッシュをそろえる詩乃を見て、柚子はにんまり笑った。


「ごめん……」


 詩乃は、柚子の視線を避けながら言った。柚子も靴を脱いで、家に上がった。


「寝不足?」


 柚子に聞かれて、詩乃は顔を上げた。


 どうして新見さんは、それが分かるのだろうと、詩乃は不思議でならなかった。寝不足の日は、いつも新見さんにバレてしまう。


 柚子の質問に対して、詩乃は口を結んだ。


 寝不足を遅刻の言い訳にしたくはなかった。寝不足であるということ自体も、できれば隠し通したい。大事な日なのに、体調管理を怠った。そのことに幻滅されたくはなかった。


 リビングに入ると、詩乃は、柚子の姉と母から温かい歓迎を受けた。


「あら、いらっしゃい」


「いらっしゃーい」


 詩乃は、すっと息を吸って、固まってしまった。


「水上です。お邪魔します」


 こくんと、機械のように会釈をする。


 緊張を隠す余裕さえ、すでに詩乃にはなかった。遅刻をして、新見さんにも、たぶん、新見さんのお母さんとお姉さんにも迷惑をかけてしまった。しかも、五分、十分の遅刻ではない。三時間だ。絶対に嫌われたと、詩乃は思った。二人の笑顔は、詩乃には恐怖でしかなかった。


「こっちこっち」


 柚子は、詩乃を自室に案内した。


 リビングを横切り、階段を上がった先の、左手の部屋。


 千代や紗枝から、〈ホテル柚子〉と称されるそのシックなその部屋に入り、詩乃は思わず、おおっと、声を上げた。落ち着いたベージュのシンプルな、大人っぽい壁紙。入って左手にある、やたら大きな、平べったいベッド。姿鏡が右手にあり、その奥にはタンスと、勉強机が並んで置かれている。正面はベランダに続く一面のガラス戸になっていて、紺のカーテンが、ガラス戸の半分を隠している。「可愛い」というよりも断然「格好いい」という表現が似合うインテリアだ。


「いい部屋だね」


 ぽつりと詩乃は感想を述べた。


「ホント? んふふ、女の子っぽくないんだけどね」


「新見さんセンス良いよ。――ベッド、なんでこんなに大きいの?」


 詩乃は思わずそう質問して、笑ってしまった。


 泳げるほど大きなベッド。二人どころか、三人は一緒に寝られるだろうという大きさ。この大きさなら、落ちる心配はないだろうなと詩乃は思った。新見さんは実は、ものすごく寝相が悪いのだろうか。そうだったら、何か良いなと、詩乃は妄想する。


「お姉ちゃんが買ってくれたんだ。――寝てみる?」


「いきなり!?」


 恥ずかしそうに笑う柚子。


 言っていることの重大さがわかっているのかいないのか、詩乃は苦笑いを浮かべる。


「座っていいよ。――ちょっと、飲み物取ってくるね」


 柚子に言われるまま、詩乃はベッドに座った。


「水上君、何がいい? 冷たいのがいいよね?」


「うん。何でも――あ、甘い紅茶がいいかなぁ……」


「アイスティーね! オッケー。ちょっと待っててね」


 柚子はそう言うと、部屋を出ていった。


 トコトコと、階段を降りる柚子の足音が、兎の足音を連想させる。


 詩乃はミニショルダーをベッドの下に放り置き、改めて部屋を見渡した。本やら紙やらでごちゃごちゃした自分の部屋とは全然違うなと詩乃は思った。鏡の近くのポールハンガーには、春用の薄手の上着三着と、帽子が二つかけられている。箪笥の上には、バックが行儀よく並んでいて、ベッドの脇には、どっしりした木製のナイトテーブルが置かれている。テーブルの上には文庫本が二冊と、ランタン型のライト。


 入り口側のベッド脇には、小棚と箪笥が並んでいて、小棚の中と箪笥の上には、本が並べられている。それが、知っているタイトルばかりだったので、そのことに詩乃は驚いてしまった。そうしてもう一つ詩乃を驚かせたのは、箪笥の隣にある電子ピアノの存在だった。そういえば新見さんは、中学生の頃はピアノを習っていたんだっけと、詩乃は思い出した。


 微かに開いたガラス戸からそよぐ風が、カーテンを揺らした。


 詩乃はカーデガンを脱いで、それも足元の絨毯の上に放った。


 スモモを思わせるような微かな香りがベッドから立ち昇ってくる。新見さんの香りだ――そう思うと、詩乃はくらくらと眩暈のような浮遊感を覚えるのだった。そうしてそのまま、こてんとベッドの上に倒れる。眩暈の理由は柚子を意識したためだけではなかった。寝不足の身体は、ベッドの弾力と柔らかさの誘惑にはとても打ち勝てなかった。詩乃は、瞼を閉じた一瞬のうちに、そのまま眠りに落ちた。

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