とまどうペンギン(3)
「水上君、あのさ――」
柚子が、もじもじと切り出した。
「今度ね、あの、うち来ない?」
「うち? 新見さんの家?」
「うん」
詩乃は、心臓が締め付けられるのを感じて、顔をしかめた。
詩乃はまだ、柚子の家の中に入ったことはない。新見さんの母とは一目だけ、家に見舞いに行った時に顔を合わせた。大らかそうなお母さんだなと思った記憶がある。しかし自分が、娘の彼氏という立場で家に行った時、新見さんのお母さんがどういう反応をするかは、全くわからない。自分が親なら、たぶん、反対する。こんな、わけのわからない男と付き合うな、と。
詩乃は、現実を突き付けられたような気がして、目を伏せた。
「――あ、全然無理にとかじゃないよ! もし来られるならでいいの」
柚子が、慌てて言葉をつけ足す。
詩乃が即答せずに黙っているのは、行こうか行くまいかを悩んでいるわけでも、断る口実を見つけようとしているわけでもなかった。答えなら、柚子から誘われた瞬間に決まっていた。
「いいのかな……」
詩乃は、ぽつりと呟いた。
柚子は詩乃の言葉を聞き逃さず拾い上げた。
「もし水上君が良ければ大歓迎だよ」
ちらりと、詩乃は黒目を持ち上げて、柚子を盗み見た。
柚子の熱い視線とかち合う。
詩乃は口を開いた。
答えは決まっている。
それなのに、どうしても、「行く」のたった一言が出てこない。
「世の中に、たえて桜のなかりせば――」
詩乃の乾いた口から静かに出てきたのは、そんな言葉だった。和歌だ、ということは、柚子にもすぐにわかった。どこかで聞いたことがある。授業で習ったか、教科書の中にあったのを見たか……柚子は口を閉じて、じっと詩乃の唇、詩乃の目、詩乃の表情を見つめた。
詩乃は下の句を言う代わりに口を閉じ、首を振った。
柚子はそれを見て、断られたのかと思った。
しかし次の瞬間、詩乃の口から出てきたのは、真逆の答えだった。
「お邪魔しようかな」
「え、ホント!?」
「うん。いつ?」
「えっと――五月の、ゴールデンウィークの火曜日って、水上君、空いてる?」
「うん、大丈夫」
詩乃は、今度は即答した。
バイトをしているわけでも、休日に部の活動があるわけでもない。しかしもし仮に、部活の活動があったとしても、あるいはバイトをやっていて、その日にシフトが入っていたとしても、同じように即答しただろうと詩乃は思った。
チャイムが鳴った。五時間目の予鈴。
機械的で、残酷な鐘の音。
柚子が悲しそうに天井を仰ぎ見る。詩乃は柚子の表情を見て、右手をグーにし、その上に顎を乗せた。その姿勢のまま、詩乃が微動だにしないので、柚子も椅子に座ったままでいた。
チャイムが鳴り終わり、一呼吸ほど置いた後、詩乃が言った。
「戻るのも癪だよね」
突然そんなことを言われたので、柚子はびっくりしてしまった。
「え?」
「こっちがこんなに色々考えてるのに、チャイムは全然忖度してくれない。ふざけた話だよ」
詩乃が、本気でチャイムに腹を立てている様子なので、柚子は思わずくすくすと笑ってしまった。
「新見さん、次授業?」
「うん」
当然そうだよという風に柚子は頷く。
詩乃も頷く。そうしてふっと、表情を緩めて言った。
「もう一杯、コーヒー飲んでく? 飲んでくなら淹れるよ」
柚子は目を見開いた。
今から水上君の淹れてくれるコーヒーを飲んでいたら、五時間目の授業には、絶対に間に合わないだろう。それがわかっていて、水上君はそんな提案を持ちかけてくる。私だって、授業をさぼって、ずっとここにいたいと思ってたのに、先に言うなんてずるい。
「飲む!」
柚子は、空っぽのコーヒーカップを持ち上げた。
「じゃあ、水入れてくるね」
詩乃はそう言うと水道でケトルに水を入れて戻ってきた。
二人して沸騰するのを待つ。
ほどなく五時間目の開始を告げる本鈴が鳴った。
それを聞きながら、二人は目配せをして、どちらともなく笑い出した。
柚子の思っていた通り、詩乃は、なんだかんだと詩乃なりに、部長らしいことをし始めていた。文章の上達を望む部員に対して、作文を書いてくるように、という課題を新入部員たちの入部早々に出していた。
ところが、新入部員の一人、一年生の三島愛理は、その提出期限を早速破ってしまった。愛理は、〈高校デビュー〉の方にばかりかまけていて、課題のことは、あまり真剣に考えていなかった。期限が多少遅れたとしても、大丈夫だろうと考えていたのだ。
愛理が詩乃に、提出日の延長交渉をしたのが、本来の提出日だった昨日。
『すみません、先輩。あの、まだ作文できてなくて』
『途中まででいいよ』
『えっと、いやぁそのぉ……全然書けなかったんですよね。もうちょっと簡単な、詩とかから始めてもいいですかね』
『あ、そう。じゃあ、いいよ、書かなくて』
愛理は、詩乃からたった一言そう言われた。それ以上詩乃も何も言わず、従って愛理も、言い訳や交渉の余地は全くなくなってしまった。
部活をクビになる、と愛理は本気でそう思った。その日の夜――つまり、昨日の夜、愛理は寝ずに千二百文字の短編を書き上げた。そして今、愛理は一年の自分の教室に行くより先に、三年E組の教室前に来ていた。
愛理は、中学制時代はバリバリの体育会系――女子バスケットボール部に所属していた。そんな愛理が文芸部に入ったのには、愛理なりのわけがあった。読書をしないこと、漢字が読めないこと、作文が苦手で国語の成績が低いことなどを彼氏に馬鹿にされたのだ。馬鹿にされたままでは悔しいという負けず嫌いと、それと同じくらいの、愛想をつかされたくないという不安、もとい、乙女心が愛理の気持ちに火を点けて、その勢いのまま、文芸部の入部届にサインをし、顧問の神原教諭に提出したという次第である。
耳にはピアスの穴、髪は金髪、中学時代はバスケ部で、彼氏は一つ上の他校生。本当は、彼氏のいる高校に入学しようと試験を受けたが、学力が届かず、滑り止めとして受験した茶ノ原高校に入学することになった。その時も、試験の足を引っ張ったのは国語だった。
――文芸部に入って、国語に勝ってやる。
文芸部は新入生歓迎会の出し物をしなかったが、簡単なチラシだけは作っていて、愛理はそれを見て、文芸部への入部を決めた。文芸部には、懸賞をとれるような先輩がいる。文芸部に入って、色々教えてもらおうと、そう思って、文芸部の部室に足を運んだのだ。それが、入学式の翌日だった。
扉を開けて、細長い部室の正面の机に、水上詩乃は座っていた。
初めて会ったその瞬間、愛理は、詩乃に睨まれた。
入部希望者は歓迎されるものだとばかり思っていた愛理は、出鼻をくじかれた。愛理は、自分の外見についても、多少、自信があった。国語に関してはすごい先輩でも、きっと、女の子には慣れていないはずだと、愛理はほとんど無意識のうちに、そう決めつけていた。
『あ、あの、ここ、文芸部、ですか……』
『何か用?』
『あの、ええっと……入部届、出したんですけど、一年の、三島です。三島愛理です』
『あぁ……』
名乗っても詩乃の不機嫌そうな態度は変わらなかった。声かけもノックもせずに部室に入ったことがその原因であるとは、愛理にはわからなかった。
『三島愛理ね』
怖い顔で、しかも不躾なフルネームでそう呼ばれた瞬間、愛理は、今まで通用してきたものがこの先輩には通用しないのかもしれないと思った。そしてその直感は見事に当たっていたと、愛理は昨日思い知った。
今日提出しなかったら、先輩はきっと、もう受け取ってくれないだろうと愛理は思った。今回だけではない。何となく、もう二度と、相手にされないような気が愛理はしていた。
八時半、一時間目の予鈴が鳴る。登校時間である。
しかし、詩乃は現れない。
ちらちらと、愛理は教室を覗いて確かめたが、やはり詩乃はいない。クラスを間違えただろうかと、愛理は不安になる。しかし、黒板横に張り出されている名簿には、確かに、『水上』の名前がある。だからやっぱり、水上先輩はこのクラスで間違いない。
それなのに、なんで来ないの!? と愛理は焦った。
一時間目の始まる三分前。
二分を切った。
三―E教室から愛理の一年生教室まで、全力疾走すれば一分で着く。けれど、これ以上待てば間違いなく、一時間目は遅刻だ。遅刻は三回で欠席一回分扱い。愛理は、決断を迫られる。
三年生の二時間目、三時間目は選択授業で、三時間目のあとは、そのまま下校となる。
今日――土曜日の授業は三時間なのだ。
土曜の放課後も、詩乃は夕方過ぎまで部室に籠っているのだが、愛理はまだ、そのことを知らない。メールも電話も、連絡先の一切もまだ知らず、そして、詩乃がどの選択科目を取っているかも知らない。だから愛理は、どうしても、一時間目の必修授業の前に、詩乃に会う必要があった。そうしないと、書いてきた短編を渡せない。それはすなわち、愛理には、文芸部からの退部を意味していた。
愛理は、退部か遅刻かを天秤にかけた。
――水上先輩を待とう。
愛理の中で、すぐに結論が出た。
そこへ、まるで愛理がその決断を出すのを待っていたかのように、詩乃が階段を上ってやってきてきた。あっ、と愛理は詩乃を発見し、声を上げた。寝癖をつけた髪、いかにも眠そうな目、足取りも少し危うい。
「水上先輩!」
愛理は、詩乃の名前を呼びかけながら、詩乃のもとに駆け寄った。
どうしてここに愛理がいるんだと、驚いたのは詩乃だった。E組教室は階段の正面にあるので、その前の廊下は、一時間目の直前になるといつも慌ただしかった。詩乃のように、遅刻ギリギリでやってくる生徒も少なくない。朝練をしていてうっかり活動時間が長引いてしまった部の生徒も、この時間に教室に駆け込む。そんな慌ただしい中で、しかし愛理はやはり、生徒の目を引いた。髪の色が明るい金髪である、というのが一つ。そしてもう一つは、詩乃を「先輩」呼びしたことだった。一年生か、二年生か、とにかく、下級生がこんな時間にこんなところにいるというのは珍しい。




