とまどうペンギン(2)
久しぶりの昼食会。そして柚子にとっては、久しぶりの文芸部。
がらんと細長いだけだった部室の中央には、木天板のワークデスクが六台、ひとまとめに並べられて長方形を作っている。黒メッシュの椅子がセットになっている。これは、自習室のほとんど使われていなかったものを見つけて、譲り受けてきたものだった。六台あるうちの机のそれぞれ真ん中の二台には、パソコンを配備した。PC研究部から、部費を使って安く買ってきたのだ。
部屋の両側に並べられた本棚は去年と変わらないが、その圧迫感は増したようだった。物が増えて、部室は一気に狭くなった。部屋の奥、詩乃の創作スペースも、部屋の真正面から、向かって右隅に移動した。窓の前、冷房の真下である。
詩乃の机周りにも、いくつかの変化があった。一つは椅子である。三万もするゲーミングチェアーだったが、すんなり活動経費で落ちてしまった。
それに気を良くして、次に詩乃は、コーヒーメーカーを買おうとした。ところが、これは認められなかった。しかしどうしてもコーヒーが飲みたかった詩乃は、代わりに電気ケトルを部費で買い(これは活動費で落ちた)、自費でコーヒードリッパーを購入した。千円ちょっとの、茶色い陶器のドリッパーである。一昨日買って、すでに数杯分作っているので、PCデスク横のゴミ箱には、出涸らしのコーヒーの入ったペーパーフィルターが数回分入れられている。
PCモニターの左手の卓上に小棚を設置し、詩乃はその中に、タオルを敷き、そのタオルの上に、二人分のティーカップを用意していた。ふくろうの彫刻が施された木製のペアカップで、木製のソーサーも付いている。棚の脇にはステンレスのコーヒーキャニスターとコーヒースプーンのセットも準備している。
詩乃がおもむろに、それらを使ってコーヒーを入れ始めた時、柚子は驚いてしまった。それ、どうしたの? カップ、私のも用意してくれたの? 水上君が淹れてくれるの!? と、柚子は終始興奮が止まらなかった。そして今、柚子は、詩乃の用意したコーヒーカップで、詩乃の淹れた、酸味の少ないまろやかなコーヒーを飲んでいる。
「部費が出るって言うからコーヒーメーカーの申請を出したんだよ。――そう。でもダメだって言われちゃって。自分にとっては大事なことなんだけど、わかってもらえなかったな。――そう思うでしょ? そうなんだよ。電気ケトルは大丈夫なのにどういうわけかコーヒーメーカーは通らなかったんだよね。――うん、そうだよ、これは自腹だよ。でもそんなに高くないんだ。千円ちょっとだったかな。――うん、可愛いよね。味はどう? ――あ、でも、そうか、新見さん砂糖入れるよね? 大丈夫? ――あー、それはね、豆と濃さによるんだよ。よく小説なんかでも、ドラマとかでも、苦いって描写されるでしょ。青春ものだと、それが青春の苦みだなんてさ、若者の背伸びの象徴みたいな。――ね、あるでしょ? でも違うんだよ。苦みの強い豆もあるし、濃くしたり、あと、出来てから時間を置いちゃうと苦くなるんだけど、こういうのもあるんだよ。――でしょ? 自分も、苦みが強いのは好きじゃないんだ」
詩乃の、コーヒーに関する話を聞きながら、柚子は、この時間がずっと続けばいいのにと思っていた。それなのに、そういう時に限って、時計は進むのが早い。
もうこのまま五時間目と六時間目をさぼって、部活の時間まで一緒にいようよと、柚子はそんな誘いが、喉まで出かかっていた。
「新入部員なんて、いらなかったんだけどなぁ」
詩乃が、そんなことを言った。
空になった弁当箱を見下ろし、頬杖をつく。
そもそも詩乃は、部員との人間関係をうまく築いていくとか、部員同士のコミュニケーションの橋渡しをするとかいうことは、最初から考えていなかった。部員がいようがいまいが、自分のやることは去年と変わらない。部員が出来て最もストレスに思っていることは、文芸部の部室が、ついに部員との共用スペースになってしまった、ということだった。実際には、昼食時にここに来る部員は今のところいなかったが、その可能性があるというだけで、詩乃はどうも、一人でいる時も、柚子と二人でいる時も、気持ちが落ち着かなかった。
「そうなの? でも、良かったと思うよ。水上君が頑張った結果だよ」
「まぁ、椅子を買い替えられたのは良かったけど」
そうだよ、すごいよと柚子は詩乃を褒めた。
「ゲーミングチェアー、今流行ってるよね。座り心地どう?」
「座ってみる?」
「いいの!?」
「いいよ」
詩乃はそう言って、柚子に席を譲った。柚子は机を回り込んで、黒の真新しいゲーミングチェアーに座った。おおっと、柚子は声を上げた。座り心地の良さと、そして、詩乃の椅子に座れたという喜びと、両方から来る感動の声だった。柚子は、椅子の傍らに立つ詩乃を見上げた。
「いいね、これ」
「背もたれ倒せるよ」
「そうなの?」
「このレバーで――」
詩乃が示したレバーを、柚子は引いてみた。すると、背もたれが後ろに動き、柚子は、天井を見上げるような格好になった。
「えー、これ、寝ちゃうね」
うん、と詩乃は小さく笑いながら言った。
リラックスしきって、なんとも無防備な柚子の姿は、ほほえましくもあり、危なっかしくもあった。何となくとろんとした目に見上げられて、詩乃は、男性的な衝動に駆られる。
詩乃は小さく咳払いをする振りをして柚子の前を通り、机を回り込み、柚子の座っていた緑の椅子に腰を下ろした。腕組みをして、柚子の、ゲーミングチェアーで寝ている姿を見つめる。えへへと、柚子は詩乃に笑いかける。
「寝ちゃおうかな……」
柚子はいたずらっぽい口調で言った。
「眠いの?」
「うーん、今急に」
「寝てもいいよ」
いいの? と柚子は聞き返す。
うん、と詩乃は頷く。
何でもないやり取りの中に、柚子は、詩乃の優しさを感じていた。近頃は、前にも増して、水上君が優しくしてくれる。ちょっとした言葉の言い方、口調、表情が、柔らかくなっている。やっと何か、水上君に受け入れてもらえたような気が、柚子はしていた。
しかし柚子は、詩乃のその優しさが、文芸部の新入部員の女の子たちにも向けられていると思うと、ちょっとした不安を覚えてしまうのだった。
新入部員五人のうち、三人は女子である。そのことを、柚子は詩乃から聞いて知っていた。
部長なんて柄じゃないよと言いながら、柚子は、詩乃がちゃんとその責任を果たしている姿が、容易に想像できた。水上君が、保健委員としての責任を持っていたから自分と水上君は知りあうことができたのだし、去年の文化祭で水上君が〈たこ焼きリーダー〉を引き受けて、その仕事を全うしてくれたから、クラスの模擬店は上手くいった。それにこの部室の改装なんて、まさに部長としての責任感の強さの現れだ。水上君の責任感は、人並外れている。思えば去年度の文芸部だって、水上君は一人で小説を書いて、部誌を発表していた。去年だって、ちゃんと部長として、水上君はしっかりやっていた。後輩ができれば、きっとその面倒を見たり、部をまとめたりといったことも、しっかりやるに違いない。三人の女子部員の面倒も、ちゃんと見るに違いない……。
「――皆にも、淹れてあげてるの?」
柚子は、何となく詩乃に訊ねた。
「コーヒー?」
「うん」
「皆って? あ、部の?」
「うん」
詩乃は笑いながら首を振った。
「淹れないよ。飲みたきゃ勝手に作って飲んでって、そんな感じ」
「ふーん、そうなんだ……」
柚子は背もたれを元に戻してから、詩乃に聞いた。
「じゃあ私は、特別?」
「うん」
事も無げに詩乃は頷く。
「ふーん……」
特別、特別と、柚子は頭の中で繰り返した。
柚子は、詩乃が自分を特別扱いしてくれていることを、近頃は特に強く感じていたが、それでも、直接言葉で肯定されると、「うん」の一言が嬉しい柚子だった。付き合い始めたのが去年の十月末。それから今日まで、まだ柚子は、「好き」や「愛してる」といった直接的な言葉を、詩乃から言われたことがなかった。
柚子は、身体を捻ってひじ掛けに両肘をつき、握った両手の上に自分の顔を乗せた。その姿勢で、じっと詩乃を見つめる。子供のようなその仕草に、詩乃は思わず、くすくすと笑ってしまった。
「どうしたの」
あんまりにも見つめられるので、詩乃は笑いながら柚子に聞いた。
柚子は、とろけそうな笑顔を詩乃に向ける。柚子は、自分から見つめておきながら、詩乃としっかり目が合って見つめ合う形になると、頭が真っ白になってしまうのだった。そうなるとあとは、言葉もなく、ただ感情に従った表情を詩乃に見せるだけになってしまう。
詩乃は、両手を柚子の頬に伸ばした。ふにふにと、両手で、柚子の両方の頬を触る。吐息のような笑い声が、柚子の鼻と口から洩れる。目を閉じて、全部を自分に委ねているようだ。この仕草こそが、きっと新見さんの本心なのだろうと、詩乃は感じ取っていた。信用とか信頼とか、そんな言葉よりも、ただ目を閉じて、頬を弄ばれるに任せている。それが、自分に対する新見さんの信頼の証だ。
自分がその信頼に値するかどうか、詩乃はいつも考えていた。柚子に告白されてからずっと、ことあるごとに。そうしてそのたびに、自分は〈値しない〉と思い続けてきた。新見さんと一緒にいる時の気持ちや、新見さんが自分に向けてくれる本心のサインを見ないふりをして。でも今は『新見さんとずっと一緒にいたい』と、明確にそう感じている。『ずっと一緒に』なんて無理だとわかっているけれど。
詩乃は柚子の頬から手を引いて、柚子にコーヒーカップを渡した。柚子はそれを受け取ると、少し温くなったコーヒーで唇を濡らした。詩乃も、柚子に自分のカップを取ってもらって、残りを一気に飲み干した。




