エピローグ ~それでも息はできるから~
終業式前最後の日曜日、二人は、朝九時東京駅発の特急踊り子に乗って、修善寺に向かった。
目的地は〈虹の郷〉。そこは、詩乃にとって数少ない、特別な場所の一つだった。
「思い出の場所なんだ」
行きの電車の中で、詩乃は柚子に打ち明けた。
「昔、小学生の時、家族旅行で行ったんだけど……はしゃいで、池に落ちたりしてね」
柚子は、静かに頷き、詩乃の言葉を待った。
詩乃は、悲しみを誤魔化すように笑いながら言葉をつづけた。
「あんまりうちの家族、仲が良かった時期が無いんだよ。でも小学生の頃は、四年生くらいまでは、熱海とか箱根とか、皆で行ったりしてたんだ。よく覚えてるんだよね」
詩乃は、力なく笑った。
こんなこと、どうして自分は話しているのだろうと詩乃は思った。自分の家族のことなんて、話して何になるというのだろう。その話すことによって、自分は何を得ようとしているのだろうか。
やっぱり話すのはよそうと、詩乃は口を噤んだ。そんな詩乃の手を、柚子はきゅっと握った。
もう怖くないよと、柚子は心の中で詩乃に呟いた。
私はもう水上君から逃げないから、水上君も、私に打ち明けていいんだよ――。
柚子の手の温かさと、その瞳の熱に、詩乃の唇は自然と緩んだ。
詩乃は目を閉じ、一度深呼吸をすると、言った。
「もう会えないんだ。母さんには。――中学二年の時、死んじゃって」
詩乃はそこで一度言葉を切り、痰を切る様に一度、咳払いをした。
柚子の手が、ぎゅっと固く、詩乃の手を握った。
詩乃は、柚子の手を握り返した。
「死ぬ前に……」
詩乃は一言を発した後、もう一度咳払いをして、言葉を続けた。
「――死ぬ前に見せたのが、薄っぺらいファンタジーだったんだ。それが、今でも、ずっと許せない」
詩乃の閉じた瞼の間から涙がにじむ。
話を聞いている柚子も、詩乃と同じように辛かった。詩乃の悲しみが、肌からじかに伝わってくるような気がした。それでも柚子は、もう逃げたくないと思った。水上君に過去を打ち明けさせている自分の残酷さと、正面から向き合わなければ、この先には進めない。この先に進みたいと思うこと自体、私のエゴだけれど、私はもう、水上君の海に沈んでいく感覚を忘れられない。
柚子は、詩乃の胸に額をくっつけて、頷いた。
詩乃は涙を払った。
そうして、柚子の肩を撫でて言った。
「――こんな話、ごめんね」
柚子は、詩乃を横から抱きしめた。
悲しい話を言わせてごめんね、思い出させてごめんねと、柚子はそう思ったが、言葉には出さなかった。謝る代わりに、辛い思いをさせた分だけ、私の何かをあげようと、柚子は心に誓った。
詩乃は、ただ黙って自分を抱きしめてくれる柚子を、愛おしいと思った。それは、詩乃が初めて覚える感覚だった。「愛おしさ」――その言葉は知っていたが、その言葉が何を意味しているのか、詩乃はこの時初めて知った。
「――そうだ、新見さん、これ」
と、詩乃は手提げから柚子へのプレゼントを引っ張り出した。
それは、鳩を模した銀色のブローチだった。
柚子は、ブローチを見つめ、それからその目を詩乃に戻した。
「メリーポピンズは――子供の頃に観て、母さんとね。それでずっと、印象に残ってるんだ。思い出すとどうも、涙もろくて」
柚子は、受け取ったブローチを、祈る様に両手に包んだ。
今ほど柚子は、詩乃の悲しみを強烈に感じたことは無かった。
詩乃の優しさが、その悲しみから湧き出していると思うと、柚子はやりきれなかった。「私がいるよ」とはまだ言えないのが、柚子は辛かった。でもそのうちには、絶対に、水上君のそういう存在になりたいと、柚子は心に強く思った。
「私のお父さん、銀行員なんだ」
柚子が言った。
「――クリスマスの前まで、実はちょっと喧嘩したままだったんだけど、クリスマスプレゼントに傘あげたら、仲直りできた」
柚子はそうして、詩乃の目を見つめて言った。
「水上君のおかげだよ」
「え?」
どうして、と詩乃の驚く顔に、柚子は微笑みだけを返した。そうして柚子は小さく「ありがと」と詩乃の胸に呟いた。
電車に揺られて、いつの間にか眠っていた二人は、電車が修善寺駅に着いた時、どちらともなく目を覚ました。
駅を降りて二十分ほど待った後、虹の郷行きのバスが駅前のバス停にやってきた。霞んだ黄色のバスは、しかし詩乃の目には、鮮明なオレンジに映った。
山岳地帯を行き、二十分ほどで、バスは虹の郷に着いた。
バスを降りた詩乃は、虹の郷のその入口の様子を見て、「おぉ」と声を上げた。イギリスの田舎町を彷彿とさせる、広い三角屋根の建物が、入口ゲートを挟んで立っている。
詩乃の思い出のままの景色が、そこにあった。
感動する詩乃の、眼鏡越しではない本物の表情を見て、柚子は嬉しくなった。詩乃は、きらきらと、子供の様に目を輝かせている。水上君のこんな笑顔は、初めてかもしれないと柚子は思った。
「いい所だね」
「うん」
柚子の言葉に力強く頷き、詩乃は柚子を連れて、郷の中に入った。
郷の入り口あたりはイギリス村。のどかな、中世イギリスを彷彿とさせる、木造の二階建ての建物が、小さな通りを作っている。青い空と白い壁、煉瓦造りの赤茶の道のコントラスト。ロンドンを走る二階建てバスが広場に展示されている。
「水上君、機関車、機関車!」
柚子の指差した先には、蒸気機関車が、赤い客車を率いてシュポシュポと走っていた。街を走っていた本物の汽車よりも小さいが、客車には、ちゃんと人も乗れる。この機関車は、里をぐるりと一周回っているのだ。詩乃は、今まで忘れていたことを、色々と思い出していた。
「あとで乗ろう」
「うん!」
イギリス村を抜けると、今度は、木造瓦屋根の建物が軒を連ねる一画に入った。
時代劇のようなその村を抜けた先には池があり、二人はその池の傍らのベンチで昼食をとることにした。柚子は、革製のリュックから、丸っこいドームのような二段重ねの弁当箱を二つ出して、一つを詩乃の膝の上に置いた。
柚子が作ってきたメインディッシュは、八宝菜だった。ただし、詩乃の作る八宝菜とは香りが違っていた。――柚子の香りがした。その匂いを嗅いだ詩乃は、柚子の茶目っ気に、思わず笑ってしまった。
詩乃は、柚子の事をどんどん好きになってゆく自分の気持ちが、少し恐ろしかった。柚子の笑顔を見るだけで、その笑い声を聞くだけで、詩乃は息を忘れてしまいそうになった。まるで溺れているようだと、詩乃は思った。
すっかり八宝菜も平らげた後、柚子は持ってきた水筒から、詩乃にコーヒーを注いだ。
詩乃はコーヒーの湯気の隙間から、昔、自分が落っこちた池を眺めた。
「――あの池だよ、落ちたの」
詩乃が言った。
柚子は、詩乃の視線の先を追って見た。
「あの、ちょっと出っ張ってるところあるでしょ。確かあそこで、鯉に餌あげようとしてたのかな。落ちちゃったんだよね」
それを聞いて柚子は、小さい頃の詩乃が池に落ちる様子を思い浮かべた。お麩の入ったビニール袋を片手に持って、小さな手で、できるだけ鯉に近づいて、そのパクパクと音をさせる口に投げ込む。その勢い余って、ばしゃんと、鯉の中にダイブしてしまう。
詩乃の無邪気な少年時代というものを、不思議と柚子は、簡単に想像できた。
ふふふと、柚子は口元を押えて笑った。詩乃も、頬を緩めた。
そしてふと、詩乃は、柚子の髪に花びらがくっついているのに気が付いた。
「桜だね」
詩乃はそう言いながら、柚子の髪に手を伸ばして、花びらを摘まみ取った。
「どこから飛んできたんだろう」
詩乃はあたりを見渡した。
その瞬間、一陣の風が吹き起った。
その突風に、詩乃の摘まんでいた花弁は、「あっ」と言う間もなく、巻き上げられて、水色の空に飛んでいった。
一瞬の出来事に二人は呆けたまま顔を見合わせた。
風は一瞬後には、強風のあったことなどまるで幻だったかのように穏やかになった。
詩乃は、頬にだけ微かに残る冷たさを触った。
そして、二人は、互いにどっと笑った。
「ね、私も餌あげたい」
柚子は、ぐっと上半身を折り曲げて、詩乃の顔を覗き込みながら言った。
「え、いいけど……」
「一緒に行こ」
柚子はそう言って立ち上がり、詩乃に手を伸ばした。
「――また落っこちるかも」
詩乃は、笑って言った。
柚子も、笑いながら応えた。
「そしたら私も飛び込んで、助けてあげるよ」
詩乃は、柚子の冗談っぽい笑顔と、そしてその瞳の真剣さに息を止めた。
もう、溺れてるみたいだよと、詩乃はそんな事を思いながら、柚子の手を握った。
〈あとがき〉
この2章は最初、2021年の五月末から6月末にかけて発表した作品でした。それを今回、5章までを書きあげて完結させた後、改めて書き直して、今回の2章になりました。最初に発表した2章と、今回書き直した2章と、随分違っていると思います。文字数も10万文字ほど増量させました。
なぜ書き直したか、という所ですが、私の中で2章は、少し納得がいっていませんでした。というのは、実はもともと今回書き直した2章が頭の中にあり、本当はそれを書きたかったのです。が、当時の私は、それを形にできる自信がありませんでした。今回、やっぱりこの作品に心残りを作りたくないという思いに駆られて、読者の皆様を混乱させてしまうことは申し訳なく思いつつも、書き直しました。すみません、ご容赦ください……。
さて、内容についてですが、今回は1年前と違い、かなりじっくり書けました。
詩乃の初恋と明香とのこと、詩乃の友人の洋、そして、柚子の中学時代とその決着――それを通して二人は、3章の関係になります。前2章は、詩乃の彼氏としての「不慣れさ」だけを書いてお茶を濁してしまいましたが、やっとちゃんと書くことができたと、正直なところ、安堵しています。書き上げた時は、達成感よりもいつも「安堵」です;;
他の章は特別な事情が無い限り今回のような「差し替え加筆」は行いませんので、今度こそ、完結です。毎回申し上げることなのですが、今回も、やはり、読者の皆様の応援あってこその完成でした。いつもありがとうございます。感想など、是非是非、よろしくお願いします。励みになりますので<(_ _)>




