黒耀石の真実(3)
洋や智美に気を使わせている自分が、詩乃は情けなかった。自分は今日、ただ二人のお荷物で、この場の厄介者だと思った。
誰かが流しているお笑いか何かの動画の音声が耳に障り、詩乃は目を閉じた。
明香の笑い声も聞こえてくる。
――外に出て時間を潰そうと、詩乃はそう思い立ち立ち上がろうとした。
柚子が階段を上がって二階に上がってきたのは、その時だった。
柚子が二階に現れた最初の一瞬、皆は柚子を遅れてきた誰か――元クラスメイトかと思った。
柚子は、脱いだコートを両手に、丸めるように畳んで持っていた。
誰、という疑問すら誰も口にできないまま、柚子は一瞬にして、一手に全員の視線と注意を引いた。皆、柚子の「美」に目を奪われた。
しんと静まった座敷席に、誰かが流しているお笑い動画の音声だけが、白々と流れる。
「あ、すみません。水上君のお迎えに来ました」
柚子は、にっこり笑って軽く頭を下げた。
その目は、しっかりと詩乃をとらえていた。
ええっ、と驚きの声を上げる面々をよそに、詩乃はぽかんとしていた。
柚子は、詩乃に向かって控えめに手を振った。
詩乃も釣られて、小さく手を振り返した。
皆が二人の関係を理解するのには、そのやり取りだけで充分だった。大きな「えぇ!」という声が再三上がるが、柚子は「ごめんなさい、勝手にお邪魔しちゃって」と皆に笑いかけながら、靴を脱ぎ、詩乃の元へと歩み寄った。
詩乃は、ただ唖然としたまま、隣の席に置いていたバックとコートをどけて、柚子の座る場所を作った。柚子は満足そうに微笑み、詩乃の隣に座った。柚子は、自分の図々しさは百も承知していたが、自分が何をしに来たのか、覚悟と目的を決めた柚子の態度は、もはや反感を生じさせる余地すら誰にも与えなかった。
詩乃は、近くの女子や男子から質問攻めにあった。しかし詩乃は、そのどの質問にも答えなかった。ただ驚いて、柚子の目に、目線で「どうしたの、こんな所まで」と問いかけることしかできなかった。そして柚子も、ただ詩乃を見つめることで、自分の気持ちを詩乃に伝えた。
二人の相席に、明香がやってきた。
「え、もしかして新見さんですか?」
明香は、柚子に質問した。
柚子は明香に笑いかけながら、応えた。
「うん。宮本さん?」
「そうですそうです! 電話で話したよね!」
明香が、柚子に言った。
周りのテーブルは、突然現れた美人と、その美人が詩乃の彼女だろうということで、それをネタにした会話が、女子を中心に、ハイテンションで繰り広げられ始めた。
「うん」
柚子は、にこっと満面の笑みを明香に向けた。
それから柚子は、柚子に話しかけようと口を開きかけた明香を無視して、詩乃の膝に手をつき、詩乃に言った。
「ごめんね、勝手に来ちゃって」
「いや、いいよ。驚いたよ」
詩乃は、率直に感想を述べた。
「テスト終わったから、もういいかなって」
詩乃は思わず、笑みを浮かべた。
詩乃は、柚子に赦されたような気がした。泣かせるほど新見さんを傷つけたのに、新見さんはまだ自分のことを、気にかけて、好きでいてくれているらしい。そう思うと詩乃は、今まで、誰に対しても感じたことのない安らぎを覚えた。
詩乃は、柚子の手を撫でるように少し触れて、それから言った。
「帰ろうか」
柚子は、こくりと頷いた。
立ち上がりかけた詩乃に、洋が言った。
「あ、もう帰る? 全然一緒にいてくれてもいいけど」
「ううん。もう帰るよ」
詩乃はそう答えた。
たった一瞬、洋と詩乃は視線を交わした。
洋は、詩乃の目の揺らがないのを見て取ると、詩乃に、というより、全体に対して言った。
「そっか、わかった。遠いもんね、詩乃っち」
柚子は壁際に丸められていた詩乃のコートを広げ持って立ち上がり、詩乃が後ろから袖を通すのを待った。柚子が詩乃にコートを着せるのを、皆、衝撃を受けつつ見守った。明香も、何か一言か二言、勝手に同窓会に入ってきた柚子に言ってやりたかったが、柚子の暴力的な美を前にしては、何も言えなかった。
そんな明香に、柚子は微かな笑みを見せた。
詩乃は、コートのボタンをしめて、柚子から自分の手提げを受け取った。そうして詩乃は、皆には会釈もせずに場を突っ切って靴を履き、柚子は詩乃の代わりに、笑顔を浮かべながら、皆に小さく頭を下げた。
洋と智美は、店の外まで二人の見送りに付き添った。
「水上君も隅に置けないね。こんなに可愛い彼女さんが迎えに来てくれるなんて」
智美は、階段を降りながら詩乃に言った。詩乃は照れ笑いを浮かべ、洋は、「いやぁ、最高だよ」と言って楽しそうに笑った。店から出る間、柚子と智美は、通っている学校についてなど、少し言葉を交わした。
そうして店を出て、詩乃と柚子、洋と智美は向かい合った。
「ごめんなさい、本当に、勝手に入ってきちゃって……」
柚子は、洋と智美に謝った。
しかし智美は、首を振って言った。
「いいのよ。気持ち、よくわかるから」
それから智美は、詩乃にも言った。
「水上君も、小説、頑張ってね。応援してるから」
詩乃は頷いた。
「じゃあ……」
と、詩乃と洋は、互いに「またね」というような言葉を続けずに、その代わり、小さな笑みを向け合った。そうして詩乃は二人に背を向けて、歩き出した。柚子もその後に続いた。
二人が歩いて路地を曲がっていくのを、洋と智美は見送った。
やがて二人が路地に消えると、智美は洋に言った。
「吃驚したね」
洋も、笑いながら「そうだね」と返した。それから洋は、もう一言続けた。
「でも、なんかスカっとしたな」
智美も、同じ事を思っていた。
くすくすと笑いながら、「確かに」と呟いた。
お好み焼き屋から立川駅までの短い道を、二人は並んで歩いた。
「水上君、怒ってる?」
柚子は、黙々と歩く詩乃に訊ねた。
詩乃は首を振った。
「本当に驚いたよ」
詩乃は、少し笑いながら言った。
横断歩道の赤で立ち止まった時、柚子は、詩乃の前に回り込んだ。そうして、詩乃が何事かと思っている隙に、詩乃の眼鏡を、ひょいと取り上げた。
「水上君は、やっぱりこっちの方が良い!」
柚子はそう言うと、取り上げた眼鏡を自分のバックの中にしまい入れた。
突然の事に、詩乃は一瞬驚いて固まったが、次の瞬間、思わず笑ってしまった。
まるで、自分の書いたあの小説みたいだなと思った。
「あの……嫌だったんだよ、色眼鏡で見られるの」
詩乃は、打ち明けた。
柚子は、何のことだろうと思って、詩乃の次の言葉を待った。
「短編の、賞のこと。取ったからって、別に、自分の何が変わるかけでもないのに、なんか、それを理由に、だからすごい、みたいに思われるような、それが嫌だったんだ。――別に、他の人にはそれでも何でもいいんだけど……」
柚子は詩乃の言葉を聞き、霧が晴れていくような思いがした。詩乃の言葉は、説明と言うにはつたなかったが、それでも柚子には、詩乃の言わんとしていることがよくわかった。
「ん」
と、柚子は手を広げた。
詩乃は、柚子の求めに応じて、躊躇いながらも、柚子の背中に手を回した。柚子はぎゅっと、詩乃を抱きしめた。
信号が青に変わり、二人は横断歩道を渡った。
「今度……今度はちゃんと、どこか行こうか」
詩乃が言った。
「ちょっと遠いんだけど、行きたい所があって……」
「うん、行こうよ! 水上君の本当に行きたい所に行きたい」
うん、と詩乃は頷いた。
頬が緩み切ってしまうのを、詩乃は強引に引き締めて誤魔化した。柚子はそんな詩乃の腕を抱き寄せて、詩乃の肩に頭を預けた。
その日、柚子と別れて自宅に戻った後、詩乃は、柚子から貰った財布を、箱から取り出した。クリスマスに貰ってからずっと、箱に入れっぱなしだった。自分はこの財布に相応しくないと思い、使うのを躊躇っていた。
でももう、明日からはこれを使おうと、詩乃はそう思い、財布の中身を入れ替えた。
その時詩乃は、財布に日本のものではない硬貨が入っているのに気が付いた。
薄い赤銅色に、片面は西洋兜を被った軍人、もう片面は冠を被った女王らしき人物のモチーフが描かれている。その硬貨が二枚。デザインの縁に刻まれたアルファベットを読んで、詩乃はそれが1ペニー硬貨であることを知った。




