黒耀石の真実(1)
同窓会の日は朝から晴れて、微かに春を感じさせる風が吹いていた。
詩乃は昼過ぎに起きて、それから夕方まで、ぼーっとデスクティアーに座って過ごした。洋に会えることへの期待はあったが、明香や、他の同窓生のことを考えると、詩乃の気持ちはだんだんと、憂鬱に傾いていった。
夕方になり、詩乃は家を出た。
立川駅には十八時前に到着し、詩乃は、パチンコ屋の賑わいを横目に見ながらお好み焼き屋までの短い道を歩いた。
その間に詩乃は、眼鏡をかけることにした。
「お、あれ水上じゃねぇ!?」
詩乃が店の前までやってくると、そこにはすでに詩乃の中学時代のクラスメイト達が十名ほど、集まっていた。一人の男子が詩乃の名前を口にして、大袈裟に驚くと、周りの元同級生たちも、本当だと、けらけら笑った。
「眼鏡かけてんじゃん!」
誰かがそう言って、また笑いが起きる。
詩乃は困り顔を隠して、皆に一つ会釈を返した。
詩乃の到着から少し遅れて、洋が、智美と一緒にやってきた。時間より少し早かったが、クラス会の面々は、店の二階――宴会席にあげてもらえることになった。一階はテーブル席だったが、二階は堀座の座敷席だった。
再会の喜びと、成長した自分を誇示したい気分と、そんな感情がぶつかり合ってごっちゃになり、クラス会はまだ食べ放題の時間が始まる前から、宴会の雰囲気だけはすっかり出来上がっていた。
詩乃も、三年二組は悪いクラスでは無かったと思っていた。おちゃらけた男子がいて、智美のような、真面目でしっかりした女子グループがあって、それとは別に、明香のような、教師に少しだけ反発するような女子が幾人かと、そして、男子にも女子にも一目置かれる、洋というリーダーがいて。自分は確かに、腫れ物のような存在だったかもしれないが、その腫れ物を切除しようとはしなかった、そういうクラスだ。
詩乃は、部屋の窓際、一番奥の席に腰を下ろした。四人掛けの座卓、詩乃は自分の隣の席に荷物を置いた。向かいの席には誰も座らない。その方が、詩乃にとっても気が楽だった。席の空白は、遅れてくる人のために空けているのだ、ということにして、そのまま最後まで空席であればいい。
「水上君、お金、先に集めちゃいたいんだけど、いい?」
智美がやってきて、詩乃に言った。
詩乃は財布から二千円を出して智美に渡した。智美はそれを封筒に入れて封筒にあらかじめ書いておいた参加者名簿『水上』の横にチェックを入れた。それから智美は、詩乃を見つめながら言った。
「――水上君、ありがとうね、来てくれて」
詩乃は、智美の優しさに小さな感動を覚えた。
目じりの深い皺は、智美の優しさと知性を良く表している。そんなに話したことは無かったけれど、もしかすると、良い友達になれたのかもしれないなぁと、詩乃は思った。そう思うと詩乃は、誰も寄せ付けようとしなかった自分を少し後悔するのだった。
「お好み焼きは、好きだから」
詩乃が応えると、智美は笑った。
それから智美は、他の同級生のもとに集金にいった。智美の背中を見ながら、詩乃は、やっぱり来なければよかったのかなと思った。
自分が一人でいたら、きっと智美や洋に気を使わせてしまう。一人でいることよりも、あの優しい二人に気を使わせてしまうことが、堪らなく嫌だと詩乃は思った。
それでも、もう、来てしまったものはしょうがない。早退も、すればしたで、二人はきっと気にしてしまうだろう。
「たくさん食べようかな……」
詩乃はそう思いながら立ち上がり、飲み物を取りに行った。
その日、ダンス部は昼過ぎから夕方前までの活動だった。
練習の後、柚子と千代は、このひと月のいつもの習慣のように、シャワールームで汗を洗い流した。休日なので、シャワールームには他のダンス部の部員もいて、春休みの予定など皆でワイワイと話し合った。
千代は、そんな会話を話したり、聞いたりしながら、頭の中にはずっと、昨日の詩乃との会話のことがあった。まだ千代は、詩乃と話したことやその内容を、柚子には伝えていなかった。
詩乃が柚子の事を好きだという事、それさえわかれば、そのことを柚子に伝えて万事解決じゃないかと、千代は最初はそう思った。しかし少し考えると、それは違うような気がしてきた。私に、又聞きで「好きだって」なんて聞かされたところで、それが何になるというのだろうか。
柚子も知らない詩乃の秘密を握っているということについて、千代は、柚子の立場に立って考えた。そうすると、とても柚子には、昨日詩乃から聞いたことは、気軽に話せないと思った。しかしそう思いながらも一方では、昨日聞いたことを、柚子にずっと黙っているのは、とんでもない不義理ではないかとも思えてならなかった。
シャワーを終えた二人は、ダンス部のベンチコートを着て更衣室を出た。
「ちーちゃん、何かあった?」
柚子に訊かれて、千代はぎくりとした。
人の顔色を見ることに関して、柚子には超能力的な所があると、千代はよくそう思うことがあった。「助けて」と言葉で言う前に、柚子はそれを察して手を差し伸べる。だから後輩たちは、柚子を慕うのだ。そんな柚子の超能力を前にして、千代は困ってしまった。
「え、いやぁ、ちょっとね、うーん……」
「ご飯でも食べいく? 焼き肉とか」
「あ、うーん、いいね……」
千代は上の空で返事を返した。
「ご飯」と聞いた瞬間、千代は詩乃のことを連想した。今頃水上君は、中学時代のクラスメイトと、食事でもしているのだろうか。夕食には少し早い時間だけれど、あの、聞くだけでも性悪とわかる女と一緒にいるのだろうか。
そのことを思うと千代は、いよいよ胸が苦しくなってきた。こんな気持ちで、焼き肉なんかとても食べられないと千代は思った。詩乃の現状を自分だけが知りながら、それを知らない柚子の善意を受け取るなんて、とても申し訳なくてできない。大体私は、柚子に心配してもらうような悩み事なんてないのだ。
階段を降りながら、柚子は、千代の浮かない表情を少し覗いて訊いた。
「お肉じゃないのにする?」
千代は、柚子の優しさに突き刺されて、腹痛を庇うようにうな垂れた。
大丈夫? と柚子は千代に訊ねた。
「ごめん柚子、黙ってたことがあるんだけどっ……!」
千代は、堪えきれずに言葉を発した。
詩乃の秘密を自分だけが握っているということに、千代は耐えられなかった。「どうしたの?」と目を丸くする柚子に、千代は、昨日詩乃と話したことや、その内容について――とりわけ、詩乃の初恋だという女のことについて、柚子に話した。
体育棟の昇降口に並んで座りながら、柚子は千代の話を聞いていた。
千代は、勝手に詩乃から色々なことを聞いてごめんと、柚子に謝った。しかし柚子は、自分の事を心配してくれる千代の気持ちを嬉しく思った。
確かに柚子も、詩乃が自分にも話さないことを千代には話した、ということについて、何も思わないわけでは無かった。しかし、そうなる理由を、柚子は自分の中に見つけていた。詩乃と距離を置いていた間に、柚子も、詩乃や、自分の詩乃へ向ける気持ちとの向き合い方について考えていたのだ。
しかし千代から話を聞いた柚子の心に沸いてきたのは、淡くて柔らかくて難しい「恋心」にまつわる感情では無かった。一通りの打ち明け話をして、柚子への申し訳なさで沈黙してしまった千代のその沈黙の間に、柚子はその、湧いて出てきた感情の正体に気づいた。
それは、明らかな怒りだった。
柚子は、明香に対して、敵意を伴った強い怒りを覚えていた。
「――じゃあ、水上君は、あの子にずっと、利用されてたってことなのかな」
柚子が、いつもよりずいぶんと低い声で言った。
「そうだと思う」
千代が応えた。
柚子は、ぐっと息を飲み込んだ。
「それ、許せないよ」
柚子が言った。
え、と千代は固まった。
柚子の作る沈黙と、静かな言葉の中に宿る柚子の激情に恐怖を感じた。
「――でも、私もわからないのは、なんで水上君、その子に会ったりしたんだろう」
千代の問いに対して、柚子は、はっきりと答えた。
「私、わかる気がする」
柚子は、心愛からダブルデートの誘いがあった時の気持ちを思い出した。
――あの時私は、ダブルデートなんて、水上君は嫌がるだろうと思っていたけれど、それでも、心愛に会いたいと思った。心愛と仲直りができないのは、薄々気づいていたのに、それでも、会ってそのことを確かめずにはいられないと思ったのだ。
水上君は、私のそういう気持ちを解っていたから、きっとダブルデートにも応じてくれたんだ。それに絢のことも、『割れたことを確かめ合える』機会をくれた。
一言で片づけられない、矛盾したような感情の混ざり合った気持ちを、水上君はわかってくれる。私にもわからない私の気持ちの奥のことを、理解してくれている。
そんな水上君を――私の好きな水上君を、遊び半分に弄ぶなんて、本当に許せないと柚子は思った。




