あだ波に浮かぶ(5)
一言の会話も交わさないまま、二人は文芸部の部室にやってきた。
詩乃は、部屋に入り暖房をつけると、「どこでも、座っていいよ」と千代に言った。千代は、「うん、ありがと」と言ったものの、椅子には座らなかった。
詩乃は、いつもは柚子が使っている椅子に腰を下ろした。
「今日は部活は無いの?」
詩乃は、千代に訊ねた。
「今やってるよ。私は副部長だから、抜けてるだけ」
詩乃は足を組み、組んだ足の上に右肘をついて、その手の上に顎を乗せ、名探偵のような雰囲気をまといながら、小さく幾度か頷いた。
「文芸部って、結構広いんだね」
千代はそんな事を言ってみた。
何とも間の抜けた質問だと千代は自分でも思ったが、会話の糸口を探るにはそんな言葉から始めるしか他に考え付かなかった。
「宝の持ち腐れだね」
詩乃はさらりと応えた。
千代は、返答に窮した。笑う所なのか、何なのか、千代にはわからなかった。
「あ、そうそう! 水上君の小説読んだよ。クリスマスの。すごく面白かった」
「あぁ……うん、じゃあ良かった」
詩乃は、微かな笑みを浮かべながら言った。
千代は、詩乃の小説について話をしようかと思ったが、やめた。その話に、詩乃が乗るようには思えなかった。「あぁ、そう、よかった」と、それ以上の反応が返ってくるようには見えない。
「――新見さん、今踊ってるんだね」
「え? あ、うん、たぶんね! 私ももう少ししたら戻らなきゃなんだけど――春休み、合宿があるんだよ。長野に行くんだけど、三年生の卒業合宿も兼ねてて――向こうで追い出しステージもやるんだ。今その練習中」
へぇと、詩乃は相槌を打った。
春休みに合宿があることは、詩乃も知らなかった。
「二年生も、もうあとひと月だね……」
詩乃が呟いた。
「柚子なんだけどさ――」
千代は、思い切って口にした。
今なら、柚子の話題を出しても大丈夫そうだと、千代は思った。水上君は、牙を抜かれた獣のように、なんだか気が抜けている。柚子の名前が出ると、詩乃は顔を上げて千代を見た。
「元気無いんだよね」
詩乃は、「うん」と返事をして、また視線を落とした。
それから詩乃は少し考えた後で口を開き、言った。
「自分じゃ新見さんを……落ち込ませてばっかりだよ」
千代は近くのパイプ椅子を引き寄せて、それに座った。
「でも柚子、水上君の事大好きだよ?」
詩乃はそれを聞くと、眉間に皺を寄せた。
「――水上君はもう、柚子の事、好きじゃない?」
詩乃はそう言われて、思わず笑いながら立ち上がり、首を振った。
「そんなわけないよ。そうなったら、死んでるようなもんだよ」
詩乃は腕を組み、本棚まで歩くと、何かのタイトルを探すでもなく、棚に並んだ本を見つめた。
「じゃあ、水上君も、まだ柚子のことが好きなのね?」
千代は、念を押して聞いた。
詩乃は振り向き、当たり前じゃないかと言うような笑いとともに、千代を見つめて言った。
「好きじゃなかったことなんてないよ、最初から」
「じゃあ、どうして初恋の子と会ったりなんかしたの? たぶん柚子、それで勘違いしてると思うよ」
「勘違い? 何を?」
「え……」
千代は、急にきょとんとする詩乃に絶句した。
千代は質問を変えた。
「賞取った事、なんで柚子よりも先にその子に教えたの?」
詩乃は、千代の質問の意図がわからず、眉を顰めた。
「驚かせようと思ってた?」
「そうじゃないけど……」
詩乃は再び本棚に向き直り、腕を組み、首をうな垂れた。
「賞のことは、教えたんじゃないよ。たまたま知られちゃっただけで。二人で会ったのは……」
「水上君から誘ったの?」
「ううん、向こうから」
うむうむと、千代は頷いた。
詩乃は席に戻り、足を組み、そして大きなため息を一つつくと、話し始めた。
「中学の時、告白して、振られたんだよ。でもその後も、友達みたいな感じだった。その子、自分の友達のことが好きでね」
「水上君の友達のことが?」
「うん。だから、手伝ってたんだ」
「え、その、二人の恋を?」
「まぁ……でも、友達の方はその子の事好きじゃなかったみたいだから、結局付き合わなかったんだけど」
千代は少し考えてから、詩乃に質問した。
「それって、水上君がその子に、告白した後の話だよね?」
「うん」
なるほどねと、千代は頷いた。
――とんでもない女だねと、千代は思わずそう言いそうになったが、何とかその言葉を腹の中に抑え込んだ。詩乃がその子のことを悪く言わないので、千代も、その詩乃の気持ちに配慮することにした。
「でもさ、その子と今更二人で会って、何話したの?」
千代が訊くと、詩乃は力なく笑った。
「別に、何を話したわけでもなかったよ。なんで会ったのかも、わからない」
「――え、もうその子のことは、水上君は、好きなわけじゃないんだよね?」
「うん」
「向こうは?」
「無いよ。気のありそうなそぶりだけ。それで、からかってるんだよ」
千代は、なおさらわからなくなった。
それならどうして、その子と会ったりするのだろう。柚子という彼女がありながら、柚子を悲しませてまで。
「なんで会ったの?」
千代の問いに、詩乃は「わからない」と答えるしかなかった。千代も、わからないと言われては、それ以上は聞けなかった。「本当はまだその子の事好きなんじゃないの? だから、会いに行ったんじゃないの」――と、そういう質問をすることも千代にはできたが、責め立てるようなそれらの問いを、千代はぐっと堪えた。
「そういえば、クラス会あるんでしょ? 中学の時の」
「あぁ、うん。明日ね」
「明日!? 明日なの?」
「うん。食事して、カラオケして……」
「え、夜だよね?」
「うん」
千代は、また責め立てそうになる感情を抑えて、詩乃に確認した。
「またその子と会うんだよね?」
「……そうなると思う」
「まぁ、クラス会はね、行きたいだろうけど、でも、柚子にも一言かけてあげた方が良いよ。じゃないと柚子、可哀そうだよ。水上君の彼女なんだからさ」
詩乃は頷く代わりに一度目を閉じ、それから応えた。
「言わないよ」
「え、なんでよ。柚子きっと、知りたいと思うよ、そういうことも」
「嫌だよ。新見さんを、巻き込みたくない」
巻き込む、とはどういうことだろうかと千代は思った。
「同窓会、行きたくないの?」
詩乃は、千代の目をじっと見て応えた。
「行かないじゃ済まないんだよ……」
千代は、もうこれ以上、詩乃が答える気のないことを、その弱弱しいながらも毅然とした雰囲気に感じ取った。千代は仕方なく、歯がゆく思いながらも、「そっか。まぁ、そういうこともあるよね」と、とりあえずの共感を示して、詩乃との会話を切り上げた。




