あだ波に浮かぶ(3)
紗枝と千代は、柚子の涙と気持ちを落ち着かせながら、柚子の話を聞いた。
別れ話をされた、振られたと柚子は最初に言ったので、二人も、「やっぱりそうだったのか」と思った。薄々、その可能性のあることは考えていたのだ。
しかし話を聞いていくうちに、「振られた」というのが柚子の想い込みではないかと、二人は考え始めた。詩乃の初恋の同級生と言う存在は確かに気になるが、柚子の話しを聞く限りでは、詩乃がその子に気を移したと決めつけるには、まだ根拠が弱いと、千代も紗枝も思った。
柚子に内緒で二人で会っていたことや、文学賞の事を柚子には教えず、先にその子に教えたことは、確かに普通なら、気持ちを疑うのに十分な根拠になる。その点では、紗枝と千代の見解も一致していた。詩乃が柚子にそのことを話したのは、遠回しな「別れ話」だったと、そう考えることも確かにできる。
しかし肝心な、詩乃のそれらの行動の理由がわからない。
本当にそう言った一連の言動は、詩乃の浮気心からなのだろうか。
「どっちにしてもまぁ、確かに水上君も、不用意だとは思う。でも――」
千代がそう意見を言ったのは、三人が風呂から出て、柚子の部屋に戻ってきた後だった。
「……柚子のその、幼馴染との仲直りを助けたっていうのは、やっぱり柚子のことが好きだからなんじゃないかな。普通、そんな他人の――好きでもない人の事で、そこまでしないと私は思うんだけど」
そうかな、と柚子は自信なさげに千代に聞き返した。
「うん。私も千代に一票かな」
紗枝が言った。
紗枝はしかし、柚子や千代よりも、もっとシンプルに考えていた。
柚子よりも良い女は、そういない。だから、柚子が詩乃を取られるというのは、まずありえない。水上が距離を置こうというのは、言葉の通りで、まだ柚子との距離感がつかめていず、そのせいで色々、暴走してしまっているのではないか。
「――柚子、その子と話したんでしょ? 水上の、初恋だっていう同級生」
「うん」
柚子が頷くと、千代が興奮して言った。
「そうだよ! その子、彼女いるの知りながら水上君誘ったわけでしょ? 二人で会うって」
「どっちから誘ったかはわからない……」
「どっちにしてもだよ! それ柚子、喧嘩売られてるよ、ありえない!」
千代は怒り、柚子はただ俯く。
紗枝も、明香に対しては、言いたいことはいくらでもあった。わざわざ柚子と電話をしたり、そこで詩乃の文学賞の事を柚子に話し、「心配しなくていい」なんて言いながら、後から詩乃と二人で会ったり。千代の言う通り、柚子に喧嘩を売っているとしか思えない。
「どうなんだろうね……」
柚子はそう言って、明香に対する態度を濁した。
柚子はそういう子だわねと、紗枝は静かに息をついた。千代は、近くに落ちていたクッションをバシバシとカーペットに打ち付けたが、それ以上千代が、明香への悪態をつく前に、紗枝が言った。
「まぁ今は、テストもあるし、一旦距離を置いてみるには丁度いいんじゃない。今はテストに集中してさ」
紗枝が言った。
紗枝に言われると、柚子も、確かにそうかもしれないと思えてくるのだった。
紗枝と千代に話を聞いてもらってた柚子の心は、随分と軽くなっていた。二人の前で大泣きしてしまったことの恥ずかしさは引きずっていたが、二人になら、そんな姿を見せても「いいか」と思える柚子だった。
「うん。そうだよね……。そうしてみる」
柚子が言うと、紗枝は頷いた。
千代は、明香を無罪放免で許しそうな柚子と紗枝に不満顔を見せたが、紗枝はそんな千代からクッションを取りあげて、千代の肩をポンと威勢良く叩いて言った。
「ほら、私たちも、柚子のことばっか心配してる余裕ないんだから。これで赤点とか笑えないよ」
赤点という言葉が出てくると、千代もテーブルに向き合って、仕方ないとばかりに緩慢な動作で、ペンを手に持った。「夕飯まで頑張ろう」と、柚子は千代を励ました。
「もう試験の方は問題なさそうですね」
神原教諭は、詩乃とテスト演習の答え合わせをした後、詩乃に言った。
場所は、国語科資料室。図書室から渡り廊下話渡った先、一年生の教室のあるSL棟二階の先端にある、ちょうど文芸部の部室と同じほどの広さの部屋である。
この日は、テスト前仕様の授業スケジュールで、授業は四時間で終わった。
その後詩乃は国語科教室で、神原教諭の〈国語テスト演習〉を受けたが、それも、テスト本来の制限時間を半分以上残し、終わってしまった。
神原教諭は、模擬試験に使った書類をまとめ、そしてふと、詩乃に訊ねた。
「そういえば水上君、文芸部は、新入部員募集の募集チラシ、作りませんか?」
「募集チラシですか?」
「ずっと一人というのも難でしょう」
詩乃は、新入部員のことなど、全く考えていなかった。
来年も、当たり前に一人の文芸部を想像していた。
「考えてませんでした」
「一年生で何人か、文芸の創作活動に興味のある生徒も出て来ていますよ」
「そうなんですか?」
神原教諭は、目元を綻ばせた微笑を詩乃に向けた。
「選択科目で私の授業を取っている生徒なんですけどね。――水上君、今度私の代わりに、先生やってみませんか?」
「え……いや、教えるのは、できないですよ……」
「そんなことないですよ」
神原教諭は、大らかに言った。
「水上君は、現役の作家じゃないですか」
神原教諭には、詩乃は欅社の文芸賞を取ったことも、そして過去、自分がライトノベルを出していたことも話していた。しかし神原教諭に「作家」と言われると、詩乃はまだ胸を張って、「そうだ」とは言えなかった。
「でも新人発掘の、短編ですよ。それで食べていけるわけでもないし……」
「いやいや、すごいことですよ」
神原教諭はそう言いながら、今一つ浮かない詩乃の様子を楽しんでもいた。
「一人がいいですか? 部活動は」
「いや……その方が気は楽ですけど、でも――学校の部活動なので。でも、うーん……勧誘とかは、正直、やりたくないです。……書くのに興味が無い人に無理に興味を持たせようなんて、全然思えません。自分も、どうして書いてるのか、よくわかってないし、たぶん、普通、書けないと思います」
神原教諭は、うんうんと、無邪気な目を詩乃に向けたまま頷いた。神原教諭はそうして聞き役に徹するので、詩乃は神原教諭といる時には、自然と言葉が引き出されるのだった。
「水上君に憧れている生徒もいますよ」
「それはわからないですけど、でも……部員が入って、自分がその生徒たちと、仲良く付き合えるか、わかりません。ちゃんと部長をやらなきゃいけなくなっても、自分と一緒にやっていこうって人は、いないような気がします」
詩乃が言うと、神原教諭は目元に笑みを浮かべたまま詩乃に言った。
「肩肘を張る必要はありませんよ。松は松、欅は欅、ブナはブナ、それぞれ形は違っても、それぞれに味があって、見事なものです。杉やセコイヤのような、真っすぐなものだけが木じゃないですよ。水上君は水上君で、味があって良いじゃないですか」
詩乃は、はっとした。
そうか自分は、杉やセコイヤになろうとしていたのかと、詩乃は思った。だけど確かに、神原教諭の言う通り、自分の幹の形は、あれではない。それなのに樹高を競って、高くあろう、高くあろうとしていたのではないか。
神原教諭は、詩乃が目を丸くして唖然としている様子を、どこか楽しそうに見守った。
三月に入り、その第一月曜日からの三日間は後期テストがあった。
普段と違う出席番号順の座席というだけで教室には緊張感が漂った。それは、多くの生徒にとっては当然のことだった。何しろ、学校生活上の重大行事である。しかし詩乃にとっては、そうではなかった。
試験には上の空の詩乃は、試験中、気が付くと頬杖を突いたまま、柚子の机の向かう後姿を眺めていた。詩乃の席は、窓際から二列目の一番後ろで、そこからは、教室の真ん中あたりの座席に座る柚子の頭から背中、そして柚子がたまに動くと、耳や微かな横顔が見えた。
そしてテスト中は、詩乃が柚子を見ていても、生徒たちは自分のテストに集中しているので、詩乃の視線などには注意を払わなかった。
試験官でクラス担任の大谷教諭は、教卓の横に座って本を読みながら、たまにクラスを見渡した。その時に、詩乃が顔を上げているのにも気が付いたが、水上詩乃という生徒がカンニングをしたり、そういった悪巧みに加担するような人間でないのを教諭も知っていたので、特に何も言わなかった。
テスト中、詩乃はほとんどの時間を、柚子との関係をどうしたいのか、ということを考えて過ごした。他の事――例えば小説の構想などを考えていても、結局いつの間にか、思考は柚子に戻り、気づくと柚子を見てしまっていた。
試験と試験の休憩時間にも、詩乃はよっぽど、柚子に話しかけようと思った。そうして、立ち上がりかけることもあった。しかし、柚子に声をかけようとすると、詩乃の脳裏に、文芸部を出て行った柚子の背中が過ぎった。
あれは、別れを告げる背中だった――詩乃はそう思っていた。
自分の元から新見さんは去ってゆき、自分はそれを引き止めなかった。
詩乃は、あの瞬間に自分たちの答えは出たような気がしていた。柚子に話しかけたら、今度こそ、決定的な別れを告げられるかもしれない。詩乃はそのことを恐れた。この、曖昧な状態でいることの気持ちの悪さと、白黒はっきりついてしまうことの恐怖と、詩乃はその葛藤をかかえながら、試験の終わりを告げる鐘ごとにに、心の中ではそれが、つばぜり合いのごとく静かに熱を帯びるのだった。
しかし結局、詩乃は柚子に話しかけられなかった。
テスト三日目の最後の試験が終わった後、詩乃が〈つばぜり合い〉をしている間に、柚子は早々に、クラスの友人たちとの打ち上げに誘われて、その輪に押し流されるように教室を出て行ってしまった。
詩乃はその日も、とぼとぼと帰路についた。
――最初に戻っただけだと、そんな事を自分に言い聞かせながら。




