あだ波に浮かぶ(2)
――いや、いつ来てもね。
――ちょっと、竦むよね。
千代と紗枝は、柚子の家の前で立ち止まり、そんな会話を交わした。
御殿だとか、お屋敷、というほどの大きな家ではないが、文京区の高級住宅地に堂々と建つ二階建て庭付き、単純な箱型ではないアシンメトリーの建物は、少し特別な存在感を放っている。駐車場には黒のBMWと真っ赤なアルファロメオがとめてある。
紗枝がインターホンを押すと、程なく、玄関から柚子が出てきた。
千代がプレゼントしたペンギンの袖付き毛布を着ている。ぶふっと、思わず紗枝と柚子は笑ってしまった。
「待ってたよー。上がって上がって」
ペンギンに先導されて、二人は柚子の家に上がった。
お泊り勉強会――柚子が突然それを言い出したのは、一昨日、金曜日の放課後だった。来週の月曜日は祝日で休みなので、お泊り会は日曜日――今日と明日の一泊二日で開催される運びとなった。
広い玄関口からリビングを通り抜けて、階段を上がり、上がった先のすぐ左手に柚子の部屋がある。
柚子の部屋――。
紗枝も千代も、最初に来たときは、驚いたものだった。ガーリーでファンシーな、ふわふわした部屋に違いない、と二人は思っていたのだ。ところが柚子の部屋は、配色で言うと、全体にセピアがかっていて、雰囲気は、まるでホテルの客室のようなのだった。
入って左手には、背の低いダブルベッドが、でんと配置されている。分類上はダブルベッドだが、三人くらいは悠々と川の字で横になれるほどの、特質すべき大きさのベッドである。そのベッドの他には、部屋には木製の衣類棚や勉強机があり、全体としてクラシックな雰囲気を作り出している。
「いつ来てもホテル柚子だね」
千代は部屋を見渡してそう言いながら、ベッドの前のちょっとした空間にバックを置いた。折り畳みの可愛らしいテーブルに座椅子クッションが三つ。ベッドの向かいの壁側には、扉付きの姿鏡がある。
柚子は、二人からコートを受け取って、姿鏡の横に立てているポールハンガーにかけた。ポールには他にも、柚子の普段学校には着てこないコートや、その近くの棚の上には、たくさんのバックが並べて置かれている。それらが柚子の姉、彩芽から流れてきたものだということは、紗枝と千代は知っていた。
二人は、柚子の部屋に上がった時にはいつもそうしているように、柚子の部屋に新しく〈入荷〉した服やバックや小物類を、ウィンドーショッピングのように楽しんだ。そうしてひとしきり品評会ごっこをして楽しんだ後、一応勉強会なので、三人はノートに筆記用具、教材を準備して机に向かった。
一時間ちょっと勉強をした後、三時のおやつには遅い時間だったが、ちょっと一息入れようということになり、柚子は紅茶とお菓子の準備のために部屋を出た。紗枝と千代は、ほうっと、大きく息を吐いた。
勉強で疲れた、というのもあったが、それと同じくらいに感じていたのは、気疲れだった。いつ柚子に詩乃の事を訊こうかと、二人はそのタイミングをずっと窺っていたのだ。
柚子と詩乃の仲が上手くいっていない、ということは、直接柚子に訊かないでも二人にはわかっていた。そして今日、柚子が自分たちをここに招いた理由も、承知していた。詩乃との間に何かあって、そのことを、聞いてほしいのだろう。
しかし、わかってはいたが、二人はなかなかその話題を柚子に切り出せなかった。
いつも通りの仮面をかぶって、ペンギンパジャマで自分たちを笑わせるなんていうサービス精神まで披露している、その裏にある柚子の傷心を、感じ取れない二人ではなかった。かなり深手を負っているに違いないと、紗枝も千代も感じていた。
「まさかと思うけどさ……別れてないよね?」
千代は、半信半疑で紗枝に確認した。
近頃は、本格的にその可能性が出てきたので、二人が別れたのではないかという噂さえ、柚子の前で話す生徒もいなくなった。それだけのその噂には真実味が出て来ていた。
「いや、どうだろう……」
紗枝も、少し前までなら、別れてはいないだろう、という立場を取っていたが、先週のバレンタインデー以降は、もしかして、と考えるようになっていた。
「でもたぶん、デートは行ってなさそうなんだよね」
「あー、バレンタインの日だよね? うん、私もそう思う。何も言わないもんね」
紗枝と千代は、その点で同じ意見だった。
「なんか、下手な聞き方したら、泣かせちゃいそうな気がする……」
千代が言った。
紗枝も、千代とほとんど同じようなことを思っていた。
柚子が部屋に戻ってくると、紅茶と焼き菓子で休憩になった。千代と紗枝は、柚子の様子を見て、目配せを互いにしながら、今度こそ柚子に詩乃のことを質問するタイミングを探した。しかし、質問をするのにちょうど良い沈黙が起こりそうになると、柚子は必ずそれが沈黙になる前に、紗枝か千代に、何やかやと質問を投げかけたり、新しい話題を振ったりした。結局その休憩中には、二人は柚子に肝心の質問ができなかった。
軽いお菓子休憩の後、三人は二時間ほど勉強をして、気が付くと外はすっかり暗くなっていた。夕食にはまだ少し早い時間、特に示し合わせたわけでもなく、三人は息をつき、顔を見合わせた。
「お風呂入ろっか」
柚子が提案すると、紗枝と千代は、待ってましたとばかりにその準備を始めた。
柚子の家の風呂は、紗枝と千代の楽しみの一つでもあった。
黒い大理石の浴室に、四畳ほどもある広々とした浴槽。洗い場にはシャワー付きの水栓とバスチェアも三人分完備している。
そして何より、その湯である。
人工温泉なのだ。
三人は柚子の部屋を出て階段を降り、一階の風呂場の脱衣所に入った。浴槽だけでなく脱衣所も、ちょっとした旅館のような、和の趣がある。広さも、三人が同時に着替えても全く狭いと感じないほど余裕がある。
服を脱ぎ、浴室への一番乗りは千代だった。千代の、何も隠さない大胆な脱ぎっぷりを見て、いつもの事ながら、柚子は笑ってしまった。小さな尻、引き締まったお腹、胸は、わりと薄めだが、形が良く、全体のフォルムとして、スポーツカーのような美しさがある。
紗枝も、着替えるのは早い。ヘアゴム派の千代に対して、紗枝は手ぬぐいで髪をまとめている。ただ、どういうわけか紗枝の場合は、その手ぬぐいの結び方がちょっと特殊らしく、やたら強そうに見える。まるで兜の様になるのだ。柚子は、それについても、面白くてつい笑ってしまうのだった。
結局柚子が一番最後だった。
千代と紗枝、はしゃぐ二人の声とシャワーの音が跳ね返って、その賑やかな様子に、柚子の気持ちも、自然と明るくなった。大きな風呂は、のびのびとして自由で良いが、一人で入っているとたまに、その広さのせいか、柚子は不安になる時があった。今は三人、ちょうどいい気がする柚子だった。
髪も身体も洗い、三人一緒に、湯船に体を沈める。
人工温泉の滑らかな湯に、紗枝と千代は声を漏らす。
「いつも思うけど、柚子、この風呂は羨ましいよ」
紗枝が言った。
「柚子の肌はこのお湯が作ってるのねー」
千代は、湯を掬って、その湯を見ながら言った。
違いないね、と言いながら、すいーっと紗枝は柚子の近くに泳ぎ寄って、その肩に触れた。柚子は、くすぐったがって肩をすくめた。千代も、にやーっと笑みを浮かべると、柚子の側に寄ってきて、今度はその太ももを撫でた。
「ちょっと、くすぐったいから!」
柚子の何とも子猫の様な反応に、紗枝と千代のイタズラ心は刺激されてしまった。おりゃおりゃと、柚子をくすぐったり、ちょっと弱い部分をつついたりして遊んだ。最後は、柚子が千代に抱き着いて、そのままわき腹をくすぐり、千代が耐えられなくなって湯に沈んだので、そこでくすぐり合戦は終わりを迎えた。
湯の中で動いたあとは、三人は湯にふくらはぎまでを入れて、高級感漂う大理石の平淵に尻をつけて座り、湯気の漂う浴室の真ん中を眺めながら、それぞれにまだ、話していなかった最近の出来事を話した。
とりわけ、三人を驚かせたのは紗枝だった。
紗枝は、片想いをしている年上の鰻職人の彼と、家族ぐるみで一緒に年を越したというエピソードを二人に披露した。その時に、鰻蕎麦を彼と一緒に作ったという話を紗枝がして、それを聞いた千代は、「なんだかもう夫婦感あるよね」と言った。
そんな千代も、恋愛の話題が出たからには年下彼氏との出来事を話すことになったので、テスト明けの日曜に映画に行くことになっている、という話をした。
そんな話を千代がすると、今度は必然的に、話は柚子に回ってきた。
柚子の表情が曇ったのを、紗枝と千代は見逃さなかった。その、一瞬出来た沈黙に、二人はアイコンタクトを取り、「訊くなら今しかない」と互いに目で伝えあった。
柚子に質問したのは、紗枝だった。
「柚子は、水上とはどうなの」
柚子は、そう聞かれて息を詰めた。
本当の所、柚子は、二人に聞いてほしいことや、話したいことがたくさんあった。
例えば、誕生日のデートの時、歌を聴いて詩乃が泣いてしまったこと。水族館の海月に同情して体調が悪くなってしまった、あのクリスマスの出来事。自分のために、昔の友達との仲直りのために、裏で奔走してくれたこと。
自分の知らない所で、中学時代の同級生の女の子と二人で会っていた事。その子が、詩乃の初恋の子であること。文学賞を取ったことを、自分には言わず、その子には真っ先に話していたという事。
その他にも、細々したことで、柚子が二人に話していないことはたくさんあった。
柚子は、詩乃を悪く言われるのが怖かった。それが紗枝や千代だったとしても、嫌だと思ったのだ。年の初めのダンス部の合宿で、部の同級生や後輩が、彼氏のことを赤裸々に語っているのを聞くにつけ、それに対して挟まれる辛辣な意見を聞くにつけ、柚子は、その気持ちを強くしていた。
しかしそう思いすぎてしまったせいで、今度は、紗枝にも千代にも、柚子は何も相談できなくなってしまった。そして、二人のことを信用しきれていない自分を柚子は恥じてもいた。そんな自分は、二人に何かを相談したり、励ましてもらう資格はないと、一人で思いつめていた。
「ほら、私たちのことは大きな、なんだっけ……カボチャ? まぁなんか、そういうもんだと思って」
千代が、いつものような明るい調子で言った。
「カボチャはともかく、悪いようにはしないよ」
紗枝も、千代の言葉に続けて言った。
二人の優しさに、柚子の唇は自然と動いた。
ここ最近の一番の悩み。
そんなことは、柚子の中でははっきりしていた。
――だけど、そのことを口にしたら、きっと泣いてしまう。こんなところで、いきなり泣かれたら、きっと二人を困らせる。
だから、泣きたくない。
でも――。
柚子は、込み上げてくる感情を、どうしても、抑えておくことはできなかった。口を開くと、先に涙が出てきた。
「水上君に――」
柚子は、両手をぎゅっと結んだ。
「水上君に、別れ話されちゃったよぉー……」
そう言って、柚子は泣き出してしまった。千代と紗枝は慌てて柚子に寄り添った。柚子ってこんなに大泣きするのと、二人は驚きながら、柚子を励ました




