カンテラと影絵(6)
柚子は空を見上げた。
「水上君……」
柚子は、詩乃の名前を、無意識に口にしていた。
そうして柚子は、自分のその頼りない、詩乃を呼ぶ声を聴いて、自分が、詩乃を恋しいと思っていることを自覚した。今日は、本当は一緒に出掛けるはずだった。それなのに今私は、一人で家に帰っている。
柚子は、ぱっと身をひるがえして、来た道を戻り始めた。
学校に戻ろうと思った。
文芸部に、水上君がいるかもしれない。
いなかったとしても、このままのこのこと家に帰るのは嫌だと思った。
もし水上君がいたら、まずは謝ろうと柚子は思った。そうして、バックの中に入れているチョコを渡そう。
柚子の足どりはだんだんと、確かなものになっていった。
粉雪にも遥かに満たない氷の粒が、その遥か頭上を舞っていた。
柚子が電車を降りた時には、雪は見た目にもはっきりわかるほどの大きになっていた。
日暮里の駅から学校までの道を、柚子は小走りで戻った。
学校の正門を抜けると、柚子はそのままCL棟へ向かった。CL棟の静かな昇降口で靴を脱ぎ、緑のスリッパに履き替えて廊下を歩く。一階の一番奥の部屋。
柚子はいつものように、二度扉を叩き、
「水上君、いますか」
と、訊ねた。
返事は無かった。
「新見です。水上君、もしいたら……」
柚子はそこで一度言葉を止め、言葉を変えた。
「入っていい?」
しかし、返事はない。
柚子は慎重に、ドアノブを回し、扉を押した。
扉は、何の引っ掛かりもなく開いた。
しかし、部屋には誰もいなかった。
柚子は落胆しながら、部室に足を踏み入れた。詩乃は居ないけれど、少しでも詩乃の痕跡を見つけたいと思ったのだ。
「お邪魔します……」
一歩、二歩と、雪山を歩く様に、足元の感覚を確認しながら部屋を進む。
そして柚子は、昼食の時に使う机の上に、小説の原稿があるのを見つけた。A4のコピー用紙の二十枚ほどがホッチキス止めされ、〈フィルター〉という小説のタイトルが表紙に記されている。その原稿用紙の上には、詩乃の眼鏡が置かれていた。
柚子は眼鏡をどかし、原稿を手に取った。
用紙に、まだほんのり温かさが残っているように感じて、柚子は思わず、カーテンを開けて窓の外を確認した。しかし、詩乃の姿は無かった。
柚子は椅子に座り、原稿の表紙をめくった。
――。
――……。
『恋は柑橘類に例えられることがあるけれど、それが蜜柑なのか檸檬なのか、はたまたオレンジなのか、皆そこには頓着が無い。でも私に限って言えば、この恋は梅干しだった。別れて清々した、なんてやっぱり思わない。凖にはやっぱり、恋をしていた。だから梅干しだった。檸檬で手を打つつもりはない。
だけど今は、あっちゃんとノブちゃんと三人でケーキを囲んでいるここが、すごく落ち着く。だからそこまでひっくるめるなら、今の私の気持ちは、レモンピールに似ている。
「でも、静、よくやったよ。私、ちょっと見直しちゃった」
あっちゃんにそう言われて私は、いつの間にか泣いていた。
涙が出て、見っともない嗚咽も漏れる。
隣のノブちゃんが、私の事を抱きしめてくれる。
あぁ、こうやって抱きしめてくれるのが、本当は凖だったなら。と、今更未練がましく思う自分自身に、私は泣きながら、少し呆れてしまう。だけど凖の身体はたぶん、ノブちゃんほど温かくはないのだろう。
カタツムリに降る梅雨の雨ってこんな感じなのかな、なんて私は思った。
ツノ出せ、ヤリ出せ、めだま出せ――。
そんなメロディーが頭に浮かんで、私は泣きながら笑ってしまった。』
物語を読み終えた柚子の目には、涙が浮かんでいた。
最後、主人公の静が大好きな彼氏である凖に眼鏡を突き返し、別れるという選択をした場面で、柚子は涙を堪えられなくなった。この〈フィルター〉という話が、詩乃の心の内を表わしているような気がした。
詩乃がどんな気持ちでこの話を書いたのだろうかと、柚子は考えた。
それに、どうしてこの原稿は、ここに、まるで私が来るのが分かっていたかのように用意されていたのだろうか。
――今日、もしかして水上君は、学校に、ずっとここに居たのではないだろうか。ここにいて、物語を完成させて、それで帰ったのではないだろうか。もしそうなら、放課後私がここに寄っていれば、水上君に会えたのかもしれない。
寄ればよかった、と柚子は思った。しかしすぐに思い返す。
「でもそうしたら、絢には会えなかった」
それに大体、私がここに来ようと思ったのは、絢に会って、絢と話をしたからだ。だからやっぱり、私は、今しか、ここに来ることはできなかった。
柚子は自分でそんなことを考えながら、頭の中で小さな眩暈を起こした。『因果律』という、どこかで仕入れた単語が柚子の頭の中にぐるぐると回った。
そうして柚子は、もう一度、〈フィルター〉を読んだ。
言葉の一つ一つに、詩乃が宿っている気がした。
読みながら、柚子は自分の読解力の無さを呪った。テストや模擬試験や、学校の評定では、柚子は国語に関しても、「能力がある」という評価を常に得ていた。登場人物の気持ちを答えなさい、作者の考えを述べなさい――そんな問題には今まで、嫌と言うほど答えてきた。
それなのに、目の前にある一番解きたいこの問題の答えがわからない。
作者――水上君はどんな考えで、どんな気持ちでこれを書いたのだろうか。
そしてこの眼鏡……〈フィルター〉の中から出てきたかのようなこの眼鏡。
私が気まぐれにプレゼントしたこの伊達眼鏡がここに置かれていたことの意味は、何なのだろう。この眼鏡に、水上君は、どんな意味を込めたのだろう。
閉門時間まで何度も〈フィルター〉を読み返した後、柚子は、原稿も眼鏡ももとに場所に戻して、カーテンも閉めて、部屋の電気を消して文芸部の部室を後にした。そうしてCL棟を出てから、柚子は空を見上げた。
手袋もつけていない柚子の掌に、雪の雪片が落ちてきた。
雪は、柚子の見ている前でじわりと溶けていった。
柚子は、掌の上で溶けた雪のまだ冷たい水滴に、唇をつけた。
その頃詩乃は、柚子と二人で来るはずだった飯能の山の中――ムーミンバレーに、一人で訪れていた。小高い丘の上、雪は、都心よりも大きく、力強く降っていた。空気も冷たく、風が吹けば、頬を裂かれたような気になる。
詩乃は傘も差さず、暗い空を眺めていた。その恰好はまるで、国歌斉唱をするときの代表選手のようだった。しかし手は胸ではなく、腰の後ろに組み、手には手提げを握っている。手提げの中には、先ほど土産屋で買った〈にょろにょろ〉のぬいぐるみが入っている。
――これを、新見さんにあげたら驚くだろうな。
ぬいぐるみを見た瞬間にそう思って、その衝動のままに買ったのだ。
しかし詩乃はそのあと、今の自分と柚子との関係を思い返し、これはあげられないまま終わるかもな、と思った。手提げにはぬいぐるみの他に、ネックレスの小箱が入っている。
園内の街灯が、詩乃の目の前まで来た雪を照らして、それが詩乃の服や頬や、髪に落ちた。
〈フィルター〉を書き終えたばかりの詩乃は、ただぼうっと、雪の中に立っていた。空の遠くを見ながら、しかし、何かを考えているわけでは無かった。
雪、雪、雪……。
いつもならこの雪から何かを芋づる式に連想して、その空想の世界に浸ってしまう詩乃だったが、今は、ぼんやりと、雪の降っているのを眺めているだけで、雪の世界に心を飛ばしはしなかった。
雪の中、寒いこんな夜に、一人で丘に立っている。
自分は、何を強がっているのだろうと、空想の代わりに詩乃は思った。
詩乃は何となく手提げからスマホを引っ張り出した。すると、メッセージが一件届いていた。
絢からだった。
『水上君、この間はありがとうね。
実は今日、学校の後柚子に会いました。ちゃんと話できたよ。
仲直りというのとはちょっと違うけど、でも私も、たぶん柚子も、納得できたと思う。やっぱり柚子は私の事、許してくれてたけど。
色々ありがとう。水上君いなかったら、会う勇気出なかったと思う。
追伸:でも、墓場デートはやめてあげてね。柚子、結構怖がりだから』
詩乃は、絢が柚子に会ったということにまずは驚き、そして最後の追伸で笑ってしまった。
詩乃は何か返信をしようと、頭の中で文章の構成を考えた。まず、今日の予定を中止にしてしまったことに対するお詫びと、それでも会いに行った絢への賛辞、自分は切っ掛けを作っただけで、最初から絢にはその勇気があったんだよ、というような言葉。それから最後に、追伸に対する一言……――。
しかし詩乃は、返信文の構成と文章が頭の中にまとまると、返信は書かずにスマホをしまった。文章を全部考えてみて、その行きついた先で詩乃は、自分の言葉はもう、絢には不要だなと思ったのだ。絢からのメッセージを読んだという〈既読〉がつけば、もうそれだけで充分だ。二人が会えたことについて、自分の感想や評価なんて、もう邪魔なだけだ。
とにかく、良かったと詩乃は思った。
自分と柚子の、彼氏彼女という関係の脆くなっている事などは、詩乃にはもう、ほとんど、どうでも良いことだった。仮に別れたとして、それで、自分が柚子に抱く気持ちや情は、何一つ変わらない。むしろ今、無理やり〈彼氏〉になろうだとか、柚子との関係を続けようだとか思っているその無理やりさのせいで、自分の心にひずみが出ている。だけどもし別れたなら、自分はもっと、きっと今までの純粋な気持ちの通りに、新見さんの事を想うことができる。
自分と新見さんとの表面的な「付き合っている」なんていう関係に比べれば、新見さんと絢さんとの関係は根深く、きっと二人は、心の奥に、深い傷を負っていたのだろう。その傷はもう癒えているのかもしれないけれど、傷跡はずっと残り続ける。その、普通は一生誰にも見せることができない傷跡は、時間とともに、きっと、埋もれていくのだろう、そうして自分でも、傷跡のあることを忘れ去ってしまうのだろう。
でも忘れたからと言って、傷後はなくなるわけでは無い。古傷の痛む怖さを思って、隠すために「忘れる」のだ。だけど新見さんと絢さんは、もう、「忘れる」必要が無い。自分の心にある傷を受け入れることができたのだろうから。
良かった、と思う反面、羨ましいと、詩乃は思った。
しかしすぐに、詩乃はその、自分の心に差した羨望の情だけを消した。
「そういえば、もうすぐクラス会だな」
詩乃は不意に、そのことを思い出した。
あれから、明香と洋から、クラス会の日時が来まったという連絡が来ていた。三月の第二土曜日。場所は、あの下見をした立川駅近くのお好み焼き屋。
詩乃は、手のひらで雪を捕まえた。
綺麗なのは一瞬で、溶けた雪の水滴はだんだん生ぬるくなっていく。
「雪も桜も……」
詩乃は、色の無い吐息を吐くと、顔を拭って丘を後にした。




