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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
2,それでも息はできるから
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カンテラと影絵(5)

「柚子――」


 絢はそう言って、一度言葉を止めた。


 本当はそのまま、「柚子、あの時はごめん」と、一息で言いたかった。


 しかし、出来なかった。


 次の言葉を発したらその瞬間、自分の感情も、涙も、全部洪水のように流れ出てしまいそうだった。絢は、泣くな、泣くなと自分に言い聞かせ、自分のコートの裾をぎゅっと掴んだ。


「絢、私に会いに来たの?」


 柚子は、少し弾んだ声で絢に訊いた。


 絢は唇を結んだまま、首だけは深く頷いた。


「そっか」


 柚子は小さく応えると、次の瞬間には、絢に笑顔を向けた。


 そうして柚子が、何かを言おうと口を開いた。


 しかし柚子が言葉を発するより早く、絢が言った。


「柚子――」


 絢は、今度こそちゃんと謝ろうと決意した。


 柚子の笑顔のその後は、どうなるかわかっていた。


 柚子は、たぶんもう、私が何をしに来たのか察している。だから柚子は、優しさから、私にそれをさせないでこの場を収めようとする。お茶に誘われるかもしれない、家においでと提案されるかもしれない。


 でも、それじゃダメだと絢は思った。


 そうやって柚子の笑顔に甘えて、また柚子の優しさを言い訳にして適当に折り合いをつけて――それじゃあ何も変わらない。これは、いい加減に済ませていいものじゃない。


 絢は意思を固めて、柚子に言った。


「私、謝りに来たの、柚子に」


 柚子は、息を吸って、目を見開いた。


「いいよ、そんな……あの時はまだ私たち、中学生で――」


 柚子がそう言いかけたが、絢は、柚子の言葉を遮って言った。


「関係ないの! 中学生だったとか、そういうこと、どうでもいい。私は、柚子に酷いことを言ったんだから。それは、年齢なんて関係ない。私は……」


 絢はそう言うと、ぎゅっと涙を堪えて、続きの言葉を絞り出した。


「――柚子、ごめんね」


 絢はそう言って、俯いた。


 絢は、柚子の顔をまともに見られないことが恥ずかしかった。けれど、自分の、今にも泣きそうな顔なんて、柚子には見せられない。柚子の同情を引くようなことは絶対にしたくない。それなのに、涙が勝手に出そうになる。


 絢は、涙を堪えるあまり、唇がわなわなと震えた。


「絢、ずっと考えてくれてたんだね……」


 柚子の言葉に、絢は首を振った。


「こんなのも、本当は自分の都合だよ。私が楽になりたくて謝ってるだけ。でも私……もう取り返しはつかないけど、柚子の事、本当は嫌いじゃなかった……」


 ぽたり、ぽたりと、絢の目から涙の雫が落ちる。


 絢はそれを、片手で乱暴に弾く様に拭った。


 柚子は、絢の傍らに歩み寄り、その肩を撫でた。


「ダメダメ、柚子、私は――」


 絢はくすんと鼻をすすって、肩を擦ってくれる柚子の手を捕まえて、押し戻した。


「励ましてもらう資格なんてないんだから」


 涙声を飲み込んだ後の低い声で絢が言った。


 それから絢は深呼吸のように息を吸って、吐きだし、頬に微かな笑みを浮かべて柚子に訊いた。


「今日、本当はデートだったんでしょ?」


「え?」


 柚子は突然そんな事を訊かれて驚いた。


 どうして絢がそのことを知っているのだろうと思った。


「水上君に聞いたんだ」


「え、水上君に……? 会ったの?」


「うん。一回だけ――私、柚子に会おうと思って、柚子の高校行ったんだよ。だけどダメで、正門の所でうろついてたの。そしたらたまたま水上君が学校から出て来て、で、ちょっと話したんだ。聞いてなかった?」


「うん、初耳。――それ、いつ頃の話?」


 絢は空を見つめて思い出し、そうして答えた。


「一か月までは経ってないけど、一月の、最後の方の金曜日。――あ、三十一日が金曜だったから、その前の週だ。二十四日」


 柚子は、息をのんだ。


 詩乃と他校の女子が歩いていたという話が出た頃と、時期はまったく一致している。


 その女の子と言うのは、絢の事だったんだと、柚子の靄が一つ晴れた。


「何、話したの?」


「柚子とのこと。柚子に会おうかどうしようか、その時はまだ迷ってたんだけど、水上君がさ、言うんだよ――『割れた鏡は戻らないけど、割れたことを確かめ合えるんだったら、それは良いことだと思う』だったっけ、そんなこと。それで私、その時に決めたんだ。本当は今日、日暮里駅に行く予定だったんだよ。二人のデートが中止にならなければ」


 絢は、驚いている柚子の様子を見て、笑いながら訊いた。


「全然聞いてなかった?」


「うん……」


「義理堅いんだね、柚子の彼氏は」


「義理堅い?」


「うん。だって、そうだよ。会うことも謝ることも、私が最初に伝えられるようにしてくれたってことでしょ? 柚子、良い彼見つけたね」


 そう言われて、柚子は途端に嬉しくなった。


「うん!」


 柚子は強く頷いた。


 柚子のその目の輝きに、絢は、詩乃の言った『割れた鏡は戻らない』の意味が分かった様な気がした。柚子の心を動かすのは、もう私ではなくて彼なんだ、と。


「文芸部なんだって?」


「うん」


「なんか、すごく哲学的だったな」


 柚子はくすりと笑みを浮かべた。


「しかも、話聞いてくれたのは良かったんだけど、場所、霊園だよ? もう怖くてさ」


 絢の報告に、柚子はけらけらと声を出して笑った。


「でも、変わってるけど、なんか、不思議だった。誤魔化しが効かないような気がして、本音でしか話せなくなっちゃって」


 絢の言葉を聞いて、柚子は、なるほどと思った。


 水上君といると、本音でしか話せなくなる――それは、本当にそうかもしれない。誤魔化しが効かない、というのも、確かにその通りだ。


 柚子と絢は、互いに微笑みを交わし合った。


 二人の瞳には、過去を懐かしむ時の小さな痛みが揺れていた。


「柚子、あのさ……上手く言えないんだけど、私は、柚子が友達で良かったと思う。だから、昔の自分が本当に悔しいよ」


 柚子は、絢の肩や背中を撫でて励ましてあげたい同情にかられた。


 しかしそれを、絢は望んでいないというのも柚子にはわかった。絢の目には、ノスタルジーの痛みの奥に、強い光があった。それに牽制されて、柚子は、絢をいたわるあらゆる態度を封じられた。

 これで本当にお別れなんだな、と柚子は思った。


 自分はもう、絢に『顔も見たくない』と言われる前と同じような気持ちで、絢と接することはできない。そうして今、こんな、自分に謝る絢を見てしまった後は、余計に、昔の関係には戻れない。思い出の中にある、無邪気な絢との関係には。


 ――だから、お別れなんだ。


「――さて、じゃあ柚子、私、行くね」


 絢が言った。


「うん」


 柚子は、しっかりと絢の顔を見つめながら頷いた。


 絢が柚子に背を向けようと動いた瞬間、柚子は咄嗟に絢の名前を呼んだ。


「絢!」


「うん?」


 絢は、一度動きを止め、もう一度振り向いて柚子の顔を見た。


「ありがとう」


 うん、と絢は柚子の言葉に頷くと、今度こそ柚子に背を向けて、改札口に戻っていった。



『佐倉さん、今度うち来てよ!』

『絢って呼んで』

『え、でも先生『さん付け』って――』

『いいの! 私も柚子のことは柚子って呼ぶから』

『うーん……』

『私と柚子だけの特別ね』

『――うん!』



 絢と別れた後、柚子はぼうっと、駅から自宅までの道を歩いていた。


 ぼうっとしているのは、絢との思い出を振り返っているからだった。これまでも、昔のことを思い出すことはあったが、今までは、中学二年の冬の、絢との友情が終わったあの瞬間より前のことは、思い出そうとしても思い出せなかった。


 それが今は、すっかり全部、よく思い出せた。


 自分と絢が、仲が良かったことも、そして中学のあの事件のことも、全部、収まるところに収まったような気がした。決着がついたんだなと、そう思うと柚子は、すっきりした気持ちと、寂しい気持ちがごっちゃになったような、不思議な感情になった。


 これで良かったんだよ――と、柚子は自分にそう言った。


 ずっと絢に会えなければ、関係の終わりを自覚しなくても済んだかもしれない。だけど、またどこかで会って、以前の関係に戻れるかもしれないと、そんな淡い期待を、ずっと持っていた方が幸せだったろうか。


 これで良かった、と柚子は今度は強くそう思った。


 自分も、絢も、もうそれぞれに歩いている。あの頃はきっと、支え合いながらでないと歩けなかった。それが今はもう、まだ怪しさはあるかもしれないけど、一人でもだんだんと歩けるようになっている。


 一人では歩けなかったあの頃、絢は掛け替えの無い親友だった。


 だから、いつかは離れていく。


 そうして、夕闇みの住宅街をなおも歩きながら、柚子の思考は、絢との思い出から、詩乃の事へと移っていった。柚子は、絢に言われた『義理堅いんだね、柚子の彼氏は』という言葉を思い出した。

 水上君は、義理堅い――。


 そういえばどうして、水上君は絢の相談に乗ったのだろうか。


 そう考えて柚子は、はっとした。


「私のためだ」


 そう思った。


 そもそも、それ以外考えられるだろうか。水上君は、絢と話をして、絢は水上君との話しの中で、自分と会うことを決めた。水上君が、そうさせたのだ。水上君が絢と話をしなかったら、絢は今日、私に会いに来なかったのかもしれない。


『割れた鏡は戻らないけど、割れたことを確かめ合えるんだったら、それは良いことだと思う』

 絢が、水上君がそう言ったと言っていた。


 柚子は、何度もその言葉を頭の中で反芻した。


 ――割れたことを確かめ合う。


 その言葉の意味が何となく、柚子はわかったような気がした。


 水上君の優しさはわかりづらい。


 ずっとそうだった。最初――あの、林間学校でカレーの鍋をひっくり返してしまった時からずっと。


 あの時水上君は、「体調不良でお腹が空いてない」なんて嘘をついた。どうしてそんな事を言ったのか、ずっとわからなかった。だけど今らなわかる。あれはたぶん、私が食べる分を確保しようとしてくれたのだ。自分も食べると言ったら、私の分が無くなると、そんな心配をしてくれたに違いない。


 水上君は、優しさを隠そう、隠そうとする。


 それを知っていたのに私は、水上君に変な疑いをかけてしまった。水上君が一生懸命私のために動いてくれていたというのに。


 柚子は立ち止まった。


 ごく小さな白い粒が降ってきた。

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