カンテラと影絵(5)
「柚子――」
絢はそう言って、一度言葉を止めた。
本当はそのまま、「柚子、あの時はごめん」と、一息で言いたかった。
しかし、出来なかった。
次の言葉を発したらその瞬間、自分の感情も、涙も、全部洪水のように流れ出てしまいそうだった。絢は、泣くな、泣くなと自分に言い聞かせ、自分のコートの裾をぎゅっと掴んだ。
「絢、私に会いに来たの?」
柚子は、少し弾んだ声で絢に訊いた。
絢は唇を結んだまま、首だけは深く頷いた。
「そっか」
柚子は小さく応えると、次の瞬間には、絢に笑顔を向けた。
そうして柚子が、何かを言おうと口を開いた。
しかし柚子が言葉を発するより早く、絢が言った。
「柚子――」
絢は、今度こそちゃんと謝ろうと決意した。
柚子の笑顔のその後は、どうなるかわかっていた。
柚子は、たぶんもう、私が何をしに来たのか察している。だから柚子は、優しさから、私にそれをさせないでこの場を収めようとする。お茶に誘われるかもしれない、家においでと提案されるかもしれない。
でも、それじゃダメだと絢は思った。
そうやって柚子の笑顔に甘えて、また柚子の優しさを言い訳にして適当に折り合いをつけて――それじゃあ何も変わらない。これは、いい加減に済ませていいものじゃない。
絢は意思を固めて、柚子に言った。
「私、謝りに来たの、柚子に」
柚子は、息を吸って、目を見開いた。
「いいよ、そんな……あの時はまだ私たち、中学生で――」
柚子がそう言いかけたが、絢は、柚子の言葉を遮って言った。
「関係ないの! 中学生だったとか、そういうこと、どうでもいい。私は、柚子に酷いことを言ったんだから。それは、年齢なんて関係ない。私は……」
絢はそう言うと、ぎゅっと涙を堪えて、続きの言葉を絞り出した。
「――柚子、ごめんね」
絢はそう言って、俯いた。
絢は、柚子の顔をまともに見られないことが恥ずかしかった。けれど、自分の、今にも泣きそうな顔なんて、柚子には見せられない。柚子の同情を引くようなことは絶対にしたくない。それなのに、涙が勝手に出そうになる。
絢は、涙を堪えるあまり、唇がわなわなと震えた。
「絢、ずっと考えてくれてたんだね……」
柚子の言葉に、絢は首を振った。
「こんなのも、本当は自分の都合だよ。私が楽になりたくて謝ってるだけ。でも私……もう取り返しはつかないけど、柚子の事、本当は嫌いじゃなかった……」
ぽたり、ぽたりと、絢の目から涙の雫が落ちる。
絢はそれを、片手で乱暴に弾く様に拭った。
柚子は、絢の傍らに歩み寄り、その肩を撫でた。
「ダメダメ、柚子、私は――」
絢はくすんと鼻をすすって、肩を擦ってくれる柚子の手を捕まえて、押し戻した。
「励ましてもらう資格なんてないんだから」
涙声を飲み込んだ後の低い声で絢が言った。
それから絢は深呼吸のように息を吸って、吐きだし、頬に微かな笑みを浮かべて柚子に訊いた。
「今日、本当はデートだったんでしょ?」
「え?」
柚子は突然そんな事を訊かれて驚いた。
どうして絢がそのことを知っているのだろうと思った。
「水上君に聞いたんだ」
「え、水上君に……? 会ったの?」
「うん。一回だけ――私、柚子に会おうと思って、柚子の高校行ったんだよ。だけどダメで、正門の所でうろついてたの。そしたらたまたま水上君が学校から出て来て、で、ちょっと話したんだ。聞いてなかった?」
「うん、初耳。――それ、いつ頃の話?」
絢は空を見つめて思い出し、そうして答えた。
「一か月までは経ってないけど、一月の、最後の方の金曜日。――あ、三十一日が金曜だったから、その前の週だ。二十四日」
柚子は、息をのんだ。
詩乃と他校の女子が歩いていたという話が出た頃と、時期はまったく一致している。
その女の子と言うのは、絢の事だったんだと、柚子の靄が一つ晴れた。
「何、話したの?」
「柚子とのこと。柚子に会おうかどうしようか、その時はまだ迷ってたんだけど、水上君がさ、言うんだよ――『割れた鏡は戻らないけど、割れたことを確かめ合えるんだったら、それは良いことだと思う』だったっけ、そんなこと。それで私、その時に決めたんだ。本当は今日、日暮里駅に行く予定だったんだよ。二人のデートが中止にならなければ」
絢は、驚いている柚子の様子を見て、笑いながら訊いた。
「全然聞いてなかった?」
「うん……」
「義理堅いんだね、柚子の彼氏は」
「義理堅い?」
「うん。だって、そうだよ。会うことも謝ることも、私が最初に伝えられるようにしてくれたってことでしょ? 柚子、良い彼見つけたね」
そう言われて、柚子は途端に嬉しくなった。
「うん!」
柚子は強く頷いた。
柚子のその目の輝きに、絢は、詩乃の言った『割れた鏡は戻らない』の意味が分かった様な気がした。柚子の心を動かすのは、もう私ではなくて彼なんだ、と。
「文芸部なんだって?」
「うん」
「なんか、すごく哲学的だったな」
柚子はくすりと笑みを浮かべた。
「しかも、話聞いてくれたのは良かったんだけど、場所、霊園だよ? もう怖くてさ」
絢の報告に、柚子はけらけらと声を出して笑った。
「でも、変わってるけど、なんか、不思議だった。誤魔化しが効かないような気がして、本音でしか話せなくなっちゃって」
絢の言葉を聞いて、柚子は、なるほどと思った。
水上君といると、本音でしか話せなくなる――それは、本当にそうかもしれない。誤魔化しが効かない、というのも、確かにその通りだ。
柚子と絢は、互いに微笑みを交わし合った。
二人の瞳には、過去を懐かしむ時の小さな痛みが揺れていた。
「柚子、あのさ……上手く言えないんだけど、私は、柚子が友達で良かったと思う。だから、昔の自分が本当に悔しいよ」
柚子は、絢の肩や背中を撫でて励ましてあげたい同情にかられた。
しかしそれを、絢は望んでいないというのも柚子にはわかった。絢の目には、ノスタルジーの痛みの奥に、強い光があった。それに牽制されて、柚子は、絢をいたわるあらゆる態度を封じられた。
これで本当にお別れなんだな、と柚子は思った。
自分はもう、絢に『顔も見たくない』と言われる前と同じような気持ちで、絢と接することはできない。そうして今、こんな、自分に謝る絢を見てしまった後は、余計に、昔の関係には戻れない。思い出の中にある、無邪気な絢との関係には。
――だから、お別れなんだ。
「――さて、じゃあ柚子、私、行くね」
絢が言った。
「うん」
柚子は、しっかりと絢の顔を見つめながら頷いた。
絢が柚子に背を向けようと動いた瞬間、柚子は咄嗟に絢の名前を呼んだ。
「絢!」
「うん?」
絢は、一度動きを止め、もう一度振り向いて柚子の顔を見た。
「ありがとう」
うん、と絢は柚子の言葉に頷くと、今度こそ柚子に背を向けて、改札口に戻っていった。
『佐倉さん、今度うち来てよ!』
『絢って呼んで』
『え、でも先生『さん付け』って――』
『いいの! 私も柚子のことは柚子って呼ぶから』
『うーん……』
『私と柚子だけの特別ね』
『――うん!』
絢と別れた後、柚子はぼうっと、駅から自宅までの道を歩いていた。
ぼうっとしているのは、絢との思い出を振り返っているからだった。これまでも、昔のことを思い出すことはあったが、今までは、中学二年の冬の、絢との友情が終わったあの瞬間より前のことは、思い出そうとしても思い出せなかった。
それが今は、すっかり全部、よく思い出せた。
自分と絢が、仲が良かったことも、そして中学のあの事件のことも、全部、収まるところに収まったような気がした。決着がついたんだなと、そう思うと柚子は、すっきりした気持ちと、寂しい気持ちがごっちゃになったような、不思議な感情になった。
これで良かったんだよ――と、柚子は自分にそう言った。
ずっと絢に会えなければ、関係の終わりを自覚しなくても済んだかもしれない。だけど、またどこかで会って、以前の関係に戻れるかもしれないと、そんな淡い期待を、ずっと持っていた方が幸せだったろうか。
これで良かった、と柚子は今度は強くそう思った。
自分も、絢も、もうそれぞれに歩いている。あの頃はきっと、支え合いながらでないと歩けなかった。それが今はもう、まだ怪しさはあるかもしれないけど、一人でもだんだんと歩けるようになっている。
一人では歩けなかったあの頃、絢は掛け替えの無い親友だった。
だから、いつかは離れていく。
そうして、夕闇みの住宅街をなおも歩きながら、柚子の思考は、絢との思い出から、詩乃の事へと移っていった。柚子は、絢に言われた『義理堅いんだね、柚子の彼氏は』という言葉を思い出した。
水上君は、義理堅い――。
そういえばどうして、水上君は絢の相談に乗ったのだろうか。
そう考えて柚子は、はっとした。
「私のためだ」
そう思った。
そもそも、それ以外考えられるだろうか。水上君は、絢と話をして、絢は水上君との話しの中で、自分と会うことを決めた。水上君が、そうさせたのだ。水上君が絢と話をしなかったら、絢は今日、私に会いに来なかったのかもしれない。
『割れた鏡は戻らないけど、割れたことを確かめ合えるんだったら、それは良いことだと思う』
絢が、水上君がそう言ったと言っていた。
柚子は、何度もその言葉を頭の中で反芻した。
――割れたことを確かめ合う。
その言葉の意味が何となく、柚子はわかったような気がした。
水上君の優しさはわかりづらい。
ずっとそうだった。最初――あの、林間学校でカレーの鍋をひっくり返してしまった時からずっと。
あの時水上君は、「体調不良でお腹が空いてない」なんて嘘をついた。どうしてそんな事を言ったのか、ずっとわからなかった。だけど今らなわかる。あれはたぶん、私が食べる分を確保しようとしてくれたのだ。自分も食べると言ったら、私の分が無くなると、そんな心配をしてくれたに違いない。
水上君は、優しさを隠そう、隠そうとする。
それを知っていたのに私は、水上君に変な疑いをかけてしまった。水上君が一生懸命私のために動いてくれていたというのに。
柚子は立ち止まった。
ごく小さな白い粒が降ってきた。




