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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
2,それでも息はできるから
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カンテラと影絵(2)

 詩乃は、「あー!」と大きな声を発し、仰け反る様に、背もたれにもたれかかった。


「水上君?」


 そこへ、突然背後からくぐもった声がしたので、詩乃は飛び上がった。


 声の主は、柚子だった。


 トントン、とカーテンの向こうの締めきった窓を、リスの様にノックしている。


 詩乃は、カーテンを開けた。




「新見さん、どうしたの」


 窓を開けて、詩乃は柚子に訊いた。


 しかし柚子からすれば、それはこっちのセリフだった。


 残っているなら残っていると、教えてくれればよかったのに。そうすれば一緒に帰れるのに。


「今日残ってるんだね」


 最後の『ね』に含まれる小さな棘を詩乃は感じ取った。『ね』は念押しの『ね』。どうして念を押されるのか、詩乃にも充分わかっていた。一方で柚子は、思わず出てしまった批難がましい自分の口調に戸惑った。


「うん、最近は」


「え、今日だけじゃないの?」


「うん」


「えー、そうなんだ……」


 柚子は小さく一度呼吸をして、それから詩乃に訊いた。


「小説、書いてたの?」


「うん、まぁ」


「ふーん……」


 柚子は鼻で相槌を打ち、唇を結んだ。


「こっち、来る? もう小説、書ける部分は書いたから」


 詩乃が言うと、柚子は頷いた。


 柚子はCL棟の正面玄関から、今までいつもそうしていたように、廊下を進んで、文芸部の部室にやってきた。


 柚子は部室に入ると、コートも脱がないまま、マフラーに頬をうずめた状態でじっと詩乃を見つめた。詩乃は椅子から立ち上がり、壁からハンガーを取った。


 柚子は何も言わないままコートを脱ぎ、コートを預かろうとしかけた詩乃からハンガーを受け取って、自分でコートを壁に掛けた。


「何か、飲む?」


「いらない」


 柚子にしては乱暴な断り方だった。


 柚子が怒っているのは、詩乃にも明らかにわかった。詩乃は机の脇に置いておいた眼鏡をかけた。

「あのさ、水上君、聞きたいことがあるんだけど」


 柚子には珍しい、と言うよりも、父や兄と喧嘩をした時くらいにしか発しない強い声音と口調で柚子が言った。しかし決して柚子は、好きでそういう態度を取っているわけでは無かった。


 心の中では、違う、違うと柚子は思っていた。こんな嫌な態度、水上君には絶対に取りたくない、というのが柚子の本音である。それなのに、むしろ、そう思えば思うほど、表情も目も、態度も口調も勝手に強く、不機嫌や怒りを表現してしまう。


「どうしたの?」


「どうしたのじゃないけど……水上君、私に何か隠してることない?」


 詩乃はそう言われて、ぎゅっと額に皺を寄せた。


 柚子は、詩乃が女の子と二人で歩いていたというその噂のことを言ったつもりだったが、詩乃にとっては違った。詩乃にとっては、自分が絢と二人で話をしたことも、明香と二人で会ったことも、全く大した問題とは思っていなかった。


 隠し事と言われて詩乃が真っ先に考えたのは、家族の事だった。


 父の事、そして母の事。自分と父との関係。自分の家族との思い出。それらのことは、詩乃は意図的に、柚子から隠していた。柚子には、知られたくないと思ったのだ。それを話したら、いよいよ自分は、いつか新見さんと離れる時、その喪失感や失望に、耐えられなくなってしまう。


 これ以上近づきたくない。


「あるよ」


 詩乃は、わざと言葉を少なくして、それだけ応えた。


 柚子も、詩乃がこんなにはっきりと、隠し事の存在を認めるとは思っていなかった。


「どういうこと? なんで隠すの」


「何で知りたいの」


 柚子は、詩乃の強気な態度に困惑した。


 そして、突き放されたような気もして、悲しくなった。


「だって――私、水上君の彼女なんだよ?」


 詩乃は頷いた。


「なのにどうして隠すの。私変かな?」


 詩乃はパイプ椅子に座り、頬杖を突き、数呼吸を置いてから応えた。


「全部を見せあうことが〈好き〉の証明だとしたら、自分はそういう〈好き〉は持ってないよ」


「じゃあ水上君、私の事、好きじゃないって事? 嫌いになっちゃったって事? それとも、最初から好きじゃなかった?」


 感情の昂りに任せて、柚子は矢継ぎ早に言った。


 詩乃は、口を結んだ。自分の気持ちや考えは、この場で言葉にすることはできないと詩乃は思った。


 ――どうして何も言ってくれないのと、柚子は悲しくなった。好きか嫌いか、それだけのことも言葉にしてくれないなんて、どうしてなの、と。柚子は、そんなに難しいことを聞いているつもりはなかった。


 柚子は、悲しみに任せて、ぽつりと言った。


「こんなままじゃ、明後日のデート行けないよ」


 その一言を言われた瞬間、詩乃は衝動的な強い怒りを覚えた。


 二人で出かけるのに、条件があったのかと、そう思ったのだ。それは、柚子に対する詩乃の失望だった。その失望が、詩乃に凄まじい雷のような怒りをもたらした。


「誰のためにっ……!」


 詩乃は、反射的に言った。


 柚子は詩乃の怒りの具合とその声の鋭さに、びくっと身を震わせた。


 しかし詩乃は、言葉を全部は言わなかった。


 自分の口から出てきた言葉に、詩乃が一番驚いていた。


 ――自分は今、何を言おうとした?


 詩乃の怒りは、自分への驚きのために一瞬で鎮まった。


 怒りが消えると、詩乃は、冷静な頭で、自分の、今しがた言ってしまった言葉のその続きを考えた。何を言おうとしたのか、その答えはすぐにわかった。


 自分は今、「誰のためにデートの計画をしたと思ってるんだ」と、そう言おうとしたのだ。


 その答えを得て、詩乃は絶望した。


 自分はいつから、「新見さんのために」なんて考えるようになったのだろうか。全て、自分が好きでやっている事だったはずだ。新見さんは自分に、こうしてほしい、なんて、自分の立ち居振る舞いを注文したことは一度も無い。髪型も、服装も、それにデートのプランやどこへ行くかも、全部自分が勝手にやったことだ。


 それなのに自分は、それらのことを全部、心の奥では、「新見さんのため」なんて思っていたというのか。そんな言い訳を、用意していたというのか。なんということだろう。


 詩乃は、自分が怖かった。


 自分が新見さんを想うその気持ち、一般的な言い方をすれば〈愛〉や〈恋心〉というもの。それが、もうそんな風に歪んでしまったというのだろうか。それとも最初から歪んでいて、自分はそれを、色々な方法で取り繕っていたのだろうか。


 自分は、新見さんに、見返りの無い恋心を持っていると思っていた。そうあるべきだと。


 でもそうではなかった。


 自分の心は、すでにもう醜い。


 詩乃は打ちのめされて、ぺたんと、両手を腿の上に落とした。


 急に憑きものが落ちたようになった詩乃を見て、柚子は、何だろうと思った。


 詩乃は声を上げて何かを言いかけた後、急に覇気を失って、そして、幽霊を見たかのような恐怖を目に浮かべた。その様子を、柚子は見ていた。


「デートは、やめにしよう」


 ぽつりと、詩乃はそう言って、眼鏡をはずした。


「え……」


 柚子は、突然冷水を浴びせかけられたように、きょとんとした。


 柚子は、本当にデートに行きたくないわけでは無かった。ただ詩乃に、隠している事の事実を聞きたくて、そう言っただけだった。


 どうしてそうなるの、と柚子が食い下がる前に、詩乃は続けた。


「暫く、会うのもやめよう」


「え……?」


「少し距離を置きたい」


「え、なんで? 待って、私そういうつもりじゃないよ。ただ水上君の噂が――」


「噂って?」


「他校の女の子と歩いてたって。先々週くらい」


 絢さんのことかと、詩乃はすぐにわかった。


 しかしそれが絢だったと、詩乃は柚子には言うつもりはなかった。そのことは、絢が真っ先に柚子に伝えるべきで、自分がそれを新見さんに先にばらすのは、絢に対する裏切りだと、詩乃は考えていた。例えそのことが新見さんにあらぬ誤解を生んだとしても、絢の勇気を裏切るような真似は絶対にできないと、詩乃は思っていた。


 それに今更、誤解されたから何だというのだろうか。新見さんに相応しくない醜い自分を見つけてしまったあとでは、もうどの道、これまで通りはやっていけないと詩乃は思った。


「そのことは、言うつもりはないよ」


「なんで!?」


「言えない。でも、言えないことなんてたくさんあるよ。だから、無理なら無理で、もうしょうがないね……」


 感情を失ったような詩乃の落ち着きが、柚子は怖かった。


 それならまだ、ついさっきみたいに、声を荒らげられた方が良かった。


 それに、と柚子は思った。


「無理」っていうのは、どういうこと? 何が、無理なの。


 しかし柚子は、その内容が知りたくなかった。それを聞いてしまったら、もう、自分と詩乃との関係は今この瞬間に終わってしまうような気がした。


「水上君、私の事、嫌いになっちゃった?」


 恐る恐る、気遣うように柚子は詩乃に訊いた。


 詩乃は、じっと柚子を見つめた。


 その詩乃の目の孤独感と言ったら無かった。まるで、無色透明なガラス玉だ。その奥には黒曜石のような黒目があって、そこに微かに、感情の小さな揺れを感じる。ただ透明なだけだったら、黒いだけだったら、そんなに寂しくないのに、そこにほんの一粒の感情があるから、水上君の目には、見つめられるだけで心が苦しくなる。


「新見さんがどうこうじゃないんだよ。ただもう、自分が信じられない」


「え?」


「いっそ、嫌いになれた方が楽なのかもね。自分も、新見さんも」


 詩乃の口から「嫌い」という言葉が出てきた瞬間、柚子の頭は真っ白になった。その日その後、柚子は自分が詩乃とどう別れて、どうやって帰宅したのか、覚えていなかった。気づくと、自宅の浴室で、頭からシャワーを浴びていた。


 ザーザーと、激しい水の音だけだ、柚子の世界を満たしていた。

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