無名の供養塔(4)
「水上君さ……どうしてわざわざ、私の話なんか聞いてくれるの。私、柚子のこと傷つけた張本人なのに」
詩乃は、いつの間にかすっかり暗くなってしまった墓地の景色を眺めた。
それからぽつりと、絢の質問に答えた。
「供養みたいなものかも」
「供養?」
「うん。そうしないと収まりが悪いというか……心の中に無縁仏がいるのは、辛いことだよ。新見さんの供養ができるのは絢さんだけだし、絢さんの供養ができるのも、新見さんだけなんでしょ」
詩乃の言葉に、絢はぶるっと体を震わせた。
「例えが怖いよ」
「皆、恋とか友情は『ある』と思うのに、幽霊のことは、そこまで信じないよね」
「やめてよ、何の話?」
「無縁仏」
「……」
絢はこわごわと、串を袋に入れた。
「あの墓石はずっと長持ちしそうだけど、墓石とか供養塔とか、そういうものを作るように駆り立てた気持ちっていうのには形が無いんだよね。だけどその信仰心みたいなのは、墓石よりもずっと長くあるんだよ。それなのに、恋も情も、たった数年で形を変えて、供養しなくちゃいけないような代物になっちゃう。座敷童は知ってる?」
「な、名前くらいは……」
「都合の良い福の神じゃないんだよ。福を与える一方で、他を不幸にする疫病神なんだ。その二面性は何となく、似てると思わない?」
「何に?」
「恋とか、友情とかに」
絢は、体を小さくしながら考えた。
疫病神、という単語がやけに生々しく聞こえた。
「松みたいな恋とか椿みたいな友情を言う言葉が無いのは、不便だよね」
絢には、いよいよ詩乃の言うことが理解できなくなってきた。
松みたいな恋。
椿みたいな友情。
一体何を言っているのだろうか。
「水上君、なんか例えがさ、小説家みたいだね」
詩乃は少し笑って応えた。
「怪奇小説でも書こうかな」
「え、本当に書くの?」
「文芸部だから」
「あぁ! そうなんだ!」
さて、と詩乃は立ち上がった。
絢も、それに倣う。
そうして二人は、霊園を出て、日暮里の駅で別れた。たぶんもう会うことは無いけれど、居心地の良い人だったなと、絢は帰りの電車の中で、詩乃は自転車をこぎながら、互いにそう思ったのだった。
「あのさ、水上君……」
「どうしたの?」
「う、ううん、なんでもない……」
一月の最終週、柚子は何度か、詩乃との昼食の時にそんなやり取りをした。聞きたいまま保留にしてある事柄が、柚子には多かった。そうしてその聞きたいことが、今週さらにまた一つ増えた。
『柚子の彼氏が他の学校の女の子と歩いていたんだだけど……』という目撃情報が、今週の週明けに千代に寄せられた。その話は、今回に限ってはひっそりと、女子生徒を何気なく経由して、二年A組の紗枝や柚子のもとにまで届いた。
「水上君、今度同窓会あるから、たぶん、その関係だと思う」
浮気じゃないの? と、クラスの昼食の時、女友達から冗談半分で聞かれた柚子は、そんな風に軽く受け流して応えていた。
しかし実際はどうなのか、その真相を柚子は結局週の終わりまで、詩乃には聞けないままだった。千代と紗枝は「聞いてみなよ」と助言していたが、その助言に対する柚子の反応の鈍さと、何事もなく普通に振る舞い続ける柚子の不自然さから、柚子の気持ちの晴れていないことを推察していた。
一月の最後の日、金曜日。
ダンス部の活動のあと、柚子と千代は、着替えだけをして帰ってゆく部員たちに別れを告げ、その後で、荷物を持って三階に上がった。体育棟の三階には、十五のブースを備えたシャワールームがある。近頃は、平日の部活の後、皆が帰り始めた時間に二人でシャワーを浴びるのが、千代と柚子の新しい習慣になりつつあった。
隣同士、上下の空いた仕切り壁を隔てて、温かい湯を浴びながら、シャワーの水音に負けない声でおしゃべりをする。貸し切り状態なので、カーテンを開け放していても、ルーム中に反響するような笑い声をあげても、誰の迷惑にもならない。その開放感がなおさら愉快で、二人の会話を弾ませた。
話はまず、その日の部活の事から大抵は始まり、そこから、その日起こった部活外の出来事やクラスの友達の事などへと移っていった。色々なことを、とりとめもなく話して、情報交換をする。誰と誰が付き合った、とか、別れた、という話も当然話題に上がってくる。
千代はしかし、柚子とそういった恋愛の話題になったときには、使う言葉や態度に気を遣うようにしていた。
柚子が平日の部活の後、こうしてのんびりとシャワーを浴びてから帰る様になったのは、単なる柚子の気まぐれではない。待っている人がいる時は――つまり、部活の後詩乃と帰る予定のある時には、柚子はシャワーなど浴びず、着替えると真っ先に、詩乃の待っている文芸部の部室に向かっていた。それが、近頃までの柚子の生活習慣だった。
それが最近、変わった。
柚子が部活の後詩乃と帰らなくなったことは、千代も知っていた。それが、詩乃からの提案だったということも。
そういった流れがあったところで、今回の――詩乃が他校の女子と二人で歩いていたという目撃情報である。見たのは千代のクラスメイトの女子生徒で、千代はそのクラスメイトから報告を受けたのだった。
柚子の周辺では常に、恋愛がらみでもそれ以外でも、出所のわからない噂が一つ二つ流れているもので、その類のものだったら、千代も別段気に止めはしなかった。しかし今回は、クラスメイトが直に見たということなので、「噂」とは少し違う。
一体どういう事だろう、と千代は柚子を心配すると同時に、詩乃の行動を不思議に思っていた。
仮に浮気だとすれば、学校の正門で待ち合わせなんて、そんな堂々とするはずがない。とすると、たまたま友達に会った、という線だが、これはこれで、「そんなたまたまがあるものか」という疑問の方が強い。水上君にとっては「たまたま」だったとしても、相手はわざわざこの学校まで水上君に会いに来たのだろうから、〈白〉と言うのは難しい。
でも〈黒〉では無い。
それは、千代と紗枝の共通の見解だった。
詩乃が他校女子と歩いていたという目撃情報について、二人もすでに互いの意見を交換し合っている。〈グレー〉はグレーだけど、限りなく――少なくとも詩乃にとっては〈白〉という案件ではないかと、千代と紗枝は結論付けていた。とはいえそれでも、「あの水上が他の女の子と二人でいること自体がちょっと異常な気がするんだけどね」という紗枝の指摘には、千代も、一理あると思っていた。
だから〈グレー〉。
そのことが柚子の心をもやもやさせているのだろうということは、千代にもわかっていた。
実際、どうなんだろうと、千代は、シャワーを浴びて、柚子と別の話題を話しながら考えていた。紗枝は、直接ストレートに聞くしかないと考えていて、そうした方が良いと柚子には言っていた。
しかし千代は、柚子の聞けない気持ちも、わかるような気がした。かなり気難しいと聞く水上詩乃――友達もいない男子だから、同じクラスの紗枝もほとんど介入できないと言っていた。その彼のことを一番知っている柚子が、聞くのすら躊躇うのだから、躊躇うだけの何かがあるのだろう。
そんなことも聞けない関係ってどうなのよ、とも思わなくもないが、じゃあ自分はどうだと考えると、恋人関係のあるべき姿を偉そうに語ることなんてできない。大体、「何でも話せる」というのが恋人同士の理想なんていう考え方は、果たして正解なのだろうか。
シャワーの後、千代は柚子の髪を梳かして、水分をタオルで拭きとって、そうしてドライヤーで乾かしてやりながら、何か柚子を励ませるような言葉はないかと探した。
「ちーちゃんホントに上手だよね。ちーちゃんにやってもらうと、すごくきれいに仕上がる」
「まぁ、素材がいいからねぇ、柚子の場合は」
そんな事を言いながら、千代は、気の利いた言葉が見つからない代わりに、髪と肌の仕上げを、フルコースで柚子に施すことにした。ダンス部でもメイクなどの美容担当のリーダーは千代で、その信頼は部内でも厚い。
そうして〈仕上がった〉柚子は、千代もうっとりするほど可愛かった。
「柚子、ほんっと可愛いね」
千代はつい、そんな本音を口に出してしまう。
すると柚子は、言葉では何も言わずに、にこっと微笑みだけで応える。
千代も、柚子に出会うまでは、美人に生まれたかった、美人の人生を歩んでみたい、というようなことを、よく考えて、そんな妄想を友人同士で話したりしていた。しかし高校に入り、柚子と付き合っていく中で、千代は、自分では柚子のような容姿を扱うことができないなと悟る様になった。
もし自分が柚子のような容姿を手に入れたとしたら、きっとその〈美〉を、乱暴に振り回してしまうことだろう。金だけは持っている高級車のオーナーが、思い切りアクセルを踏み込み、その走行性を見せびらかすような運転をするのと同じように。
けれど柚子は、そういうことを全くしない。ちょっと可愛い子と柚子と、その決定的な違いはそこにあると、千代は思っていた。化粧をすれば、少し着飾れば実際、〈可愛い〉は作れる。けれどその可愛さは、そこ止まり。柚子の美しさの本質はたぶん、品性から来ている。自分の容姿に振り回されない気高さのようなものが、柚子にはある。
柚子は制服に着替え、ヘリボーン柄の灰色ダッフルコートをその上から着、白いマフラーを首に巻いた。そうしてマフラーに頬をうずめるその柚子の姿を見ると、千代は胸が痛かった。
――柚子は、〈良い子〉だ。でもその性格が、今は柚子を苦しめている。
紗枝の言う通り、柚子は水上君の彼女なんだから、気になることははっきり口に出した方が良いのかもしれない。だけどそう思うのは、柚子が辛そうにしているのを見ていられないという、自分の、友達としてのエゴなのではないか。
どうなのだろうと、千代は、柚子と体育棟の階段を下りながら、螺旋階段のような思考の渦にとらわれていった。




