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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
2,それでも息はできるから
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無名の供養塔(1)

 三学期の始業式の翌週、連休明けの火曜日。


 詩乃は放課後、部室には残らず学校を出た。


 明香の相談を聞くために二人で会う、その約束の日だった。


 場所は、八王子駅の北口ターミナル前、ビルの二階のファミリーレストラン。洋や明香と、何度か来たことがある。しかしまたそのファミレスを利用する時が来るとは、詩乃は思ってもいなかった。


 電車を乗り継ぎ、八王子駅に向かう車両の中、詩乃は扉の窓から、日が暮れて暗い影になってゆく建物を眺めていた。


 中学の頃も、詩乃は明香に頼まれれば何でも引き受けていた。振られる前も、振られた後も。明香にとっては都合の良い男だったのは、詩乃自身、充分承知でそうしていた。今でも、そのことを詩乃は後悔していなかった。馬鹿だった、とも思っていない。


 そうして今、自分はその時の再現をしている。


 相談があると言ってきたのは宮本さんの方なのに、自分が都内に住んでいるのを知りながら、八王子に呼び出した。そうして自分は、文句も言わずのこのこと、八王子行きの電車に乗っている。きっと、向こうに着いて待たされることになっても、自分は一時間でも、二時間でも、待てと言われれば待つのだろう。


 時間通り駅に着き、詩乃は時間通り、待ち合わせのファミレスに向かった。


 約束時間の十五分前。明香はまだ来ていなかった。


 詩乃はファミレスの外で明香の来るのを待った。やがて明香がやってきたのは、待ち合わせを五分過ぎた後だった。「ごめんごめん、遅れちゃった」と、明香はエレベーターが開いて、詩乃を見つけると同時に言った。


「それ暖かそうだよねー、この間も思ったけど」


 感情があるのかないのか、よくわからない声で明香が、詩乃のカシミアコートに対して言った。


 そう言う明香は、紺のダッフルコートを着ている。下は、制服のスカート。


 店に入って、四人掛けのテーブル席に、詩乃と明香は向かい合って座った。コートを脱ぐと、二人はそれぞれの制服姿になった。


 ドリンクバーに、明香はドリアを頼み、詩乃はムール貝のバター焼きを頼んだ。変わったもの頼むね、相変わらずだねと、明香はそんな事を詩乃に言った。


 明香の言葉に、詩乃はきしきしと痛みを覚えたが、その痛みはおくびにも出さず、詩乃は笑って受け流した。


 明香の一つ一つ言葉や表情や、その変化に、詩乃は中学時代の自分のことを思い出していた。


 明香は、色々な表情を持っていた。口調も、感情も、山の天気の様だった。晴れていたかと思うと、突然雲行きが怪しくなり、そうしてまた晴れ、また、突然雨が降る。詩乃は登山者のように、それに合わせてあるときは立ち止まってテントを張り、様子を見ながら、晴れている時には、滑落しないようにそろそろ進んだものだった。


「今日部活無かったの?」


「部員一人だから」


「一人なの!? なんだっけ、文学部だっけ?」


「ううん、文芸部」


「あぁ、そうだった。違いよくわからないけど」


 明香はそう言って、運ばれてきたドリアの一画をスプーンで掬った。詩乃は、明香がドリアを食べる様子を眺めた。


 明香が、自分に言葉を投げた後、冷たい目になる様子、笑顔を消す様子、そして唇にうっすら、冷笑の欠片が現れる様子。――全て、中学生の頃は魅力だった。


 その後明香は、詩乃にクラス同窓会のことについて相談を持ち掛けた。


 クラスの中に苦手だった女の子のグループがあって、その子たちとどのように接すれば良いだろうか、ということや、幹事が明香から洋に変わった途端、不参加から参加に変更した元クラスメイトも数名いたことで傷ついている、というようなことを詩乃に打ち明けた。


 詩乃は、最初の内はちゃんと聞こうと思っていたが、聞いているうちにだんだんと明香に腹が立ってきて、上の空のような相槌が増えていった。詩乃には明香の相談が、本心からのものではないとわかっていた。明香のやり方を、詩乃は熟知していた。


『この相談も、相談があるということ自体も全部口実で、宮本さんの本心は違う。自分を好きと言った男の心が、他の女のもとに行くのが嫌なのだろう』


 そういうことを、詩乃は明香との長い付き合いと、片想いの時期に磨かれていた観察眼で、見抜いていた。


 それでも詩乃は、明香を嫌いにはなりたくないと思った。


 過去のあの時代のことの全てが、自分の明香への恋心や、振り回されていた過去の自分が、明香を嫌いになってしまったら、全部黒く塗りつぶされてしまうような気がした。


 詩乃にとっては、明香とのことは苦い経験には違いなかったが、それでも、その思い出を「若気の至り」なんて言葉で片づけたいとは思っていなかった。痛くても、恥ずべき過去なんて、考えたくはない。今の自分はそんな総括ができるほど昔と変わっていないし、昔の自分だって、そんなことを未来の自分から言われるほど子供では無かった。


 全てが悪かったわけでは無い。全部が無駄だったわけではない。宮本さんのことも、自分の片想いも、「馬鹿げていた」なんて思いたくない。


「ヨーちゃんだったらどう言うかな」


 詩乃は、明香の相談を聞きながら、そう言ってみた。


 すると明香は、「あー」と、少し考えてから、詩乃に質問した。


「――あの後、洋とは連絡取ってるの?」


「取ってないよ」


「ふーん。遊ぶ約束とかしてないんだ」


「うん」


 詩乃は返事をしながら、ムール貝にバターを絡ませた。


「水上君さ――」


 ムール貝を口に運ぶ詩乃に、明香が話題を変えるように話しかけた。詩乃は、何の話だろうと小首をかしげた。


「聞いてくれないんだね」


 バツの悪そうな笑みを浮かべ、明香は詩乃に言った。


その、自分を覗う明香の目に、詩乃は難しい顔をした。


「ヨーちゃんのこと?」


「うん」


 詩乃は、明香の目を見据えた。


「結局どうしたの? 告白は――」


「できなかったの!」


 明香は駄々をこねるように言った。


 詩乃は、ため息をつく代わりにカップのコーヒーに口を付けた。


「――だって」


 と、明香は、詩乃が何も言わないうちに、自らを取り繕うように言った。


「だって、洋引っ越すって言うし、それで高校も、志望校変えたじゃん。しかも、好きな子いないって水上君から聞いてたし……あの時告白しても、私振られてたよ。洋って、絶対両想いじゃないと付き合わないでしょ」


 詩乃は、別に明香を咎めるつもりはなかった。というよりは、詩乃は、明香が洋に告白をしようがしまいが、付き合おうが、付き合うまいが、どう転んでも構わないと思っていた。どうなったとしても、自分と明香、そして自分と洋の関係が変わることは無い。その考えから詩乃は、結果については頓着していなかった。


「まだ好きなの?」


 詩乃がそう聞くと、明香の首筋に赤みがさした。


明香は、反抗的な不機嫌顔で詩乃を軽く睨んだ。


しかし詩乃は、自分の出した言葉を、引っ込めるつもりはなかった。


「水上君には助けられてばっかだったよね、私」


 拗ねたような顔で、明香は突然そんなことを言った。そうして、今度は俯き加減になって、続けた。


「水上君優しいからさ、つい頼っちゃうんだよね」


 明香の口調は、いかにも慰めてほしそうな色を帯びていた。


 詩乃はもう一口コーヒーを飲み、その苦みを舌の上で転がした。


「――ねぇ、彼女とはどうなの。えっと名前、新見さんだっけ」


「う、うん……」


 詩乃は、明香が柚子の名前を憶えていることに、小さな恐怖を覚えた。柚子が明香の名前を憶えていた時と同じような妙な焦りを感じ、内心うろたえてしまう。


「水上君、初彼女?」


「うん」


「ってかさ、水上君の彼女、超可愛くない? 話した感じも、めっちゃいい子そうだったし、なんか友達になれそう」


 明香はそう言うと、悪戯っぽい上目遣いで詩乃に言った。


 詩乃は奥歯を噛んだ。


 ここに来たのは、自分の宮本さんへの気持ちを確かめるためでもなければ、自分と宮本さんの関係にケリをつけるためでもない。ただ昔の――中学時代に感じた〈情〉を、それが本当にあったのだと信じるために来たのだ。


 宮本さんは自分との関係の全てを、打算の上に成り立たせていたわけでない。今日ここに自分を呼んだ理由も、九十九パーセントは宮本さんの身勝手な、子供じみた動機だったとしても、一パーセントくらいは、そうではない〈何か〉があるはずだ。


 しかし詩乃は、そう信じ込もうとすればするほど辛かった。


「何か悩みとかないの? あったら聞くよ」


 明香が言った。


 詩乃は、苦笑いを浮かべた。詩乃の反応を見て、明香が、早口で言葉を追加した。


「男の子じゃわからないこととかあるだろうし。水上君、気軽に話せる女友達いなさそうだし」

「そうだね」


 と、詩乃は応えた。


 振った相手をいつの間にか『友達』ということにして、そう呼んでしまう明香の無神経さが、詩乃は懐かしかった。


「でも自分と宮本さんは、最初から『友達』じゃなかったんだよ」


 と、詩乃は心の中でだけ、明香に話しかけた。


 宮本さんに恋をしていた時代は、振り回されても嬉しかった。自分を振り回す宮本さんの心の中に、一粒でも自分と同じような気持ちがあると期待して、その期待を恋の拠り所にしていた。喜んで振り回される自分の惨めささえ、献身と思い切って満足していた。


 自分と宮本さんは〈友達〉じゃない。最初から、自分の一方的な「恋」ありきで結ばれていた関係だった。だから今、宮本さんを前にして自分は、話せることも無ければ、本心から話を聞こうとも、やっぱり思えないのだ。


 自分は、宮本さんを信頼してはいない。宮本さんもそうだ。自分がヨーちゃんに向ける心が、彼女にはない。ヨーちゃんを〈友達〉と呼ぶのなら、宮本さんはそれじゃない。


 詩乃はもう、自分と明香との関係の終わりを、認めるしかなかった。自分と宮本さんの間にあったものの中に、信用に足るような、そんな美しいものは無かった。もしあるとすればそれは、たまにふいに見せた、あの笑顔だった。くしゃっと萎む様な、あの笑顔。プールで見た、あの笑顔。自分はその、他意の無い無邪気さに恋を自覚したのだ。


詩乃は心の中で、思い出のアルバムを閉じた。


「今度紹介してよ」


 明香が言った。


「新見さんを?」


 詩乃が柚子の名前を口にした時、たった一瞬だけ、明香の目の中の光りが揺らいだ。たったそれだけのことだったが、詩乃はその変化をととらえていた。


 詩乃は微笑を浮かべて応えた。


「来月の彼岸の頃に連絡するよ」


 詩乃が言うと、明香はにこりと笑った。


「やった、楽しみ」


 それからすぐ、ウェイターが二人分の皿を片付けに来た。


 詩乃は、カップの底で冷え切ったコーヒーを喉に流し込み、立ち上がった。

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