西日のナイフ(2)
「皆本気じゃないって」
「うん……」
いじらしい柚子の態度を見ると、千代は、自分の心の汚さだとか、狡さのようなものを自覚せずにはいられなかった。
柚子を前にすると、きっと皆、自分の醜い部分を自覚せずにはいられなくなる。そういう所があるから、もしかすると、誰も、一線を越えて柚子の懐に踏み込もうとしないのかもしれない。柚子のそこを「良い」と思える人だけが、柚子の懐に入って行ける。
「――いやでも、柚子が正しいよ」
千代は言った。
千代は、柚子の純粋さに、憧れを抱いていた。自分は絶対にそうは成れないけど、柚子といると、心が洗われるような気がする。
「なんか、水上君が馬鹿にされてるみたいで、私、すごく嫌になっちゃって」
千代は、自分の胸に手を当てて、目を瞑った。
柚子の可愛さと、そして自分の行いへの懺悔を神に報告したいと思った。
「水上君は果報者やでぇ」
千代の口から、思わず変な方言が出る。
「ううん。私が、不幸せにしてるかも……」
「そんなことないって!」
千代は声を上げた。
「今年は、まだ会ってないんでしょ?」
「うん」
「声は聞いた?」
柚子は首を振った。
クリスマスから今まで、やりとりはちょっとしたメッセージくらいだった。
「きっと水上君も会いたがってると思うよ」
千代が言うと、柚子は俯いて、手をもじもじさせた。
「電話してあげたら」
千代は、背中を押すつもりでそう言った。
柚子は千代にそう言われると、詩乃に会いたい気持ちが、じわじわと心に湧き出してきた。クリスマス以降、ダンスの練習に打ち込んで、そうすることによって気持ちに蓋をしていた柚子だったが、一度会いたい、声を聞きたいと思うと、その気持ちはどんどんと勢いを増して、蓋の隙間からとめどなく流れ出してくるのだった。
「いいのかな、電話しても……」
「もちろんでしょ! 絶対水上君も喜ぶって」
「そうかな?」
「絶対そうだよ。しな、しな、電話! 柚子は我慢しすぎ!」
千代にこれでもかというほど電話を勧められた柚子は、一旦部屋に戻って、スマホを取ってくることにした。部屋ではまだ女子トークが続いていたが、柚子がスマホを持ってまた部屋を出て行こうとすると、さすがにその様子が気になって、二年生の生徒が柚子に声をかける。
「柚子、もしかして彼?」
「う、うん……」
「柚子、ラブラブで羨ましい!」
柚子は、はにかみ笑いで応じて部屋を出た。合宿の夜に彼氏に電話――このシチュエーションは、今の今まで彼氏の愚痴をネタに盛り上がっていた女子生徒にも、かなり羨ましく映った。
私もラインいれてみよっかな、ちょっとからかい電話してくるねと、急に彼氏のことが恋しくなってくる女生徒たち。一方そのころ男子部員たちは、部屋で一発芸選手権をして盛り上がっていた。
部屋を出た柚子は、スマホを握りしめて、千代と一緒に一階に下りた。赤茶色を基調としたダイヤ模様の絨毯に畳ベンチ。明治時代を彷彿とさせる和と洋の組み合わさった内装のロビー。小庭の見えるガラス窓に面したベンチに座り、柚子は、スマホの画面をじいっと見つめた。『発信』ボタンに人差し指を向けたまま、数秒間、固まる。深呼吸をして、息を整える。
告白するわけじゃないんだから、そんなに緊張しなくてもいいのにと、千代は少し呆れてしまった。やがて柚子は、意を決してモニターを押した。
一月四日、夜の七時。
詩乃は立川駅にやってきた。南口を出て徒歩三分弱、洋たち中学時代の同窓三人との食事会。場所は、三階建てのパチンコビルの裏手にあるお好み焼き屋である。詩乃が行くと、店の前に、詩乃と同世代ほどの女性がいた。
店からの明かりに照らされたオレンジブラウンの明るいミディアムヘア。とび色のファーコートに、ひざ丈のチェックスカートを穿いている。
昔とは違う髪色でも、詩乃は一目で、彼女が宮本明香であることがわかった。
明香は、通りからやってきた詩乃には気づかず、スマホを片手にして、その画面に集中している。詩乃が近づいてゆくと、人の気配を感じて、明香は顔を上げた。
「あぁ! 水上君!」
明香は、近づいてきたのが詩乃だとわかると、驚いたような笑顔でそう言った。その笑顔を見ると、詩乃の胸に苦い思い出が蘇ってきた。
自分が好きだったこの笑顔。いつも明るかった宮本さん。中学二年で一緒のクラスになってから、二年間恋をしていた。どのクラスのどの子よりも、特別に可愛いと思っていた女の子。
――そして自分を振った女の子。
「久しぶり」
詩乃はそう言った。
「久しぶりだねぇ! 元気だった?」
「うん。元気だよ」
「いやぁー、変わってないねぇ、水上君」
けらけらと、笑いながら明香は言った。
「そうかな」
詩乃はそう言って、明香の笑いに合わせて少し頬を緩めた。
「今一人暮らししてるんだって?」
「あー……」
「洋に聞いちゃった。高校も、転校したんでしょ? どこ通ってんの?」
「山の手沿線の私立だよ」
「へぇ、いいなぁ、都心。今度案内してよ。水上君の一人暮らしの家にも行ってみたいし」
詩乃は、曖昧に頷いた。
ちょうどそこへ、黒のモッズコートを着た洋ともう一人、紺のダッフルコートに制服のスカートを着た女の子――石塚智美が一緒にやってきた。智美は、中学時代から変わらない黒縁の眼鏡をかけている。背は、相変わらず高い。
「おぉ、智美、洋!」
明香は明るい声でそう言って、二人を迎えた。
全員揃ったので、四人はそのまま店に入った。店はごくシンプルな長四角で、四角い四人掛けのプレート付きテーブルが左右四つずつの合計八つ並んでいる。そのうち三つのテーブルが埋まっていて、そのテーブルから漂う粉モノの独特な臭いや、ソースや鰹節の匂いが、四人の胃を刺激した。
上着を壁にかけ、詩乃と洋、その向かいに明香と智美が座り、テーブルを囲んだ。
「美味しそうだね。智美、よくここ来るの?」
明香は、他のテーブルでもんじゃ焼きを作っているのを見て言った。
「ううん。友達に聞いて」
智美が応えた。
今日の店を決めたのは、智美だった。智美の通う高校は学園都市として名高い国立にある。治安が良く綺麗な街だが、しかしその界隈の高校生は、ちょっと派手に遊びたいときには、その隣の立川駅周辺を利用する。智美の友人もその例に漏れず、立川の店には詳しかった。
「あぁ、これかぁ!」
明香は、メニュー表の、『お好み焼き食べ放題コース』の紹介を見て言った。90分1500円、120分1800円。ドリンクバー、アイスバーつきでプラス200円。
「クラス会の下見も兼ねてるんだよ、今日」
智美は、状況がつかめていなさそうな詩乃の表情を見て取って、詩乃に説明した。実際詩乃は、今日の集まりがどのような趣旨なのか、知らなかった。
「橋井君教えてないの?」
智美は続けて、洋に言った。
特別棘のある言い方ではないが、智美の落ち着いた低音の声には、妙は迫力があった。
「ごめんごめん、いいかなぁと思って」
洋は笑いながら言った。
全くしょうがないわねというように、智美は微かな笑みを浮かべた。
「とりあえず頼もうよ。俺食べ放題コースがいいな。詩乃っちは?」
「うん、そうしようよ、折角だし」
「明香と智美もそれでいい?」
洋に聞かれた二人は、そうしようと頷いた。
「すいませーん。お好み焼き食べ放題コース、120分お願いします。――あ、はい、ドリンクバー付きで」
洋が注文すると、智美は驚いて言った。
「120分コースにするの?」
「え、ダメだった?」
「……もう、いいけどね」
智美と洋のやり取りが懐かしくて、詩乃は知らずに知らずのうちに微笑んでいた。中学時代も洋と智美は、特別仲が良い、と言うわけではなさそうだったが、よく、姉と弟のようなやり取りをしていた。
「智美、飲み物取り行こ」
「うん、そうだね」
明香と智美がドリンクサーバーに歩いていくので、洋も立ち上がった。
「あ、詩乃っち、取ってこようか?」
「いいよ、自分も行くから」
詩乃と洋も、二人のあとから飲み物を取りに行った。
そうして始まった小さな食事会は、中学を卒業してからの、それぞれの学校生活を最初の話題にした。中学を卒業してからもうすぐ丸二年が経とうとしている。その間それぞれに起った面白い出来事は、話し始めればいくらでもあった。
お好み焼きが運ばれてくると、今度はそれを混ぜる時の失敗を互いに指摘し合って盛り上がった。詩乃はお好み焼きの様子を見ながら、明香と洋のスピード感のある掛け合いや、たまに入る智美のシビアな突っ込みを聞いて、ささやかな笑い声を挟んだ。
中学時代、案外自分は楽しんでいたのだろうかと、詩乃は、昔の自分を再発見するような心地がした。
その後、一旦プレートが全て空き、皆が席を立つ瞬間があった。
詩乃はドリンクバーに、他三人はトイレへと向かった。詩乃がドリンクサーバーの前で何を飲もうかと考えていると、一足早くトイレから戻ってきた智美が、詩乃の隣にやってきた。
「今日ありがとうね、来てくれて」
「え? いや――」
自分は誘われただけだから、と詩乃は思った。
「クラス会の幹事宮本さんだったんだけど、名前だけ橋井君に借りようかと思って。それで橋井君を連れて来たんだけど、水上君が来なかったら、橋井君もたぶん、来なかったと思うから」
詩乃はコーヒーのボタンから手を引っ込めて、智美をちらりと見やった。
「自分がいなくてもヨーちゃん、来たと思うけど」
「ううん。今日最初、試合があるからって断られてるんだよ。でも、水上君も連れてきなよって言ったら、時間合わせて来てくれたんだ。幹事の方も、名前貸し大丈夫って言ってくれたし」
ふーんと、気のない返事をして、詩乃はサーバーの下にコーヒーカップを乗せ、ブレンドコーヒーのボタンを押した。
「幹事、宮本さんじゃダメだったの?」
「実際動いてるのは私と明香なんだけど、女子が幹事やると、グループとか、色々あるんだよ」
そういうもんなのかと、詩乃はぼんやりと納得した。




