バロックパール(5)
「どうしたの?」
千代は、気になって訊ねた。
柚子は、俯きながら応えた。
「私って、全然ダメなんだ……」
「柚子が!?」
「うん」
はぁと、柚子はため息をつく。
千代は、柚子の側に寄って、体育座りのまま、ダルマのようにこつんと肩と肩をぶつけた。
「水上君、疲れさせちゃった」
「あー……」
千代は、ホールの低い天井を見上げ、それから柚子に言った。
「でも、水族館、水上君の提案だったんでしょ?」
「私のためだったんだよ。ライトアップされて綺麗だったんだけど、水上君好みじゃなかったみたい」
「品川のあそこでしょ? 口コミの評価すごく高いけど、良くなかった?」
「ううん、良かったよ。でも、水上君には、そうじゃなかったみたい」
「じゃあ――」
「ううん、私は、楽しかった。行って良かったと思う。でも、私ばっかり満足して、水上君は……」
柚子は、タッパーのレモンに視線を落とす。
輪切りの黄色いレモンとは正反対のような柚子の表情。それを見て千代は、明るい声で言った。
「大丈夫だよ。まだ〈彼氏〉っていうのに慣れてないだけだって。水上君、女の子と付き合うの初めてなんじゃない?」
「あー……どうなんだろう」
「まぁ、あんまり聞きたくは無いよね」
「うーん……」
「柚子が初恋かもよ?」
「ええっ!」
柚子は顔を赤らめた。
千代は、レモンを一つ摘まんで、ぱくりと皮ごと口に入れた。「うーん」と、甘酸っぱさを口いっぱいで楽しみ、ごくりと、果肉も皮も一緒に呑み込む。
「――うーん、やっぱり水上君と、話してみたいなぁ」
千代はそう言って、にやっと笑った。
柚子も、恥ずかしそうに笑った。
一年生のリーダーが、早々に練習を再開し始めた。
「さてっ」
と、千代も身軽な動作で、跳ねるように立ち上がった。そうして柚子に手を差し出し、その手を掴んだ柚子を引っ張り上げながら言った。
「もうちょっと頑張りますかっ!」
柚子は、千代の力を借りとひょこっと立ち上がった。
それを合図にして二年生も立ち上がり、程なく、午後の練習が始まった。
大晦日、詩乃は朝から、思い付きで蕎麦ばかり作って食べていた。
いくつか店を回って、六種類の生蕎麦を買ってきて、それを二時間おきに一食ずつ食す。水や茶や米や、とにかく何でも、詩乃は味の違いを試すことが好きだった。大晦日の夜は蕎麦を作ろうと考えた時、そういえば蕎麦の味の違いを、自分はあまり知らないなと思った。一旦そう思うと、詩乃は考えるよりも先に家を出て、食品店で生蕎麦を探していた。
クリスマスの後、詩乃は実際の所、小説の改稿作業が終わった後は暇を持て余していた。
文学賞をとった短編の二回目の改稿作業を終えて、原稿を担当編集者に戻したのが二十七日。二十八日からは、実家に帰って大掃除をすることになっていた。掃除をしたらバイト代とお年玉をやると父から言われていた。
しかし詩乃は、どうしても父と顔を合わせる気になれず、体調不良を理由に電話で帰宅を断った。電話越しに言葉を交わすだけでも、詩乃は父に対して、吐き気を催すような嫌悪感を覚えた。電話をかけてみて、なおさら実家には戻れないと詩乃は思った。
そうして家に引きこもることにした詩乃は、連日ほとんど布団の上にいて、起きているような、寝ているような曖昧な生活を送っていた。買い物にも行かなかったので、大晦日までの間に、冷蔵庫の中の食材はほとんど使い尽くしていた。
年末だというのに、華もメリハリも無い生活を送っているなと、そのことは詩乃も自覚していたが、そういう生活を、詩乃は悪いとは思っていなかった。悪いと思うどころか、そういう生活こそが、詩乃には心地よかった。
夕方を過ぎて夜になり、詩乃は五種類目の蕎麦を作った。
ごくシンプルな汁だけのかけ蕎麦。
薄いキツネ色の汁を蓮華で掬って飲むと、自然とほっと息が漏れる。
「新見さん、元気かな」
不意に、そんな事を詩乃は思った。
クリスマスの後は、電話もしていない。冬休みの前は、話さなかった日でも、少なくともその顔を見ることはできた。実際は、毎日話くらいはしていて、二日か三日に一回は一緒に昼食も食べていた。それが急に、六日も会わず、声も聞いていないと、妙に落ち着かない。
たった六日。そのはずなんだけどなと、詩乃は思った。
新見さんと会う前は、高校一年生の時なんて、人と話すこと自体稀だった。実家にいても、父とはほとんど話さなかった。別に自分は、それでも大丈夫だった。寂しいとか、一人が嫌なんて、思ったことが無い。今だって、孤独が嫌なんて思わない。だけど新見さんには――。
ずるずるっと、詩乃は蕎麦を啜った。
そうして、書籍類で散らかった自室をぼんやり眺めた。そうして詩乃は、考えた。自分がもし中島敦の世界の住人だったら、自分も、虎になっていたのだろうか。難しい試験に合格するほどの頭脳は持っていないけれど、虎になるだけの素質はあるように思う。
忙しいと言って新見さんを遠避けておきながら、本心では新見さんと会いたいと思っている。今すぐ電話をかけて新見さんを呼び出して、今の所一番美味しいと思った出雲蕎麦を、新見さんに作ってあげたい。そうして新見さんの、おっとりした笑顔が見たい。
でもそんなことは、到底実現できそうにない。それは詩乃が一番よく知っていた。新見さんに迷惑だから、というのは建前で、本当は自分は、ただ怖がっているだけなのだ。自分で勝手に壁を作っておきながら、新見さんには、新見さんの方からその壁を越えて来てほしいなんて思っている。
『山月記』の虎は、きっと夜になると、白い月を見上げていたのだろう。空の遠くに、輪郭のくっきり現れた月を見て、恥ずかしがったに違いない。月からははっきりと、虎の姿が見える。銀色の光に、隠れようもなく刺し照らされて、虎は逃げ場もなく、月に向かって叫ぶのだ。
詩乃が虎の空想をしているうちに、布団の隅に放り出されたスマホが光った。
柚子からのメッセージだった。
詩乃はスマホを拾い寄せた。
『大晦日だね。
水上君、今年はお世話になりました。
私は今、家でお蕎麦を食べています。細く長く。
水上君とも、ずっと、長く一緒にいたいな、なんて。
今年は、水上君と出会えて良かった。
もう今年は終わるけど、私にとっては、すごく特別な一年でした。
ありがとう。
また来年もよろしくね』
柚子からのそのメッセージには、蕎麦や顔のアイコンが散りばめられていた。
詩乃は、蕎麦の器の隣にスマホを置き、そのメッセージを表示させたまま、蕎麦を啜っては眺め、蕎麦を啜っては眺めを、何度も繰り返した。蕎麦の汁までを飲み干してしまった後も暫く、詩乃は柚子のメッセージを繰り返し読んだ。そうして、言葉の一つ一つに込められた柚子の気持ちを噛みしめて味わった。
『八雲立つ 湯気の垣根に月影を 眺むるままに年暮れぬべし』
少し考えてから、詩乃はそんな和歌を柚子に送った。
するとすぐに、またスマホが光った。電話だった。
詩乃は番号も確認せずに、すぐに電話に出た。柚子だと思った。
ところが、『もしもし』と言うその声は、柚子ではなかった。
『――あ、詩乃っち?』
電話の相手は、洋だった。柚子ではなかった残念さはありながらも、洋からの電話は、詩乃には嬉しかった。
「あ、ヨーちゃん? どうしたの」
『いや、ちょっとさ、急に決まったんだけど、一月四日の夜、何人かで会うことになったんだよね』
「何人か……。中学の人?」
『そうそう。三年二組の、同窓会の話もかねてさ。――あれだよ、宮本と石塚』
宮本という名前に、詩乃の呼吸が一瞬止まった。
宮本明香――詩乃の初恋の相手である。
『ヨーちゃんも行くの?』
『うん、もちろん。立川で集まることになってるんだけど……詩乃っちの所からだとちょっと遠いかな』
「いや、いいよ、行くよ」
詩乃は即答した。
電話の後、詩乃は今日最後の蕎麦を茹でることにした。湯が沸くのを鍋の前で待ちながら、詩乃はぼんやりと、宮本明香についての記憶、思い出を掘り起こした。
宮本さんは、洋のことが好きだった。けれど最終的に、二人がどうなったのかは聞いていない。宮本さんは、洋に告白したのだろうか。付き合っているのだろうか。それとも、告白せずに終わったのだろうか。
ぶくぶくと湯が沸騰し始めた。
その白い湯けむりに、詩乃は顔をしかめた。




