バロックパール(4)
「はい、プレゼント」
不意打ちのプレゼントに、柚子は驚いてしまった。
「私に?」
「うん」
「開けていい!?」
「うん」
柚子はその場で、箱の包装を綺麗にとって、箱を開けた。中のキーリングを見た柚子は息を吸い込み、感動しすぎて、一時呼吸を忘れてしまった。
「趣味と違ったらごめん」
「ううん、すごくいい! すごくいい!」
柚子は同じ言葉を繰り返しながらキーリングを手に取って、その場で、自分の使っていたキーホルダーから、鍵類を全部外して、詩乃から貰ったキーリングに付け替えた。
柚子の喜ぶ姿を見ると、詩乃は嬉しい反面、申し訳なく思った。
誕生日の時といい、今日といい、まともな形でプレゼントを渡せなかった。デート一つまともにできないなんて、彼氏失格じゃないのかと詩乃は思った。
本当はもう一つ、詩乃はプレゼントをコートの左ポケットに用意していた。
自宅の合鍵である。
『彼女が喜ぶ贈り物』を調べた時に「自宅の鍵」と書いてあったのを見て思いついたのだった。折角キーリングを渡すのだから、それも一緒に渡してしまおうと思った。
しかし、詩乃はもう、それを渡そうとは思えなかった。
「私もプレゼント」
柚子はそう言うと、バックの中から、長細い黒箱を取り出した。茶色いリボンに、〈COACH〉の文字とロゴマーク。詩乃は、柚子に渡されたその箱を前に、受け取るのを躊躇った。
プレゼントを貰う習慣も、その経験自体も、詩乃にはほとんどなかった。
なかなか詩乃が箱に手を出さないので、柚子は詩乃の手を取って、プレゼントを握らせた。箱を握った詩乃の手が震えているのを感じて、柚子は驚いた。まだ具合が悪いのだろうかと心配になって、詩乃の顔色を覗う。
そういえば万年筆を上げた時も、同じような顔をしていたなと、柚子は詩乃に誕生日プレゼントを渡した時のことを思い出した。
柚子のプレゼントは茶色の長財布だった。
箱を開け、詩乃はその長財布を両手で持って、手の中に収めた。そうして詩乃は、顎に手をやったりしながら、長いことそのプレゼントを見つめていた。その間詩乃は、言葉は何も言わなかった。その詩乃の深い感動の様子を見て、柚子はいつの間にか涙目になっていた。
ひとしきり眺めた後、詩乃は財布を元の箱に戻し、その箱ごと手提げに入れた。
柚子はこっそり涙を払い、詩乃の手を握った。
詩乃は眼鏡をかけなおし、「お腹空いたね」と言った。そう言われると、柚子も急に空腹を覚え、ぐうっと腹の虫が鳴った。
一つの献立表を二人で共有して見ながら、詩乃は小さく柚子に言った。
「ごめんね」
すると柚子は、詩乃の手をぎゅっと握って言った。
「なんで謝るの。私、すごく楽しいよ、今」
詩乃は、柚子の笑顔に合わせて笑った。
「新見さんは温かいね」
詩乃は、自分の膝の上にある柚子の手を見下ろしながら言った。ぽかぽかと温度はカイロのようで、カイロよりも優しい熱を持っている。その温かさが、詩乃には苦しかった。温めてもらうことしかできない自分が情けなかった。
「……」
柚子は、詩乃の瞳に浮かぶ物悲しさに惹かれながら、その詩乃の感情に踏み込めない自分を歯がゆく思っていた。手を握ったり、背中や肩を擦ったりすることしかできない。
眼鏡の奥、水上君のもっと奥が知りたい。嘘の笑顔じゃなくて、笑顔じゃなくてもいいから、本当の表情が知りたい。そう思うものの、詩乃の心の中に入ろうとして拒まれたらと思うと、柚子は怖かった。その恐怖が、もう一歩、柚子を踏みとどまらせた。
――お財布、箱の中に入れないで、今すぐ使ってよ。
その一言で良いのに、柚子は言えなかった。
詩乃の心に、自分を押し付けるのが、やっぱり怖かった。
「――冬休み、水上君何してるの? 予定ある?」
柚子は、詩乃に訪ねた。
詩乃は少し考えてから応えた。
「実家に帰って大掃除のアルバイトかな。あとは、短編の改稿作業がある」
「あぁ、そうなんだ。忙しい、かな」
「うん」
詩乃は、はっきりと頷いた。
「新見さんは、合宿があるんだよね」
「うん。四日から名古屋ね。ステージ合宿だから、明日から最後の追い込み」
「そっか」
二人は、それぞれに言葉を飲み込んだ。それでできた沈黙は、二人の心に冷たく沁み込んだ。
「はいじゃあ休憩しよー!」
クリスマスの翌日から、ダンス部は一月の四日から始まるステージ合宿に向けて連日活動をしていた。三年生のほとんどは受験勉強でこの冬の合宿には来ない。夏の合宿とは違い、一年生、二年生で作り上げる初めてのステージ合宿である。
大晦日を明日に控えた十二月三十日、高校近くの公民館の多目的ホール。ダンス部の一、二年生は、早朝から練習をしていた。柚子の休憩の合図で、崩れ落ちる一年生たち。二年生も似たようなものだが、二年生には笑うだけの余裕がある。
暖房も付けていないのに熱気でむんむんするホールの窓を、柚子は開けて回る。それから、汗で濡れた床をモップがけする。「先輩、私やります」と、ふらふらな足でやってくる後輩に、柚子は笑顔を向けて、大丈夫大丈夫、休んでねと肩を叩く。心も身体も追い込まれている一年生は、それだけで泣きそうになってしまうのだった。
「一年生、一生懸命だね」
柚子は、並んでモップがけを始めた千代に言った。
一年生はホールの壁際に退き、タオルを頭の上に乗せたり首にかけたりして、スポーツドリンク片手に体育座りという格好でいる。満身創痍を絵に書いたようなその一年生の様子を見て、千代は少し笑って言った。
「まぁ、柚子が頑張ってたら、後輩はやるしかないでしょ」
「え? 私?」
柚子は、特別頑張っている、というつもりはなかった。一年生の間は、夏も冬も覚えることがたくさんあって特に大変だから、先輩として、やれるサポートはしっかりしよう、と思っているだけだった。
二人のモップの後ろから、もう一人、モップをかけながらやってきた男子がいた。細身で二重瞼の、見るからに優しそうな男の子――三ツ矢京。千代の彼氏の〈みっくん〉である。
「お疲れ様です」
京は、二人に――特に柚子に向けてそう言った。
「みっくんもお疲れ様。いいよ、休んでて」
「大丈夫です。鍛えられてるので」
そう言って、京はちらりと千代を見る。千代は、わしゃわしゃと京の髪を乱暴に撫でつける。痛い痛いと、京は笑いながら訴えた。
モップがけのあと、柚子は、手提げ袋に入れて持ってきていた三つの大きなタッパーを取り出した。レモンのはちみつ漬けである。柚子はそれを、皆に振る舞った。柚子の差し入れに、一年生たちの表情も明るくなる。
千代と柚子は隣り合って座り、お握りを食べ、そのあとで、デザートとしてはちみつ漬けの黄色いレモンを齧った。
柚子が優しいのはずっとそうだが、近頃は、輪をかけて優しくなってきているような気が、千代にはしていた。過保護な甘ったるい優しさではなく、もっと深くて広い優しさ。今までも笑顔が可愛く綺麗だった柚子なのに、その笑顔も何か、今までと違う。瞳の深さが、変わったような気がする。
「――やっぱり、水上君?」
「え!?」
突然千代に言われて、柚子は驚いてしまった。
「最近柚子、前にも増して綺麗になってるからさ」
「そう、かな……?」
柚子は首を傾げた。
クリスマス以来、柚子は、詩乃と会っていなかった。連絡もほとんど取っていない。
もともと詩乃が、ショートメッセージや、それに類するあらゆるコミュニケーションツールを嫌っているというのもある。しかし柚子は、それをのみ気にして連絡をしていないわけではなかった。
クリスマスのデートの後、柚子は湯船に浸かりながら、詩乃の弱り切った様子を思い出していた。思えば、朝から元気が無かった。クリスマス・イブ――ダンスパーティーの時も、水上君は疲れていなかったか。もっと前、あのダブルデートの時はどうだったろう。文化祭の後――私たちが付き合い始めてから、水上君はずっと無理をしていたのではないか。
「私のせいだよね……」
柚子は風呂場でぼんやりとそう呟き、ぶくぶくと湯船に口で気泡を立てた。
柚子は本当を言えば、毎日詩乃とは連絡を取りたかった。毎日でも会いたいと思っていた。しかしそのことが詩乃を疲れさせているのだと思うと、自分の思いはなんて一方的だったのだろうかと、柚子はこの数カ月の自分の態度を反省した。
そしてクリスマスの時の、詩乃とのやり取りを思い出して、落ち込んだ。
『忙しい、かな』
『うん』
――あんなにはっきり頷いたということは、やっぱり、私は負担になっているんだ。
その反省もあって、柚子は詩乃への連絡を控えていた。
「なんかさ、柚子、最近憂いが出てきたよね、憂いが!」
〈憂い〉という言葉を近頃、千代は古典の授業から仕入れてきていた。神原教諭の、千代と同じ授業を受けている柚子は、千代の言葉に微笑を浮かべた。
「まだ水上君と連絡取ってないの?」
「うん。本当は会いたいんだけどね」
「そうだよねぇ……。でも、柚子のそういう所偉いよ。私なんか、会いたいと思ったらすぐ電話しちゃうもん」
「でも、そこがちーちゃんのいい所だよ」
そう言ってから、柚子は小さく言った。
「羨ましい」
「え!?」
千代は、聞き間違いかと驚いて聞き返した。
「ううん、なんでもない……」
――拗ねてる?
千代は、こんな柚子の態度を見るのは初めてだった。プラス向きの感情表現は豊かな柚子だが、拗ねるだとか、誰かの悪口を言うだとか、怒るだとか、そういう、ネガティブで攻撃的な感情については、少なくとも表に出さない子だ。
そんな柚子が、拗ねている。




