バロックパール(3)
詩乃はきょろきょろと周りを見て、それから小声で「おはよ」と柚子に言った。
柚子は、詩乃の手を手袋の上から握った。
「水上君、どうしたの。なんか、慌ててる?」
なおもきょろきょろと周りを気にする詩乃に、柚子は言った。
逆に詩乃は、どうして新見さんは、周りの目が気にならないのだろうと思った。新見さんは毎日、登下校の間も、こんなに人目を引いているのだろうか。
「こっちが怖くなるよ……」
「え?」
詩乃は、こめかみを揉み解し、柚子を連れてホームの先頭に歩いた。少しでも人の少ない場所に行きたかった。そうして、ホームの先頭までやってきて、そこでようやく詩乃は、一息ついた。
「水上君、お疲れ?」
柚子に、覗き込まれるようにして問われ、詩乃は眉間の皺を隠すように首を振った。
すぐに電車がやってきて、二人はそれに乗った。
二人の乗った電車の先頭車両は、空いているとまではいかないものの、パーソナルスペースを確保できるくらいの空間は充分にあった。しかし柚子は、目的地の品川駅に着くまで、ずっと詩乃に寄り添うようにくっついていた。
昨日みたいに手を引いてほしいな、と柚子は思っていた。昨日、詩乃が自分を先輩から守ってくれたことを思い出すと、それだけで柚子の頬は赤くなった。
ちらり、ちらりと、柚子は、窓の外を眺める詩乃の顔を盗み見た。
詩乃は、うっかり柚子を抱きしめたくなる男の性を抑え込むために、柚子とは目を合わせないようにした。しかしその詩乃の態度が、柚子の〈甘えモード〉のスイッチを入れた。柚子は、左手でポールを掴む詩乃の懐に入り込み、詩乃の胸をつついたり、灰色のネックウォーマーを引っ張ったりした。詩乃は、どうしたら良いかわからず、駅に着くまで、柚子のされるがままになっていた。
品川駅に着き、二人は並んでホームの出口へと歩いた。
改札の前のスペースには、巨大なサンタクロースのバルーンアート飾られていた。バルーンの巨大サンタの前にはトナカイやサンタのマスコットがいて、家族連れや、カップルが一緒に写真を撮っている。柚子と詩乃も、そこで何枚か写真を撮ってもらった。
柚子は早速、その写真をスマホの待ち受け画面に設定して、ご機嫌で詩乃の隣を歩いた。
駅を出て十分ほどで、目的の水族館に着いた。
正面ゲートに続く通路は十メートルちょっとの白いトンネルになっていた。その通路に入ると、柚子は詩乃の手を握った。そうして入場すると、その先は白系色で統一されたロビーになっていた。水族館というより、科学会館や車展示場といった趣である。広いロビーだったが、チケット売り場には列ができていた。
詩乃は手袋とネックウォーマーをとって手提げの中に突っ込んだ。
二人は並んでチケットを買い、水族館に入った。クリスマスなので人混みは覚悟していた詩乃だったが、いざその中に入ると、どうしてこんな狭い場所に、わざわざ入らなければいけないのだろうと、そんな疑問がぽんと浮かんでくるのだった。
薄暗い水族館、二人を出迎えたのは、遊覧船の模型だった。
十メートルほどもある帆船のミニチュアである。青や赤の光でライトアップされている。入口の広場から次のフロアに進むと、今度は広い空間に円柱や円錐型の水槽でクラゲが展示されていた。
普通の展示ではない。色とりどりの光が、水槽や水やクラゲにあたって、屈折し、屈折光が光の模様を壁や床にも作っている。フロア全体が、光と水生生物と水を使った、一つのアート作品の様だった。しかもそのアートの形や色は、水の動き、クラゲの動き、そしてライトの動きによって逐一変化し、瞬間ごとに、新しい模様を作っていく。
「うわぁー、綺麗だね」
花火のイルミネーションを見ながら柚子が言った。
「うん」
詩乃も最初はそう思って頷いた。
しかし詩乃は、フロアを歩くうちに、目の奥にチクチクするような痛みを感じ始めた。
次のフロアも、その次のフロアも、水槽の形や配置は変わり、展示されている生物は変わっても、その展示の仕方は変わらなかった。カラフルな光のアートと魚たち。フロアを繋ぐ通路にも、その芸術的な仕掛けが施されていて、子供も大人も、顔をライトの色に染めながら笑っている。その横顔も詩乃にはだんだんと、アンチンボルドの絵画に登場する野菜人間のような化け物のように見え始めた。
自分と新見さんも、そんな化け物の一人になっているのかと思うと、詩乃の頭痛はいよいよ無視できないような痛みを発し始めた。
しかし、柚子も楽しそうにしているので、詩乃はその〈楽しい〉を奪ってはいけないと、顔に笑顔を張り付けた。
いくつかのフロアを回った後、二人は宇宙ステーションのようなカフェスペースにたどり着いた。テーブルも壁も、床も、全面がイルミネーションのための装置になっていて、光の花火を打ち上げたり、きらきら光る魚を映し出したりしている。
二人は小さな丸テーブルの席に着き、柚子はパフェを、詩乃はウィンナコーヒーを注文した。
そしてふとテーブルを見た時、詩乃は、ぎょっとした。
テーブルまでもが、実は水槽でできていて、その中には、小さなチョウチョウオの仲間が、三匹ほど泳いでいる。それが、水槽底のライトにあてられて、黄色い体に白い線模様を映している。
詩乃は、質の悪いホラー映画の中にいるような気分だった。胃もたれするようなホラーシーンがカメラのアングルが変わるごとに襲い掛かってくる――それと全く同じ感じを受けていた。
ずきん、ずきん、こめかみの奥に痛みを感じ、詩乃は額を覆った。
「水上君、大丈夫? 体調悪い?」
「いや、大丈夫だよ」
詩乃は、注文したコーヒーを受け取り、それを飲みながら柚子に言った。
カフェで一休みした後、二人はイルカショーを見ることにした。
ドーム型のショーフロアの天井は、UFOを下から見たようなデザインになっていて、その光線でも出しそうな中央部分の真下がイルカの泳ぐ巨大な水槽になっている。客席は、その水槽を中心にすり鉢状に作られている。
集まった観客たちは、ショーの始まりを今か今かと待っている。詩乃は、客たちの表情を見渡し、その声を聞いていると、古代ローマのコロシアムにいるような錯覚に陥った。
ぎゅっと目を瞑る詩乃に気づき、柚子は声をかけた。
「やっぱり具合悪いんじゃない? 本当に大丈夫?」
「うん、なんでもない」
詩乃は首を振り、大丈夫と応えた。
程なく、ショーが始まった。
フロアは映画館のように暗くなり、水槽だけが青くライトアップされた。水槽のあちこちに舞台装置があり、水を噴射したり、光を投影したりして、ショーを彩った。近未来を連想させるテクノポップのBGMに合わせて、三頭のイルカが登場し、ジャンプを繰り返した。
その着水の水しぶきが、きらきらと桃色やオレンジ色に輝く。
歓声が沸くたびに、詩乃の頭痛はひどくなった。そしてついには吐き気を覚えて、詩乃は胸を押えた。柚子は、ショーよりも詩乃を見ていたので、詩乃の変化にはすぐに気が付いた。
「休憩しよ、ね」
柚子は詩乃の背中と肩に手を添えて言った。
「でも、ショー途中だし……」
「ショーはいつでも見られるから!」
柚子は、そう言うと詩乃の背中に手を回して、ほとんど強制的に詩乃を立たせてショーフロアを出た。そのままエスカレーターで一階に戻り、クラゲの展示フロアを横切って、カフェエリアに戻った。
そこで一休みしようと思っていた柚子だったが、詩乃の様子を見て、建物を出ることに決めた。
柚子は詩乃を連れて、水族館を出た。
名残惜しくはあったが、それよりも、詩乃の具合の方が心配だった。
外はすでに日が落ち、残光が空の片隅で消えかかっていた。
水族館を出た後、柚子は詩乃の背中をさすったりしながら、小さなカフェレストランを見つけて、二人でその店に入った。スローテンポのシャンソンが、静かに流れている。二人が席に着くと、水が運ばれてきた。
詩乃は、その細長いコップを、じいっと見つめた。そこに映る歪な形の自分の顔が、まるで自分の心のようだと、詩乃は思った。
――こんなはずじゃなかった。
詩乃はテーブルに肘をついて、その掌で顔を覆った。
自分で誘った水族館なのに、それを、台無しにしてしまった。楽しみにしてくれていたのにと、柚子の事を思うと、詩乃は申し訳ない気持ちでいっぱいになってくるのだった。
柚子は、詩乃の隣に座って、詩乃の背中を優しく撫でた。
詩乃の暗い表情が、体調不良のせいだけではないと、柚子にはわかった。
「具合、どう?」
「大丈夫」
詩乃は答えた。水族館を離れて、頭痛も、吐き気も治まってきていた。
「……ごめん」
柚子は、小さくつぶやいた詩乃の言葉に、胸が押しつぶされそうになった。
「大丈夫だよ」
と、柚子は詩乃がずっと見つめているコップを、詩乃の前に持ってきた。詩乃はそれを受け取って、ちびちびと中の水を飲んだ。
「水上君といられれば、なんでもいいんだよ」
柚子の優しい励ましは、暖かさとともに、鋭い棘となって詩乃の心を刺した。こんな優しい新見さんに、気を使わせてしまっている。自分はなんてダメな彼氏なのだろうか。
「人混み、苦手だった?」
柚子の質問に、詩乃は首を振る。
人混みは苦手だが、体調不良はそのせいじゃない。
口を噤む詩乃の顔を覗き込みながら、柚子は労わるような声で言った。
「私が、無理させちゃったんだよね……?」
詩乃は首を振った。
確かに無理はしていたけれど、それは、新見さんのせいじゃない。
詩乃は眼鏡をはずして目をほぐし、頬杖を突いた。
ぎゅうっと目を瞑り考える詩乃のその姿を、柚子は久しぶりに見た気がした。
「展示が、良くなかった……」
詩乃は、ぽつりと言った。
柚子は、一言も聞き逃すまいと、詩乃を見つめた。
「あんなの……あんな悪趣味な展示だとは思わなかった。――なんであんな風に生き物を扱うのかわからない。ライトアップして、イルミネーションの飾りの一部みたいに……」
詩乃はそう言って顔を覆う。そうしてまた、少しずつ言葉を発した。
「生き物は、人間の装飾品じゃないのに。魚の上にカップを置いて、何が楽しいのかわからない。魚から学ばなきゃいけないのに、あれは、あんなの……人間の鑑賞のための奴隷だよ。あんな扱い……海月たちが可哀そうだよ」
柚子は、息を呑んで詩乃の話を聞いていた。
そんな風に思っていたのかと、柚子は、詩乃の考え方に感動していた。その感動は、蝶の羽化の瞬間を見た時の感動とよく似ていた。
手提げからティッシュを出して、詩乃は目元をぬぐい、鼻をかんだ。その様子を見て、柚子は心が痛んだ。今日も、それに昨日のダンスも、水上君にはすごく無理をさせていたのかもしれない。
はぁと、詩乃は息をつき、手提げの奥から包装された小さな四角い箱を取り出した。それは、柚子へのクリスマスプレゼントだった。新宿でたまたま見つけた本革のキーリング。




