バロックパール(2)
曲の演奏が始まった。
ゆったりとしたワルツ曲。
詩乃は慎重に踊ろうとしたが、柚子は、部室での詩乃とのダンスが忘れられず、大胆に大きく踊ろうとした。手を握る柚子の体温が、どんどん上がっていくのを感じながら、詩乃は、柚子の動きに何とかついていった。
たった一曲だったが、踊った後は、詩乃の体もすっかり熱を持っていた。
曲が終わると色々な所で拍手が起こったが、詩乃は、自分たちの近くで起きている拍手が、まさに自分と柚子に向けられているのに気づき、頬を引き締めた。
その拍手の隙間から、詩乃は、柚子に注がれる視線を感じ取った。
詩乃は内心うんざりしながら、柚子の手を再び握り直し、引き寄せた。
最初のワルツの後は、テンポの速い、明るいクリスマスソングが続いた。マライヤキャリー、〈Jingle Bell Rock〉、そして『Sister Act』版の〈Hail Holy Queen〉。立て続けに踊って、詩乃は疲れてしまった。柚子も、詩乃の疲れを見て取って、詩乃に休憩を提案した。
「うん」
詩乃が頷き、二人はフロアの壁際に移動した。壁際には椅子が並べられている。ところが、二人が椅子に座るまでの間に、三年生の男子生徒が柚子のもとにやってきた。下は制服、上は私服のグレー系のジャケットを合わせている。体つきも顔立ちもしっかりした男で、詩乃は、その生徒が三年生であるのが一目でわかった。その顔つきや目の感じには、猛禽類のような抜け目なさを感じる。
きっと、この、新見さんがフリーになる瞬間を狙っていたに違いないと、詩乃は思った。
「やぁ、柚子ちゃん」
男子生徒は、柚子にそう声をかけた。
「あ、こんにちは」
柚子は笑顔で返事を返した。
柚子とその生徒は、知り合いだった。ダンス部の先輩経由で何度か話したことがある、サッカー部の三年生。
「一曲お願いできる?」
その三年生は、断られるなんて微塵も思っていないような、自信に満ちた声で柚子をダンスに誘った。柚子は、詩乃に目をやった。
柚子の目線を見やり、柚子を誘った男子生徒の方も詩乃に目を向け、言った。
「取りゃしないよ。ちょっと思い出を作りたいだけだから」
二人の視線を受けて、詩乃は小さく頷いた。
「自分は、ちょっと休んでるから」
詩乃が応えると、柚子は、先輩に引っ張られるようにして、フロアの空いている場所に歩いて行った。程なく、次の曲――色っぽいブルースの演奏が始まった。詩乃は椅子に座り、柚子と先輩の踊りを目で追った。いっそ、見えないところで踊ってくれれば良いのにと詩乃は思った。腹の底から、もやもやした黒い感情が沸いてくる。
詩乃が嫉妬心を持て余して椅子に座っていると、そこへ、紗枝がやってきた。
「水上、飲む?」
紗枝はそう言うと、押し付けるようにメロンソーダの入ったコップを詩乃に渡し、詩乃の隣の椅子に腰を下ろした。料理部の紗枝は、エプロンドレス姿である。
詩乃はコップを受け取って、その淵に口を付けた。
「何、振られちゃった?」
紗枝は、詩乃の視線の先を見ながら言った。
詩乃は、むっとして口を噤んだ。
「うそうそ、冗談よ。柚子が水上の事振るわけないの知ってるし」
紗枝は、慌てて取り繕う。
詩乃は紗枝には目もくれず、肘をついた。
あぁまた、やっちゃったと、紗枝は、自分の発言を後悔した。どういうわけか、詩乃を見ていると、何か意地悪を言いたくなる紗枝だった。しかしそのたった一言でも、水上は心を完全に閉ざしてしまう。
こんな男子と、柚子はどうやってコミュニケーションをとっているのだろうと、そのことが紗枝には不思議だった。柚子の前では、水上も打ち解けて話すのだろうか。そして柚子は、水上と二人でいる時には、どんな風なのだろう。
詩乃の横顔を見ながら、紗枝はきゅっと頬を引き締めた。
「奪い返して来たら?」
無遠慮な口調で、紗枝はそう言った。
その言葉に、詩乃も少し言い返したくなった。なんでそんなこと、部外者に言われなきゃいけないんだと思った。
しかし詩乃は、何も言わなかった。
何かを言ったとしても、それは全部、情けない言い訳になると気づいたのだ。
彼氏なら確かに、他の男と踊ってきていいよなんて、言わないのだろう。きっと、きっぱりと、新見さんの代わりに、男の誘いを断ったはずだ。
自分にはそれができなかった。
多田さんの言葉が腹正しいのは、その指摘が、痛い所をついているからなのだろうと詩乃は考え直し、怒りの感情を腹の中でぎゅっと抑え込んだ。
「次の曲が始まったら、行くよ」
詩乃は、俯きながら言った。
それから詩乃は、メロンソーダを一口飲んだ後、ぽつりと紗枝に聞いた。
「多田さん、新見さんの歌、聞いたことある?」
「え、歌? あるわよそりゃ。柚子歌も上手いからねぇ。そういえばダブルデート、カラオケ行ったんでしょ。柚子何歌ってた? あ、でも柚子体調悪かったんだっけ、その日」
詩乃は首をひねった。
「ダブルデートの日?」
「そうそう。カラオケ、途中で切り上げたんでしょ?」
「あー、うん」
詩乃は、紗枝に話を合わせて頷いた。
曲が終わり、詩乃は一息でコップに残ったメロンソーダを喉に流し込むと、立ち上がった。
「お、行くの?」
「うん」
「ガンバレ」
紗枝の応援を受け、詩乃は一曲を踊り終えた柚子のもとに歩き寄った。
柚子とのダンスを終えた三年男子は、柚子と手をつないだまま、じっと柚子の瞳を見つめながら言った。
「柚子ちゃん、あの男と付き合ってるの?」
「え? あの、はい……」
「あのさ……俺に乗り変えてみない?」
「え……」
柚子は、体を強張らせた。先輩に握られている手を振りほどくこともできない。
それを、柚子が迷っていると解釈して、三年のその男は柚子の瞳に詰め寄った。ちょうどその時、二人のもとに詩乃がやってきた。詩乃は、眼鏡の奥から先輩を睨みつけながら言った。
「時間ですよ」
横から声をかけられて、三年のその男は、柚子の手を握る力を緩めた。
その一瞬のすきを見て、詩乃は柚子の両肩に優しく手を置いた。柚子の身体は、金縛りが解けたように動いて、よろっと、詩乃の身体に引き寄せられた。
柚子を傍らに置き、詩乃は油断なく先輩を見据えた。
「なんだよ、強引だな」
先輩は、強い口調で詩乃に言った。
しかし詩乃は、先輩に対して引くつもりはなかった。目の前で柚子を口説かれたことと、そしてそれ以上に、先輩が柚子を怖がらせたことに対して、詩乃の堪忍袋の緒ははじけ飛んでいた。
「柚子が世話になりました」
詩乃はにこりと、誰から見てもわかる作り笑いを浮かべると、柚子の手の引いてその場を離れた。そうしてそのまま、生徒たちの間を縫って、ダンスフロアの奥まった場所までやってきた。
「ごめんね」
詩乃は、柚子の手首を離し、ため息とともに言った。
「ううん」
柚子は首を振り、詩乃の俯く横顔を見つめた。どきんどきんと、柚子は、自分の心臓の音が周りにも聞こえるのではないかと思った。
「新見先輩、一曲踊ってもらえますか!」
ダンス部の柚子の後輩女子が、柚子のもとにやってきた。
詩乃は椅子に座り、柚子に頷いた。
柚子は詩乃に笑顔を送り、後輩の手を取った。
それから柚子は、途中でダンス部の後輩たちなどとも踊りながら、詩乃とは三曲ほどを踊った。詩乃は、自分が休んでいる間も、男が柚子に近づかないか、目を光らせておかなければならなかった。それはダンスパーティーの後、柚子を駅まで送って、別れる瞬間まで続いた。学校から駅までの短い道のりも、詩乃は前や後ろを歩く茶ノ原校生たちの視線を感じて、気が休まらなかった。
駅前で柚子と別れたあと、詩乃はどっと疲れを感じながら自転車に乗った。三十分後、自宅に帰ってきた詩乃は、居間に入ると、敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。暖房もつけず、電気も消さず、コートも途中までボタンを外した所で、脱がずに力尽きた。
そうして詩乃が起きた時、すでに時刻は二十四時を過ぎ、クリスマスになっていた。詩乃は水を一杯飲み、コートを脱ぎ捨て、暖房をつけて、そうして再び、泥のような眠りについた。
クリスマス当日。
詩乃は憂鬱な気分を抱えたまま、電車に揺られていた。
柚子との待ち合わせ場所は日暮里駅、山手線の品川方面行きホームの先頭にしていた。
いつも詩乃は、日暮里駅から徒歩五分の茶ノ原高校まで自転車で通学しているが、今日は、帰り道、自転車に乗る元気が無いかもしれないと思い、日暮里駅まで電車を使うことにしていた。気温も、昨日より低い。
詩乃は、いつものようにカシミアのロングコートを着ていた。その下は、焦げ茶のケーブルニットセーターに明るい青色のタイトジーンズを穿き、靴はいつものボロバッシュ、首にはホームセンターで安売りしていた灰色のネックウォーマーをすっぽりかぶって、同じくホームセンターで買った、機能性重視の黒手袋をつけている。
詩乃が持っている服の組み合わせでは、それが一番暖かい格好だった。その上で、しっかり眼鏡もかけて来ている。
待ち合わせ時間は午後の二時。
日暮里駅に到着し、詩乃は常磐線を降りた。中途半端な時間だが、クリスマスということで、平日にもかかわらず、ホームの人出は多かった。詩乃は階段を上り、連絡通路を渡って、待ち合わせの山手線のホームに続く階段を降りた。
ホームの先頭で待っていた柚子は、詩乃の姿が階段に現れると、その場で待っていられず、早歩きで詩乃を迎えに行った。階段を降りて顔を上げた詩乃は、真っ先に柚子を発見した。人混みの中に居ても、柚子の存在感はいつも通り際立っていた。
柚子は、サンタクロースのような真っ赤なステンカラーコートを着ていた。紺のスキニーにローカットの白スニーカー。薄桜色のショルダーバックを左肩にかけている。
「おはよー」
柚子は手を振りながら、詩乃のもとにやってきた。
詩乃は思わず、柚子に近寄り、その掲げている手を取って、手のあるべき位置――腿の横に戻した。手を振る柚子はあまりに無防備で、そんな柚子を他人の――特に見知らぬ男たちに見せるのは怖かった。




