バロックパール(1)
十二月二十四日、クリスマス・イブの当日。
二年生は、二時間の必修授業の後、三時間目に各教室で二学期の終業式を行う。今日から一月八日までの冬休み期間における諸注意などを担任が話し、柚子も、学級委員長として、二学期の振り返りをした。九月から始まった二学期は、学業では前期テストがあり、行事としては文化祭があった。
「――皆のおかげで、良い文化祭ができました」
柚子がそう言うと、誰かが、「たこ焼きリーダーにお礼言わないと!」と、そんな事を言った。
「あぁ、そっか、そうだね」と、柚子は頬を染め、廊下側の奥の席の詩乃に目をやった。
「水上君、リーダーありがとね」
突然、教壇の上の柚子にそんな事を言われて、詩乃は頷くしかなかった。
そんな一幕もありながら、教室での終業式が終わった。冬休みが始まり、勢い込んで教室を出て行く数名の男子生徒がいて、詩乃はその後から遅れて教室を出た。
「水上君、また後でね!」
教室を出ようとした詩乃に、柚子が窓際の席から声をかけた。
周りの注目を浴びたが、詩乃は恥ずかしさをおくびにも出さず、その眼鏡の奥から柚子を見て応えた。
「うん、また」
詩乃はそう言うと廊下に出て、文芸部の部室に向かった。
近頃は、詩乃が堂々としているので、他の生徒も、二人には最初ほどの注意を払わなかった。
「なんかいいね、新見さん。水上君、最近、〈彼氏〉って感じで格好いい」
その日柚子と一緒に昼を食べることになった女生徒が、柚子に言った。
柚子は、「ありがと」と言って笑顔を見せた。
部室にやってきた詩乃は、暖房をつけ、眼鏡をはずして椅子に腰を下ろした。少しそのまま休んだ後、パソコンをスタンバイ状態から戻し、音楽ソフトを起動する。
流す音楽は決まっていた。
十二月の初めあたりに、急遽作ったプレイリスト。クリスマス・イブのダンスパーティーの定番曲を集めたものだった。部誌の印刷や欅社からの改稿依頼の戻しが済んでしまった後はもっぱら、詩乃は放課後はクリスマス・イヴのダンスパーティーに向けて、一人でダンスの自主練をしていた。
そして、今日は本番である。
ダンスパーティーが始まるのは夕方。それまで最後の練習をしようと、詩乃は音楽の再生ボタンを押し、立ち上がった。
二人で踊っているつもりで、腕を持ち上げ、音楽が流れてくると、それに合わせて動き出す。
茶ノ原高校のペアダンスは、一般的な高校生がやっているフォークダンスや、小学生がお遊戯会でやるような可愛らしくて優しものではない。競技ダンスとまではいかないが、明らかにその流れを組んでいる踊りを求められるので、ある程度の「基礎」は練習しなけらばならない。
ゆったりしたワルツやブルースに始まり、ジルバやタンゴ、ラテンアメリカンスタイルのサンバやチャチャチャ、ルンバまで、しっかり踊る。
入学時よりだいぶマシになってきた詩乃のダンスだったが、詩乃自身は、自分の身体の硬さにちょっとしたコンプレックスを持っていた。だけど、そんな泣き言は言っていられない。今日は、皆の見ている前で踊る。新見さんと踊るのだから失敗はできない。少なくとも、大きな失敗をして、新見さんに恥をかかせるわけにはいかない。
詩乃は休憩を挟みながら、途中弁当箱に入れてきた塩味だけの白飯をつまみつつ、ダンスの練習を続けた。そこへ、ひょっこっと柚子がやってきた。
柚子は、いつものように部室の扉をノックして詩乃に声もかけたが、詩乃はダンスに集中していて気づかなかった。そこで柚子は、静かに部室の扉を開けた。そうして柚子は、一人でダンスの練習をする詩乃を、部屋の真ん中に見つけた。
詩乃はくるりとターンをしたところで、部室に入ってきた柚子を見つけた。
「あっ、新見さんっ!?」
さすがに驚いて、詩乃は踊りを止めた。
柚子は、まさか詩乃がダンスの練習をしているとは思っていなかったので、驚いてしまった。
「練習してたの?」
柚子は、目を輝かせて詩乃に訪ねた。
詩乃は、制服のシャツの裾を掴みながら、「うん」とだけ応えた。
柚子はダンス部の荷物の入ったショルダーバックを部屋の隅に置いて、詩乃の前にぴょんと寄ると、その手を取った。
「踊ろ」
丁度音楽は一曲を終えて、次の曲が始まった。
〈Once Upon a Dezember〉――詩乃は、柚子の手を握り直した。
ゆったりと、力強いその曲に合わせて、二人は映画のワンシーンの様に踊った。狭い部室で、途中詩乃が、机に積んだ本を腕で払ってなぎ倒してしまったが、柚子が構わずダンスを続けるので、詩乃も気にしないことにした。
音楽の、その物悲しい旋律は詩乃の心を震わせ、盛り上がりの華やかな曲調は、柚子の心に激しく燃え上がらせた。ダンスの授業でも、柚子は詩乃とこんなに情熱的に踊ったことは無かった。詩乃は、柚子の手を固く握り、その動きは大きくなっていった。それでも、柚子を机や棚にぶつけることは無かった。
曲が終わって、二人は息を切らして見つめ合った。
柚子は、久しぶりに詩乃の目を見たような気がした。眼鏡越しではない詩乃の瞳を。
詩乃の目の奥には、怒りか悲しみかわからない、ものすごい炎が燃えていた。
柚子は詩乃の首に手を回し、そのまま吸い込まれるように、詩乃の唇に自分の唇を付けた。
「良いリップでしょ?」
柚子は唇を離した後、そう言ってにこッと笑った。
詩乃は、きょとんとしたまま、何も応えられなかった。
二人がキスを交わすのは、文化祭の日以来だった。
「部活だから、もう行くね。水上君、あとでね」
柚子はそう言うと、バックを肩にかけて、ばたたばた部室を出て行った。
詩乃は、中途半端に右手を上げて、柚子が出て行くのを見送った。
そうして詩乃は、ふと部屋の中を見渡した。
さっきの踊りで、部屋中が随分と荒れていた。床に主席類がばらまかれ、パイプ椅子が倒れたまま折りたたまれ、自分の腕や脚も何か所か、ぶつかったせいで赤くなっている。
詩乃は一人頭を掻き、音楽の再生を止めた。
「こういう風に踊れたらな」
詩乃は心の中で呟いた。
自分の好きなように、思いっきり踊れたら、上手いとか下手とか、恥になるとかならないとか、そんなことを何も考えずに踊れたら、きっと新見さんとのダンスは楽しいだろう。
でもそれは叶わない。
こんなに部屋を無茶苦茶にするような踊り方、体育館でやったら大顰蹙ものだ。
詩乃は、本や雑誌と一緒に床に落ちていた眼鏡を拾い上げた。
体育館は、ダンスパーティーのために外装も内装も飾り付けられ、四時を過ぎると、料理部が作った、パンやクッキーを皿にしたフィンガーフードや、学校が用意したドリンクバーが館内に運ばれてくる。壇上では軽音楽部が、楽器やアンプなど、演奏機器の準備をはじめる。
その頃になると、ステージ横に集まり始めた管弦楽部やジャズ研や、召集された吹奏楽部の面々が、ヴァイオリン、ハーモニカ、アコーディオン、ベル、カスタネットなどでクリスマスソングを協奏する。その演奏に合わせて、一足先に踊り出す生徒もちらほら出てくる。
詩乃と柚子は、保健室前の〈中庭〉と呼ばれている場所で待ち合わせをした。手入れをされた芝生に、丸い形の低木。低木の茂みを背に木製のベンチがいくつか設置され、街灯が幾本か立っている。夕方になるとそこは影絵のような美しいシルエットを作り出す。
ちょうど、詩乃と柚子が待ち合わせたのはその、夕方の時間だった。
四時半過ぎ、柚子がやってくるのを、詩乃はベンチに座って待っていた。制服のYシャツに学校指定の茶のセーターと、灰色ズボン。それに、上だけはネイビージャケットを合わせて着てきた。
詩乃がベンチにやってきてから十分ほどすると、柚子が体育館の方からやってきた。柚子は、フリル付きの黒ブラウスに、黒灰チェックのスカートを穿いている。そのスカートが制服だと、詩乃は最初気づかなかった。ブラウスとスカートのコーディネートが、あまりにも完成されている。
「ごめん、ごめん、寒かったでしょ」
と、柚子はベンチから立ち上がった詩乃に駆け寄って、詩乃の両手を包み込んだ。
やっぱり新見さんは優しいなと、詩乃は思った。コートを部室に置いたまま、勝手に早く来て寒がっていた自分を、当たり前のように労わってくれる。
「ブラウス、すごく似合ってる」
詩乃は、できる男を装って、そう言った。
「ホント!? ありがと!」
柚子はそう言うと、無邪気に喜んだ。
柚子はお返しとばかりに、詩乃の服装をベタ褒めした。
やっぱりこういうやりとりは苦手だなと思いながら、詩乃は柚子の言葉を受け取った。それから詩乃は、柚子に手を差し出して言った。
「行こうか」
柚子は詩乃の手を握った。
そうして二人は、手を繋いで体育館に入った。
体育館では、すでに軽音楽部のバンド演奏が始まっていた。生徒たちは、ジュースの入った透明カップを片手に、わいわい好き好きに盛り上がっている。体育館の所々には、背丈ほどのクリスマスツリーが飾られ、壁際には、椅子もたくさん用意されている。
生徒たちは、詩乃や柚子の様に、下は制服、上は私服という組み合わせが多かった。しかし中には完璧にドレスアップしている女子生徒や、ファッション部の作った奇抜な衣装を着て参加しているペアもいた。社交ダンス部などは髪までビシっとセットしている。運動部の中には、各部のユニフォームを着て会場入りしたウケ狙いもいる。
そんな中にあって、柚子はやはり目立つと、詩乃は思った。柚子は、体育館に入ったそばから、声をかけられた。柚子は誰に話しかけられても、一言二言必ず笑顔で言葉を交わした。柚子の社交力は、詩乃から見ると怖くもあった。
柚子が知り合いと話している時、詩乃は、俯いているしかない。柚子の友人に、興味がある振りをして、その会話の輪に入ろうとは、詩乃は思わなかった。
外国の映画で、同じようにしていた男の子が、女の子から「今のあの態度は何なの」と怒られているシーンがあったのを詩乃は思い出した。新見さんは、自分の態度について、厳しく非難することは無いだろうけど、内心、自分に怒っているかもしれないと詩乃は微かに考えた。もっと悪ければ、自分の他人と打ち解けようとしない子供っぽさに呆れられているかもしれない。
ダンスだけ練習してもダメだなと、詩乃はそんな事を想って、一人で落ち込んだ。
軽音楽部のバンドが舞台から降り、部を跨いで結成されたクリスマス編成のオーケストラがステージに上がった。体育館のライトの光量がさらに落とされ、スポットライトが、ホールの数か所に光の輪っかを作る。
いよいよダンスが始まると、生徒たちもジュースを飲み干して、コップをごみ箱に捨て始める。
「一曲目は、〈茶ノ原高校のワルツ〉だよ」
早くも詩乃の手を取りながら、柚子が言った。
手を握ると、柚子は、詩乃の緊張がわかった。柚子は詩乃の手を少し強く握って、詩乃の耳元で言った。
「水上君と踊れるの、楽しみ」
そんな言葉を、吐息が耳にかかる距離で言われ、詩乃は、理性が飛ぶかと思った。
同じことを、他に誰もいないと所――部室や自分の部屋でされたら、自分はきっと、どうにかなっていたと詩乃は思った。




