Fire-Taps(7)
十二月第三週、クリスマスを翌週に控えた木曜日。
詩乃は放課後、学校の体育着の入った袋を待って、学校近くのスポーツジムに来ていた。
部誌は今週頭に五十冊の製本を終えて、校内で売り出しも始めた。短編三つで四万文字ほど。値段は三百円で、すでに二年A組を中心に売れ始めている。文学賞をとって出版が決まった短編の方も、一回目の改稿作業を終えて、担当編集者からの最終改稿依頼を待つのみとなった。
そうしてやることが片付いてしまうと、詩乃の心はぽかんと、空虚になった。それは、作家としては無気力な状態だったが、その精神的な余白は、ある意味では余裕とも言えた。文章を考えたり、物語の構想を練っている時には――つまり普段の詩乃は、持っている精神的パワーのほとんどをそれに費やしているので、余力という点で言うと、今の詩乃には随分と「余力」があった。
その余力が、詩乃をジムへと駆り立てたのだ。
しかし、自転車をジムの駐輪場に置いてはみたものの、詩乃はその自動ドアの前に立つ踏ん切りが、なかなかつかなかった。黒と赤のいかにもスタイリッシュな外装のその建物を前に、詩乃はかれこれ三十分ほど、入るのを躊躇って、うろうろと、通りを言ったり来たりしていた。
詩乃の躊躇いは、気恥ずかしさから来るものだった。少し前まで理容室やデパートのファッションフロアに入るときも、同じ恥ずかしさを詩乃は感じていた。
やっぱり帰ろうかなと、詩乃は思った。
そのうち、駐車場に黒いレクサスが入ってきて止まり、そこから働き盛りといった年齢の男が降りてきた。サングラスをつけたスーツ姿。その男がボストンバックをかかげて、我が物顔でジムに入っていく。
それを見て、詩乃は妙に腹が立った。高級車に乗っているのがそんなに偉いのか、金を稼いでいることがそんなに偉いのかと思った。
詩乃は、勇気と言うよりは怒りの力を借りて、やっとジムに入った。
黒系色でデザインされたゴム床と白い壁。自動ドアを入った正面の受付は、ちょっととしたカフェカウンターのようになっている。受付の若く見える女性は、挨拶の後、愛嬌のあるフレンドリーな笑顔を詩乃に向けて訊ねた。
「茶ノ原高校の学生さんですよね?」
「あ、はい」
「学生証の提示お願いします」
詩乃は言われるままに、財布から学生証を出してカウンターに置いた。女性は、学生証をバーコードをリーダーで読み取り、詩乃に学生証を返した。
「初めてのご利用ですね」
「はい」
ぼんやりと、詩乃は応えた。
「――このジム、茶ノ原高校さんと提携しているんですよ」
「あ、そうなんですか?」
「はい。茶ノ原高校に在学中の生徒さんは、利用料金は無料となります。パーソナルをご希望の場合はプランによってパーソナル料が発生しますが、それも、茶ノ原高校の生徒さんは通常の半額となります」
パーソナルとは何の事か詩乃にはさっぱりわからなかったが、詩乃はとりあえず頷いて、更衣室へと向かった。そこで制服から体育着の、学校指定のジャージに着替えた。
広いトレーニングルームには、色々な器具が置いてあった。そのいくつかは、詩乃にもその用途が分かったが、大抵のものは、何のための器具かわからず、これは一体何の拷問器具だろうかと詩乃は考える始末だった。
ガッシャン、ガッシャンと、金属のいかにも重たそうな音がクラシカルなBGMの間に響き、ランニングマシーンで走るランナーの足音と走行ベルトの摩擦音が一定のリズムを刻んで聞こえてくる。
トレーニングルームには十人ほどが、それぞれにトレーニングをしていた。暖房のためなのか、それともトレーニングの熱気のせいなのか、皆半袖のシャツに下はハーフパンツかジャージという格好をしている。
自分の、学校ジャージ上下という格好は場違いだったかなと詩乃は思ったが、特に変な目を向けられはしなかったので、まぁいいかと、恰好のことは気にしないことにした。
しかし、詩乃が思っていたほど、誰もが筋骨隆々というわけではなかった。トレーニングをしているうちの二人ほどは、筋肉の形がはっきりわかるほどの、圧倒的な筋肉美を持ったトレーニーだったが、あとは、さほどでもない。
詩乃はひとまず、三角形のダンベルラックからダンベルを持ち上げた。五キログラム。詩乃にはそこそこ重かった。しかし、ダンベルを握ってみても、ただ持ち上げる以外の使い道が良くわからない。しかし他の器具の使い方は、もっとよくわからない。
詩乃が、ベンチに座って静かに途方に暮れていると、そこへ、ラフな白シャツにハーフパンツ姿の男がやってきて、詩乃に声をかけた。
「水上じゃん、何やってんの」
声の主は、川野だった。
詩乃は、「あっ」と言ったきり、固まった。
詩乃からすると、どうして川野がここに居るのだと思った。そうして何より、どうして自分に声をかけてきたのかと。
詩乃は、川野の片想いに終止符を打ったのが自分であると、その自覚はしていた。今年の夏の花火大会や、そして文化祭の時、詩乃と川野は恋敵だった。
そうして今、詩乃はその勝負の勝者であり、川野は敗者だった。そんな川野に、自分はどんな顔をすればいいのか、詩乃はわからなかった。
「お前、筋トレとかやるの?」
「……」
詩乃は俯いた。
川野は、詩乃の引っ込み思案な様子を笑い飛ばした。
「なんだよ、彼女に、筋肉あった方が良いとか言われたんだろ」
「言われては無いよ」
詩乃はその点だけは反論した。
新見さんには、決して何も言われていない。髪型の事も、服の事も、そして筋肉の事も。
詩乃は、柚子が自分に、そういった外面的な格好良さを求めていないのは知っていた。もし新見さんがそれを求めていたなら、はなから自分なんかとは付き合わなかっただろう。それこそ、川野君の方が、見てくれは男らしい。鍛えられた腿周りに、腕に、がっしりした大胸筋。男の胸板という感じだ。
「じゃあなんだよ。――お前絶対運動とかできないタイプだろ」
「できないわけじゃないけど……」
そこも、小さく詩乃は否定する。
小学生の頃は、鬼ごっこもかくれんぼも、むしろ得意だった。運動が嫌いなわけでは無い。マット運動や水泳は苦手だったが、リレーや跳び箱はヨーちゃんと競い合うくらいで、鉄棒も、空中逆上がりや前回りくらいは、遊びの中で覚えられた。
しかし詩乃は、今ここで片意地を張ってもしょうがないと思い直し、川野が自分に抱いている〈文学少年〉のステレオタイプに収まることにした。
「ジムは初めてなんだよ」
ぽつりと、詩乃は告白した。
「だろうな」
川野は、笑いながら応え、それから詩乃に訊いた。
「何、どこ鍛えたいの?」
「え……」
「だから、どこの筋肉だよ、鍛えたいの」
「いや、特に……考えてなかった」
「なんだよそれ」
川野はそう言うと、詩乃の持っているダンベルより遥かに重いダンベルを二つ、ラックから選んで持ち上げた。
「じゃあ真似しろ。コツ教えてやるから」
川野はそう言うと、詩乃の向かいのベンチに座り、両手のダンベルを腰から肩の上に、手を返しながら持ち上げた。そこで一回動きを止め、それから、頭の上に肘を伸ばしながら、ダンベルを押し上げた。そうしてそのバンザイをしている姿勢から、今度は逆の順序で、ダンベルをもとの位置に戻す。
詩乃も、川野の後に続いて、同じようにした。
「ゆっくりやれ、ゆっくり」
二度、三度と詩乃は川野に倣って同じ動作を繰り返す。一回ずつ川野は、詩乃にアドバイスを与えた。詩乃はそれを聞きながら動いた。「反動付けるな」だとか、「丁寧に」だとか、川野の口調は乱暴だったが、ふざけて教えている風でもない。一体どういうつもりだろうかと、詩乃は不思議に思った。
その動作――キューバンプレスの一セットを終えて、早くも詩乃の筋肉は悲鳴を上げていた。腕を動かしていただけなのに、全身から汗が吹き出し、体の中から熱が沸いてくる。
「キツイよ……」
詩乃が言うと、川野は笑った。
汗が眼鏡にかかったのを見て、川野が言った。
「お前眼鏡とれよ」
詩乃は、川野の言いなりに眼鏡をはずして、見学用ベンチの上に置いた。そうして詩乃が戻ってくると、川野は「じゃあ次はこれやろうぜ」と、詩乃を次の種目に誘った。
そうして二人で、バーベルを使ったスクワットやプルダウンマシン、ロータリートーソというわき腹を鍛えるマシンなど回った。何種目かやって、詩乃は最後に、EZバーを使った筋トレを行った。ベンチに仰向けになり、両手に握ったEZバーを額の上に向かって持ち上げ、下ろす。何度かそれを繰りかえし、「まだいける、まだいける」と川野に煽られながら、目標よりも三回多く、そのバーを持ち上げた。
バーを持ち上げたのはたった十回ちょっとだったが、詩乃は筋肉の疲労に打ちのめされて、ベンチから転げ落ち、ゴムの床に蹲った。詩乃がイモムシのようになっているのを見て、川野は声を出して笑った。
「イージーバーなんて、全然、イージーじゃないじゃん……」
詩乃がそう言うと、川野はまた笑った。
詩乃は、自販機で買ったスポーツドリンクを飲み、脱いだジャージで汗を拭った。
「お前ホントに続けんの?」
「筋トレ?」
「うん」
詩乃は息をついた。
たぶん、無理だと思った。
負荷は自分でコントロールにできるにせよ、自分は、これは好きではない。この好きでもないことを何日も、何週間も、一か月、半年、それ以上続けられるわけがない。
「無理だろ」
川野はそう言って、自分を見上げる詩乃から視線を逸らせた。唇を結び、苦い顔をする。その胸に一物あるのは、詩乃にもわかった。川野はやがて、ごく小さな舌打ちをしながら口を開き、へらへらした笑みを浮かべながら言った。
「お前そういうんじゃないだろ。そこで勝負すんなよ」
そう言われて、詩乃も川野に釣られて笑った。そんなことを、川野から言われているこの状況が、何とも可笑しかった。
「うーん、そうなんだけどね……」
詩乃はジャージで汗を拭い、ペタンと床に座った。
「彼女に恥をかかせるのって、どうなのかなと思って」
「はぁ?」
川野は、いらいらしたような声で聞き返した。詩乃は、弱弱しく笑った。川野は、今度ははっきり聞こえる舌打ちをした。
「――なんでお前なんだよ、マジでさぁ……。お前じゃ釣り合うわけねぇじゃん」
「うん……」
「筋肉付けたくらいでさぁ、何になんだよ。あぁ、ウゼェ」
川野はそう言うと、ぐん、ぐんと、手慰みの代わりにダンベルを持ち上げた。陰キャの文系男子に好きな子を奪われたというので、川野は野球部では随分とからかわれた。その鬱憤を、ダンベルを握る手で握り潰そうとした。詩乃と話していると、川野は無性にいら立ちが募るのだった。
「お前彼氏なんだろ」
不貞腐れたような強い口調で、川野は詩乃に言った。
詩乃はドキリとした。
川野は大きなため息をついて立ち上がった。
「俺まだトレーニングするから」
「あぁ、うん……」
詩乃は立ち上がろうとして、やめた。腕にも脚にも、まだ力が入らなかった。
川野は、そんな詩乃の様子を見ると、一言言いたくなった。
「お前さ――」
川野は張りのある声でそう言うと、言葉を止め、頭を掻いた。
何を言われるのだろうと、詩乃は川野の言葉を待った。そうして一言、
「振られちまえ!」
と、川野はそんな捨て台詞を残し、詩乃に背を向けて、部屋の奥にあるトレーニングマシンへと歩いて行った。詩乃は、あんまりな川野の言葉に唖然としたが、その驚きが過ぎ去ると、可笑しさが込み上げてきた。
詩乃はその後、怠い身体を持ち上げて制服に着替え、川野より一足か二足早くジムを出た。十二月の夕方は暗く、寒かった。自転車で横切るコンビニや飲食店は、すっかりクリスマスモードで、赤い飾り看板やのぼりが出されている。
赤信号で止まった時、詩乃は不意に柚子の事を思い出し、スマホをバックから引っ張り出した。新見さんのあの暖かい声が聞きたいな、と思った。しかし、柚子の事を考えると、来週に待ち構えているイベントを思い出し、気が重くなる。
来週、クリスマスとクリスマス・イブは茶ノ原高校のダンスパーティーがあり、翌日二十五日は、二人で水族館に出かける。そのことを考えると、詩乃は楽しみよりも、日に日に憂鬱の気分が勝る様になっていた。
信号が青になり、詩乃はスマホをバックにしまった。




