Fire-Taps(6)
目を開けて、詩乃は柚子を見た。柚子は、不思議そうな顔をしていた。
あぁ、自分は何をしているのだろうと思った。
「あの、ええと……」
詩乃はしどろもどろに、話題を探した。
そうしているうちに、ピアノの横に、メリーポピンズのような恰好をした歌手が出て来た。
歌手は、優しい、語り掛けるような声で歌い始めた。
――〈Feed the birds〉。
詩乃の瞼の裏に、映画のワンシーンが、ありありと浮かび上がった。
大聖堂の周りを飛び回る鳩たち。
階段の下には餌売りの老婆が、鳩に餌を、鳩に餌をと、人々に呼びかけている。誰にも見向きもされない、灰色のボロを着た汚らしい老婆。ハトの糞が模様になっている。鳩は老婆にまとわりつき、そのぼさぼさの髪の毛を、鳥の巣のようにしている。鳩なんかに餌をやって何になるのか、白い目を向けられて。
けれど、老婆の目は穏やかだった。老婆の目には、一体何が映っていたのだろうか。
その眼差しは、病室の、ベッドの上の母の眼差しとよく似ていた。
母も、あれは、鳩を見ていたのかもしれない。母は鳥が好きだった。鳥が――。
詩乃は眼鏡をはずしてテーブルに置いた。そして、感情をこらえきれず、その閉じた瞼の隙間から、ぽろぽろと涙を流し始めた。
その、鼻をすする音で、柚子は、詩乃が泣いているのに気が付いた。
悔し泣きでも、痛みのための涙でもないそんな男の人の涙を、柚子はこれまで見たことが無かった。歌の間、詩乃は、目を開けられなかった。言葉も無かった。何かを言おうとすれば、嗚咽になってしまうと思った。
歌が終わり、詩乃は涙を拭いた。
恥ずかしさでいっぱいだった。新見さんになんてみっともない所を見せてしまったのだろうと思った。夕食のデートの席で、女の子を放って一人でめそめそ泣いてしまうなんて、自分はなんて情けない彼氏なのだろう。
「――いい……いい曲なんだよ。好きで」
詩乃は眼鏡をかけなおしながら、それだけを何とか口にした。
柚子は、何と答えて良いのかわからず、「うん、良い曲だね」と言って頷くしかなかった。そんなことしか言えない自分を、柚子も柚子で情けなく思った。柚子も、こういう時に、どう声をかけて良いのか、どういう態度をしたら良いのか、わからなかった。
その後は、詩乃が泣いたことは無かったことにして、二人は食事を続けた。
会話は、いつまでも無かったわけではなかった。しかし、涙を流した後の詩乃の態度は余所余所しく、笑顔は口元だけの作り笑いになった。柚子はそれにも気づかない振りをして、声のトーンは半音上がった。そうして、いつもなら何ともないちょっとした沈黙を、二人は怖がるようになっていた。
柚子は次から次に話題を探し、詩乃も、柚子の出した話題に付いていった。
今日は新見さんの誕生日。だから、楽しんで帰ってもらいたい。失敗はしたけれど、彼氏らしく振舞って、ちゃんと新見さんを、ここに来て良かったと思わせないと。詩乃はそう思って、自分が泣いてしまった事で作った気まずさを何とかしようとした。柚子の出した話題には興味を持ち、そして、何にでも大袈裟にリアクションを取った。詩乃はまだ記憶に新しい、瑛斗の振る舞いを真似た。
他のテーブルから見れば、二人は、若くて元気な高校生カップルだった。喧嘩もなく、沈黙もなく、仲が良いのね、と。
店を出た後、別れ際に、詩乃はプレゼントを柚子に渡した。イヴ・サンローランの黒い紙袋。柚子は喜んだが、詩乃は、奥歯を噛んだ。
新見さんを困らせないプレゼント。
新見さんは喜んでくれている。たぶんこれで、合格なのだ。彼氏として落第点を取らなければいい。しかし詩乃は、本当は、ダイヤと三つのリングの重なった、あのネックレスをあげたかったなと思った。
だけどあれは、困らせるプレゼントだ。喜ぶよりは、困惑するだろう。高校生の身分と、その一般的な経済力の範疇を遥かに超えた贈り物。怖がられるかもしれない。
だからこれで良かったのだと、詩乃は、喜ぶ柚子を見ながら、自分に言い聞かせた。本当はこうしたかった、という思いは、奥歯で噛んで潰す。
別れ際、「またお出かけしようね」と、柚子は詩乃にそう言った。その言葉は、詩乃の心に重くのしかかった。帰りの電車の中、一人になった詩乃は、椅子に沈みながら、重い息を吐いた。それから眼鏡をはずし、こめかみ周りを揉み解した。
自分はやっぱり、彼氏というものに向いていないのではないかと詩乃は考え始めていた。
柚子の誕生日を祝った翌日から、二年A組ではまた、柚子と詩乃の二人は注目を集めることになった。クラスの女子の殆どは、柚子が、詩乃に誕生日の夜を祝ってもらったことを知っていた。
女子の間では今や詩乃は、〈柚子の彼氏〉という特別な階級に収まっていた。他クラスに幾人かいる、柚子に女としての対抗心を燃やす女子生徒は、柚子を貶める目的で詩乃を馬鹿にしていたが、A組で詩乃の立場が確立すると、柚子に敵対心を持った女子生徒も、大っぴらにその対抗心を安易に口に出せなくなった。
「いいなぁ、柚子。私もそんな風に祝われたい。レストラン予約してもらって、二人でディナーなんて」
「いいよねぇ。水上君、わかってるよねぇ」
「プレゼントがリップクリームっていうのも、なんか、良いよね!」
昼休みになると、柚子を囲んだ女子生徒たちが、口々に言った。柚子も、詩乃が褒められると嬉しくなって、頬を染めて照れ笑いを返した。しかし柚子は、どんなにせがまれても、詩乃がレストランで涙を流したことだけは、誰にも話さなかった。
一方で男子生徒は、柚子と詩乃が上手くいっているのを、面白くは思っていなかった。二人が別れたからといって柚子が他の誰かに――自分に靡くと本気で思っている生徒はいなかったが、それはそれとして、柚子が誰かのモノだということに、男の持っている支配欲や狩猟性が煽られるのだった。
とはいえ、男子も教室では、詩乃に無礼なちょっかいをかけることはできなかった。柚子の目というより、女子の目を恐れていた。もし、詩乃をおちょくったり冷やかしたりしたら、女子から総スカンを食らってしまう。
「お前らどこまでいってんの。キスした? なぁ、やっぱり違うの、新見さんって二人の時は――」
そんな質問を詩乃にした男子は、詩乃が苦い顔をして答えあぐねている間に、詩乃の近くの席の女子に「うわ、サイテー」「キモッ」などと散々罵られた挙句、最後には、「モテないからってダサ」と言われ撃沈していた。それを見た男子生徒はそれ以降、詩乃に、そう言った類の絡み方をしなくなった。
しかし、男子が詩乃をからかわなくなった代わりに、女子生徒が詩乃に、時には男子生徒の詩乃への軽口を利用しながら、話しかけるようになった。皆、柚子のことが気になるのは男子も女子も同じだった。
詩乃も、節度を持って話しかけられれば、それを無視はしなかった。しかし詩乃は、何か質問されたり、意見を求められると、誠実にそれに答えようとするので、言葉と言葉の間には、衛星中継のような間が生じてしまう。
おまけに、詩乃の言うことは、柚子以外の生徒には難解すぎた。突然動物の生態について話し始めたり、民話や古典の言葉を引用したりする。詩乃は、明確なロジックを持って話しているつもりだったが、ほとんどの場合、詩乃の言葉の後には、何とも言えない「微妙な空気」というものが流れた。皆、普通の会話の時の様に、「それわかる!」だとか、「マジそれ!」だとかいった共感の言葉を、詩乃にはかけられなかった。
詩乃は、結果的に珍獣扱いされてゆくそういったやり取りに嫌気がさして、教室でも眼鏡かけるようになった。それはそれで最初の二日ほどは騒がれたが、それを過ぎると、眼鏡の詩乃に話しかけるクラスメイトは少なくなった。
この頃になると、詩乃は、目の前に何かがあるという眼鏡の鬱陶しさにも慣れて来て、その遮蔽性に頼ることへ躊躇いを、だんだんと感じないようになってきていた。
「水上、ちゃんと彼氏できてんの?」
紗枝が柚子にそう訊ねたのは、水曜日の六限、ダンスの授業だった。
柚子の誕生日から一週間が経っている。
「え? うん、うん……」
ちょうど休憩中で、柚子はタオルで首の汗を拭いて、水分を補給している所だった。赤い蓋に半透明のグレーボトルのプロテインシェイカー。体育の授業やダンス部の活動中は、柚子はそのシェイカーを使っていた。入っているのはプロテインではなく、水にブドウ糖、塩、レモン顆粒を混ぜ合わせた柚子手製のハイポトニック飲料である。
シェイカーの細口から飲料をぐいっと飲む柚子の姿は、一見男っぽく、それが柚子の容姿もあいまって、スポーツウェアのCMにでてくるモデルを彷彿とさせる。しかし紗枝は、柚子のスポーティーさには騙されなかった。その胸に何か悩みがあるのを、紗枝は何となく気づいていた。
個人ダンスのグループ練習の後なので、詩乃は長座の体勢に後ろに手をついて休んでいる。
柚子はそんな詩乃を、複雑な感情を宿した目で見つめている。
「何かあったの?」
紗枝は、柚子に聞いた。追及するほど強くはないが、誤魔化せるほど弱くもない。そんな紗枝の聞き方は、柚子をいつも素直にさせた。
「うーん、どうって程の事でもないと思うんだけど……」
そう前置きしてから、柚子が言った。
「なんか最近、水上君、優しいなぁーって」
「え?」
「いいんだけど、なんか……」
柚子は、自分の中にある感情を言葉にできず、口を噤んだ。
「――いや、誰も水上の事、盗ろうなんてしてないって」
紗枝が言った。
柚子と付き合うようになってから、詩乃は女子にも話しかけられるようになった。さっきのダンスのグループ練習でも、グループの女子や、そのグループの指導役をしているチアリーディング部の女子生徒と、一言以上のやりとりをしていた。
それが柚子の嫉妬心を煽ったのだろうかと、紗枝は思った。
「水上も、ちょっとは社交性が付いたってことじゃない? いいことよ」
「うーん……そうなんだけど」
どうしたのよ柚子、そんなにうじうじしてと、紗枝は思った。二年に上がって、水上という存在が柚子の中に現れてから、柚子はやっぱり変わった。色々な笑顔は見せても、人前でボロボロ泣いたり、拗ねたりするような子ではなかった。
調子狂うなぁと思いながら、紗枝は柚子の肩を叩いた。
「ペアダンス、行ってきなよ」
紗枝が言った。
このあとの十五分は、ペアダンスの時間になる。さっきまでの個人ダンスのグループの中でペアを作るのが基本だが、柚子は、ダンスの授業では指導役の一人で、しかも役回りとしては、各グループを教えている指導役の生徒の統括である。三つのグループを順に周りながら、指導役の生徒をサポートする。そのため柚子は、やろうと思えば、個人練習の名目で、ずっと詩乃を独占していても役職上構わない。
さすがにそんなこと、柚子がしないのは紗枝も知っていたが、一曲分くらい柚子が、その職権を使って詩乃と踊っても、誰も文句は言わないだろう。それに詩乃は、転校生だから他の生徒程ダンスがまだ上手くない。柚子が詩乃を教える正当性も充分にある。
「水上君が嫌がるよ」
「まぁ……」
紗枝も、そのことについては否定はしなかった。
教室でも、柚子が詩乃と朝の挨拶を交わしただけで、クラスメイトの表情がにやつく。そういった反応が積み重なってできる独特の空気を詩乃が嫌がっているということは、紗枝の想像にも難くなかった。
それがダンスの授業中、柚子が詩乃を指名して、手取り足取り個人レッスンをし始めたら、周りはどういう反応をするか。詩乃はどういう感情になるか、それを見て見ぬ振りをして、面白いからと柚子にそれを勧めるような無責任は、紗枝にはできなかった。
柚子もそれを気にして、文化祭以降のダンスの授業では、詩乃とペアを組まなくなっていた。付き合う前は、授業中でも柚子の方からぐいぐい詩乃にアプローチをかけて、よくペアで踊っていたが、その時は誰も二人の仲を怪しんですらいなかったので、かえって自由があった。
「――でもさ、水上も、慣れなくちゃダメだと思うよ」
紗枝は、柚子にそう言った。
女同士でどこかへ出かけて、柚子だけがやたらと視線を集めたり、場所によってはナンパ男や芸能事務所のスカウトの声がかかるなんてことは、日常茶飯事だ。柚子が目立つことを受け入れられなければ、男でも女でも、柚子の隣にはいられない。
「千代じゃないけどさ、〈彼氏〉に育てるのもいいんじゃない」
「えぇ……」
「引かないでよ」
「ごめんごめん。でも、どっちかって言うと、私がなりたいかなぁ」
「何に?」
「水上君の理想の彼女に、調教してもらいたい……」
ぶふっと、紗枝は噴き出した。
それで柚子も、自分がとんだ言い間違いをしてしまった事に気づいた。
「違う違う、教育! 教育ね!」
「どっちにしてもでしょ、柚子、おかしいよ!」
けらけらと紗枝は笑った。
柚子も、顔を真っ赤にしながら笑い、紗枝の肩を軽く叩いた。
そこへ、話題の当人である詩乃が、二人のもとにやってきた。柚子も紗枝も驚いて息を呑み、詩乃の顔色を覗う。しかし詩乃は、眼鏡をかけていて、柚子もその感情を掴むことができなかった。
無表情ではない。頬が適度に緩んだ穏やか微笑を浮かべている。
紗枝は、久しぶりに詩乃の顔を間近で見て、少し見直してしまった。
前までとは違って、随分余裕がある様に見える。
「新見さん、ペアダンス、教えてほしいんだけど、いい?」
堂々とした詩乃の誘いに、紗枝も、周りで二人の様子を見ていた数名の女子生徒も、口元に手をやった。男子生徒は、ぽかんと口を開けていた。
「う、うん。いいよ」
柚子は、頬を染めながら、詩乃の手を取った。




