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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
2,それでも息はできるから
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Fire-Taps(5)

 ダンス部の練習の後、柚子はシャワールームで汗を洗い流して、制服に着替えると、文芸部の部室にやってきた。トレンチコートに赤いマフラー。シャワーを浴びた後で、髪も肌も、つやつやしている。


 部室で、文芸賞をとった短編小説の改稿作業を進めていた詩乃は、しかし柚子がやってくると、すぐにワープロソフトのデータを保存して、デスクチェアーから立ち上がった。部室に入ってきた柚子の姿を見て、詩乃はいよいよ緊張してくるのだった。


 詩乃にとっては、初めて自分が仕切るデートである。


 今日は、新見さんをエスコートしなくてはいけない。ひと月かけて、その心の準備はしてきた。しかしいざ、柚子を前にすると、詩乃の作り上げてきた自信は、崩れてしまいそうになった。


 そこで詩乃は、机の上に置いておいた眼鏡をかけた。


 たったレンズ一枚でも、その透明のレンズのあるのと無いのとでは、安心感が違う。


 詩乃は制服のジャケットを脱いで椅子に掛け、ハンガーに吊るしておいたテーラードジャケットを着た。制服ズボンの灰色に合わせたネイビーブルー。これも、柚子の前では初めて着るジャケットだった。


 その上からロングコートを着る。


「行こうか」


 詩乃は、ぎこちないレディーファーストで、柚子のために部屋の扉を開けた。


 詩乃のエスコートに、柚子は早くもドキドキしてしまうのだった。


 学校から日暮里の駅まで歩き、そこから電車で銀座に向かう。


 詩乃が予約をしていたのは、銀座の駅近くにあるレストランだった。三階建て、外装は二十世紀初頭のイギリス、中流家庭らしい佇まいである。〈メリーポピンズ〉をモチーフにしている店で、店の名前も〈East Wind Restaurant〉という。


「へぇ、ここ!? すごく良さそうなお店だね。雰囲気いいね」


 店の前にやってくると、柚子はそう言って、跳び跳ねんばかりに喜んだ。


 店の中に入り、詩乃も、確かに良いレストランだと思った。外装だけでなく、内装も素晴らしい。メリーポピンズの〈バンクス家〉に比べれば、若干、シャンデリアがあるなど、小さい部分でやや豪華すぎる感じもあったが、そこまで原作にうるさくなければ、英国の雰囲気を十分に楽しめる。


 受付カウンターの男性従業員は、燕尾服を着ていた。


「ようこそお越しくださいました。ご予約の水上様でございますね。どうぞこちらへ」


 燕尾服の男性店員の案内で、二人は予約席に着いた。


 二人の席は暖炉の前、オレンジ色の四角い絨毯が敷かれた談話スペースの正面席だった。白いテーブルクロスがびしっと敷かれた丸いテーブル。テーブルの上には〈RESERVED〉の文字の書かれた青いプレートが二人を待っていた。それを見て詩乃は、自分で予約をしておきながら、その特別な待遇に恐縮してしまった。


 二人は、男性店員にコートを預け、背もたれの広いゆったりとした椅子に、向かい合って座った。燕尾服の男性がテーブルを離れると、詩乃は、静かにほっと溜息をついた。


「私、こういう雰囲気、すごく好き!」


 柚子はそう言って詩乃を見つめ、それから言葉を付け足した。


「水上君、ありがと」


「うん……」


「えへへへ……」


 柚子に笑顔を向けられると、詩乃は、新見さんを支配したいという欲望に駆られた。その、獣のような感情を詩乃は恥じて、顔をくしゃりと萎めた。


 程なく、今度はメイド衣装の女性給仕がやってきた。水色に白のストライプワンピース、白エプロンに手袋。両手で持っている銀のトレイには、赤い液体の入ったガラスのボトルと、ワイングラスが二つ乗っかっている。見るからにワインだが、中身は葡萄ジュースである。


 二人の前にワイングラスが置かれ、メイド衣装の女性店員はその場で葡萄ジュースのコルクを開けると、二人のグラスにその綺麗なバラ色の液体を注いだ。それから、今日のコースの説明を軽くして、それが終わる頃に、別のメイドが、今度は料理を持ってやってきた。


 目の覚めるような真っ赤なチーズフォンデュ鍋、ボイルされた野菜が敷き詰められた、春の庭園を思わせる大皿、ピクニックに持っていくようなバスケットに入った一口大のパン、生ハムとサーモンにオニオンドレッシングのカルパッチョ。そして最後に、二股のフォンデュフォークが二人の取り皿の前に置かれた。


「お楽しみくださいませ」


 メイドは慎みのある笑みでそう言って、テーブルを離れていった。


「美味しそうだね」


「うん!」


「……食べようか」


「うん!」


 詩乃は、柚子の嬉しそうな表情、目の輝きに圧倒されてしまった。


 フォークのブロッコリーをチーズにからめる柚子を見ながら、詩乃は改めて、どうして自分が新見さんに魅力を感じるのかを思い知らされていた。ただ顔が可愛いとか、綺麗とか、スタイルが良いとか、そういうことだけではない。


 新見さんは、いつもストレートなのだ。教室や、他の友達グループの中ではどうか知らないが、自分の前にいる新見さんは、いつも、感情そのままが表情に出て、それがそのまま、言葉にも表れる。だから自分は、いつも吞み込まれてしまいそうになる。どうしてそんなに無防備でいられるのだろうかと、不安にさえなってくる。だから絶対に、この子は裏切れないと思う。


「メリーポピンズは知ってた?」


「うん、名前だけだけど」


「そっか」


「どんなお話なの? ディズニーだよね?」


「うん。あ、原作は違うけど、まぁ、うん……」


 詩乃はチーズに絡めたプチトマトを口に入れた。


 新見さんに、メリーポピンズの話をしようかなと、詩乃は思った。しかし詩乃は、物語を解説したりするのは、得意ではなかった。物語だけではない。いつも何かを説明するときには、ちゃんとその順序や、全体の構成を決めて口を開く。


 それなのにどういうわけか、口を開いて話し始めると、説明の本筋とは関係のないことまで話そうとしてしまう。そうして話しているうちに、自分の説明それ自体に対する疑問が生じて来て、それについて考え込んでしまう。そういう有様なので、どうにも他人に説明する、というのは詩乃は苦手だった。特に、思い入れがあればあるほどに。


「中学生の頃食べて以来だよ、チーズフォンデュ」


 柚子が言った。


「そうなの?」


「うん。お姉ちゃんの就職祝いの時。チーズフォンデュの鍋買ってきて」


「家でやったの?」


「うん。緊急事態宣言出てた時だったと思う」


「あぁ」


 そういえば、そんなこともあったなぁと、詩乃は思い出した。


 あの時は、学校も休みになったり、有名人が亡くなったりして、色々と大変だった。今もその影響は色々な所に傷跡を残している。そんなことが、そう遠くない昔にあった。当時の事の一つ一つを思い出すと、その時の記憶や感情が、どっと押し寄せてくる。


 今から三年前、四年前の出来事だ。随分昔のように感じる。思い出したくない過去は、そうやって、遠い昔にあったことのようにして忘れようとしてゆくものなのかなぁと、詩乃は思うのだった。


「今日のチーズフォンデュは、すごく美味しい。お店で食べたの初めて。よくこんなお店知ってたね」


「調べてたら、たまたま出てきたんだよ」


 たまたま――柚子は、そんな言葉を使った詩乃を愛おしく思った。


 きっと水上君のことだから、何となくぼうっと眺めていたら、という調べ方じゃないと、柚子には分かっていた。


 あのPCデスク周辺は、水上君の情熱だ。きっと水上君は、物語の一文を考えるのと同じようなつもりで、今日この店を、探し出してくれたに違いない。でも水上君は、そのことを言わない。ただ一言、「たまたま」なんて表現の仕方をする。きっと、私が受け取れていないメッセージが、このお店選びにもあるに違いない。


「メリーポピンズ、好きなの?」


 柚子の質問に、詩乃は口に入れかけたブロッコリーを止めた。


 何だろう、と柚子は思った。


 詩乃はブロッコリーをもう一度チーズ鍋の中に入れ、ぽこ、ぽこと、微かに泡立つマグマのようなチーズに視線を落とした。寂しそうな瞳に、微かに開きかけた唇。


 柚子は、詩乃の作る沈黙に、胸が締め付けられた。


 いつもの、空想している時の沈黙ではないのは、柚子にもわかった。


 やがて詩乃は、ぽつりと話した。


「……小学生の時に見たんだ、初めて。何回も見た」


 詩乃は、昔のことを思い出していた。


 小学生の頃の記憶は、詩乃は今でも鮮明に覚えている。楽しい記憶の方が多い。でもその楽しい記憶には、言い様のない寂しさが付きまとう。だから詩乃は、昔のことはできるだけ思い出さないようにしていた。それでもふと、映画を見たり、音楽を聞いたり、芸術作品に触れていると思い出すことがある。


 幸せだと感じながら過ごしていた頃の、家族の思い出を。


「そういう映画あるよね。私も、〈E.T.〉、すごく好きなの。……水上君、知ってる?」


「もちろん知ってるよ。スピルバーグの映画は、大体見たから。〈E.T.〉は傑作だよ」


「そうだよね! 〈E.T.〉って言っても、知らない人多かったから――」


「本当に良い映画だよ」


 詩乃はそう言って目を瞑った。


 良い映画について、語りたいことは、詩乃にはたくさんあった。どのシーンが良かったかや、映像に隠されたメッセージや、そういったことについて、詩乃は、柚子と話してみたかった。


 しかしいざ言葉にしようとすると、感情と言葉が頭の中でひどい渋滞を起こしてしまって、うまくゆかない。渋滞を解消するためには、どうしても時間がかかってしまう。新見さんは、この沈黙を許してくれるだろうかと、詩乃の思考はそのことをも考えて、より複雑になってゆく。


 一方柚子は、詩乃の秘密を一つ暴いたような気がして、そのことに小さな喜びを覚えていた。以前 詩乃は、クラスメイトと数名で囲んだ昼食の席で、映画について聞かれたとき、映画はあまり見ない、興味が無いというような事を言っていた。でもそれは、やっぱり嘘だった。柚子は薄々気づいていた。水上君が、映画を見ないわけがない。皆の前では、話さないだけなのだ。


 そして柚子は、皆の前で言わないことを、詩乃が、自分だけに打ち明けてくれているのが嬉しかった。こうして、ちょっとずつでも、水上君の事を知っていきたいと柚子は思った。


 少しすると、ピアノの生演奏が始まった。


 ピアノ奏者の弾き語り――英語そのままの歌詞で、映画の中の曲を歌う。


 愉快な砂糖とスプーン。早口言葉のような歌。レストランの他の客の顔にも笑顔が溢れる。柚子の笑顔を盗み見た詩乃は、ぎゅうっと胸を締め付けられるような思いがした。


 演奏はやがて、静かな曲へと移っていく。


 煙突掃除屋の歌。


 詩乃は目を閉じた。


 メロディーが流れると、映画のシーンだけでなく、この曲を聞いた頃の色々な思い出が蘇ってくる。小さなソファーに、母と二人座って、この映画を見た。メリーポピンズは、詩乃にとっては、母との思い出だった。


 でも今は、新見さんとのデート中だ。これ以上思い出の世界に浸っていてはいけない。新見さんと会話をして、新見さんを楽しませないといけない。だからこんな風に、一人で空想の世界に沈み込んでいる場合じゃない。


 それなのに――そうは思っても、詩乃の目は開かなかった。もう少し、もう一瞬だけでも、この音楽の世界に身をゆだねていたい。


 結局、曲が終わるまで詩乃は、目を瞑っていた。

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