ミズナギドリに東風(6)
「まぁ、水上の事はわからないわよ。変わりすぎてて、ねぇ千代」
「うーん、私まだ話したことないんだよね。話してみたいんだけどさ――」
千代はちらりと紗枝を見やった。
紗枝は微かに笑う。
決して「紹介してよ」とは言わない。二人の空間に入る無粋は、千代はしたいとは思わなかった。詩乃のことになると柚子は、普段の柚子からは想像もできないような独占欲を発揮するのを千代は知っている。早い話が、千代は、柚子にも詩乃にも、嫌われるようなことはしたくなかった。
「でもほら、男子って、そういう女子の付き合いとか、鬱陶しがるじゃない」
千代は、明るくそう言った。
あぁ、確かにそうかもしれないと、柚子は思った。特に水上君は、教室でも、誰かに話しかられるのは好きじゃなさそうだ。でも千代だったら、水上君は嫌がらないのではないだろうかと、柚子はそんな気もしていた。
「まぁ柚子、他の男が彼氏だったら私もあーだこーだ言えるんだけど、水上に関しては、本当にわからない。たぶん、柚子が一番の理解者だと思うよ」
「ありがと」
二人は優しいなぁと、柚子は思った。しかし二人の優しさに触れると、やはり思い出すのは、かつての友人たちの事だった。また同じようなことが繰り返されるかもしれないという恐怖が、柚子に疑心を生じさせ、柚子はそのことに無自覚ではいられなかった。自分が、千代や紗枝の向けてくれる友情を疑っている。そう思うと、柚子は自分の心臓の底の部分にだんだんとカビが生えて、どどめ色に腐っていっているように思えた。
「なんでちょっと落ち込んでるのよ、柚子!」
千代は、柚子に明るく言った。そうして、言葉を続けた。
「ダイジョブ、ダイジョブ、柚子は可愛いし、性格もいいんだから、多少何かあったって、水上君が離れるわけないよ。まだ付き合ったばっかなんだから、ほら、水上君は、慣れなてないこともあるだろうし、器用なタイプでもないんでしょ?」
「そうそう」
と、紗枝も同意を示す。
「――水上、女の子と付き合うの、初めてなんじゃないの?」
「あぁ……どうなんだろう。まだ聞いてないな」
「まぁ、それはあんまり、聞きたくはないよね。かなり気になるけど」
千代の発言に、紗枝はまた、「確かに」と同意する。
「でもねぇ柚子、あんまり遠慮しちゃダメだよ」
紗枝の言葉に、柚子ははっとして、紗枝の顔を見た。
私も千代も、柚子の味方なんだから――と、紗枝は続けたかったが、そこまでは言わずに、オレンジジュースで、出かかった言葉を押し込んだ。
たぶん、柚子のノーガードの心に踏み込んでいいのは、水上だけなんだろうと、紗枝は何となくそう感じていた。自分の場合は、柚子がガードを解いた瞬間、怖くなってしまう。柚子を、壊してしまうんじゃないかと思う。
「――さって、わったっしは、ケーキ、行こっかなぁ」
千代が、歌うようなリズムでそう言って席を立った。
「私も行こ」
「あ、私も行く!」
紗枝、柚子とそれに続いた。
デザートの並んだカウンターで、紗枝はケーキを選ぶ柚子の背中を眺めながら、きっと今はこれで良いのだと、自分に言い聞かせた。自分の役割はきっと、柚子を変えることじゃなく、柚子の側にいることなのだろう。
「柚子、まだそんなに食べるの? 食べられるの!?」
千代が、トレイにどんどんケーキを乗せる柚子に言った。
柚子は笑いながら、「デザートは別腹」と定番のセリフで応えた。そうして柚子は、ケーキの中に、残り一個となったモンブランを見つけ、あっと声を上げた。紗枝が栗が好きなのを柚子は知っていた。てかてかと、いかにも甘く美味しそうに照り輝く栗の乗っかったモンブラン。
柚子はそれをビュッフェトングで取り、後ろを振り向き、紗枝のまだ空のトレイに入れた。驚く紗枝に、柚子はにこりと笑い、言った。
「ラッキー」
この子は本当に大丈夫だろうかと、紗枝は、警戒心無く近づいてくる小鳥を心配するような、そんな親心を覚えるのだった。
週明けの月曜日。
柚子のもとに、元同級生の心愛から連絡が来たのはその日の夕方過ぎ、部活が終わり、詩乃と二人で駅まで歩いている時だった。詩乃は自転車を押し、前カゴに柚子の荷物を入れて、詩乃が左側、柚子が右側に並んで歩いていた。
スマホの画面を確認して、どうにも複雑そうな表情をしている柚子を見て、詩乃は声をかけた。
「どうしたの?」
「う、うーん……」
柚子は、連絡の内容を言おうかどうか、迷った。
きっと水上君は、彼女に良い印象を持っていない。映画館で会った時、心愛が向けてきた感情を、水上君が感じていないわけがない。心愛――ココちゃんは、私のことが嫌いだ。だから水上君のことも、同じように嫌っている。
それなのに、メッセージが来た。悪口や嫌味などではない。
柚子は、遠慮がちに詩乃に応えた。
「この間、映画館で会った子たちいたでしょ」
「あぁ、新見さんの元同級生?」
「うん」
柚子は頷いて、口を閉じた。
詩乃は、柚子が俯いて黙ってしまうその心の内が、よくわかった。
もし洋と喧嘩別れしていたらと、それを想像すると、詩乃は柚子の痛みを、自分の痛みのように感じられた。
次に詩乃が思い出したのは、宮本明香だった。告白して振られた、中学時代の同級生。詩乃にとっては、初恋の女の子だった。振られた後、彼女の恋を手伝わされたが、その時はそれでも、彼女の役に立っていると思って、嬉しかった。
ただ利用されただけだと、今ならわかる。
だけど今になって、もし宮本さんが、自分に連絡をくれたらどうだろうかと詩乃は思った。
強烈な怒りを感じるだろうけど、たぶん、それだけじゃない。やっぱり、懐かしいものは懐かしい。できれば、あの時はあんなことがあったねなんて言いながら、昔の傷を少しは癒したいと思うのではないだろうか。
「なんだって?」
詩乃は、柚子に訊ねた。
「心愛って子、覚えてる?」
「うん。握手した」
「そう。その子からなんだけど……今度、ダブルデートしないかって」
そう言われて、詩乃は最初、眉を顰めた。
ダブルデートというその誘いの背後にある、あの女の子の暗い思惑を、詩乃は感じ取った。
詩乃は、慎重に柚子の瞳を覗った。
「……行ってみる?」
「え?」
柚子は意外に思って聞き返した。
ダブルデートなんて、水上君は絶対に嫌がると柚子は思っていた。しかも相手は、あの心愛だ。映画館であんな態度を取られたというのに、どういう風の吹き回しだろう。
「でも水上君、いいの?」
「うん、いいよ」
詩乃は涼しげな声で応えた。
柚子は思わず、詩乃の肩にこつんと頭をぶつけて言った。
「ありがと」
「うん」
柚子は、胸が締め付けられるような愛おしさを覚えた。付き合う前、水上君に片想いしていた時、水上君が自分を見てくれるだけで嬉しかった。それで今、付き合えることになって、彼女と彼氏と言う関係になったのに、依然として私は、水上君に恋をしている。登っていくような気持ちと、沈んでいくような感覚が、同時に沸き起こる。たった一言――「いいよ」という声だけで水上君を好きになっていく。
「いつがいい?」
「来週かな。今週は、創作に集中できそうだから」
「わかった」
柚子はそう言うと、心愛にメッセージを返した。
メッセージを送ってしまうと、今度は、柚子の胸に不安の雲が広がり始めた。
柚子は詩乃の制服の袖口を握った。
詩乃は、どうしたのかと柚子を見た。柚子の目は、訴えかけるような熱を帯びていた。
「大丈夫だよ」
詩乃は、柚子の背中を、後ろ髪ごと二度ほど撫でそう言った。詩乃には、柚子の不安が良くわかるような気がした。
柚子の、詩乃を見つめる瞳の熱の色が変わった。
詩乃は数歩歩く内に、柚子の背中から手をどかした。
柚子は名残惜しそうに、詩乃の降ろした腕の手の甲を何度か擦り撫でた。
「あっ、そうだ!」
駅に着くころ、柚子は、詩乃にプレゼントがあるのを思い出した。
詩乃の自転車の籠からスクールバックを持ち上げて出し、その中から、細長い白い小箱を詩乃に渡した。詩乃は、何だろうと思いながらそれを受け取った。
「昨日、紗枝ちゃんたちと遊びに行ったんだけど、その時、見つけたんだ」
詩乃は、柚子に渡された箱を開けた。
ビニールの眼鏡ケースの中に、青いフレームの眼鏡が入っていた。
「似合うかなと思って」
詩乃は、早速その眼鏡をかけてみた。
細いフレームのオーバル型の伊達眼鏡。
柚子の想像通り、その眼鏡は、詩乃に良く似合っていた。
「似合ってる似合ってる!」
柚子は、詩乃を褒めた。
柚子にとっては無邪気な、思い付きのプレゼントだった。
詩乃はレンズ越しに柚子に笑いかけた。
「新見さんは――」
と、質問しかけて、詩乃は口を閉じた。
「うん?」
「もうすぐ誕生日だね」
「う、うん!」
「誕生日の日、夜、一緒に食事行かない?」
ぱあっと、柚子の顔に花が咲いた。
「うん、行く! 部活の後だけど、いい?」
「うん」
誕生日の約束を交わして、二人は別れた。
柚子を見送った後、詩乃は駅前をぐるりと見回した。たった一枚のレンズで、何だが強くなったような気がした。誕生日の食事も、当たり前のように誘えた。
まるで、世間一般の〈彼氏〉という人種がそうしているように。
――誕生日の夜、絶対空けるから! 楽しみにしてるね! ありがと!
柚子から、そんなメッセージが、表情豊かな顔絵のアイコンとともに届いた。少し頑張ってみようかなと詩乃は思いながら、帰りの自転車に跨った。




