寄り添う二羽(7)
「うん」
自分ではなくカレイの煮付けに対してであっても、詩乃から「好き」を向けられると、柚子は言い様のない幸福感を覚えるのだった。
柚子は立派なカレイを二尾、用意して来ていた。そっそく柚子は、詩乃の台所用具を借りて、カレイの下処理を始めた。こういうのは紗枝ちゃんが上手なんだよねと言いながら、柚子は鱗取りでカレイのでっぷりとした魚体を磨く。そうして内臓の処理までを行う柚子の手際は、詩乃の目から見ても、充分大したものだった。
しかし、それにしても、どうしてカレイなんだろうと、詩乃は柚子のチョイスの意外性に思わず笑ってしまうのだった。
「でも、どうしてカレイなの」
と、詩乃が質問すると、柚子は、「旬のものだから、体にいいかなと思って」と、笑顔で答えた。それから、少し不安そうにして、「魚じゃない方が良かった?」と、柚子は詩乃にたずねた。詩乃の頭に「新婚生活」という単語が浮かび上がった。
「いや、ちょうど魚、食べたいと思ってたよ」
頭をぶんぶんと振るいながら、詩乃は応えた。それから、柚子が煮付けの調味料を混ぜてその味見をしている間に、詩乃はちゃぶ台で大根おろしを作ることにした。
そのうちに、煮付けの鍋がぐつぐつ煮えて、みりんと醤油と砂糖の、甘じょっぱい香りが漂い始め、その匂いが二人の食欲をいっそう誘った。柚子がカレイを皿に上げはじめたので、詩乃も台所に立ち、副菜の準備を始める。厚焼き玉子用のフライパンを火にかけ、オイルを敷く。卵を四つボールに入れて、白だし、塩、醤油を少しずつ入れ、かき混ぜる。柚子は煮付けとご飯を二人分、ちゃぶ台に持って行き、詩乃が厚焼き玉子を作り終えるまでのちょっとした時間で、魚のトレイや使った包丁を洗った。
「あ、汁物が無いね」
詩乃は小鍋を出してそこに水を入れて火にかけた。白だしとしょうゆを入れて、軽くかき混ぜる。完成した玉子焼きを四等分する。
「美味しそう!」
ひまわり色のあざやかな玉子焼き見て、柚子は思わずそう言った。表面はなめらかで、中は見るからに、ふわとろっとしている。
「短編書くのに結構練習したんだよね」
「すごい、プロみたい」
「いやいや」
そこまでじゃないよと詩乃は笑いながら、お吸い物に入れるネギをぱぱっと切った。
小さなちゃぶ台に器が並べられて、二人は向かい合って座った。
「ではでは、水上君の快気を祝しまして――」
「宴会じゃないんだから」
二人して笑い合い、いただきますをして、食べ始めた。柚子は、最初に食べるものは決めていた。詩乃の作った厚焼き玉子。何もつけずに、その熱々を一口食べる。目を閉じて、じっくり味わう。
うっとりする柚子の表情。
吸物の椀に口をつけながら、詩乃は、啜った汁を飲み込めなくなってしまった。花の香りを嗅いでいるような、幸せな夢を見ている時の寝顔のような、そんな柚子の表情から目が離せなくなる。桜色の唇が、微かに濡れている。
ごくり、と汁を飲みこむときに音が鳴ってしまい、詩乃は咳払いをしてそれを誤魔化し、急いで煮付けのカレイの身に箸を入れた。
「――ちゃんと味、染みてるね」
詩乃は、急いでそんな感想を述べた。
柚子は目を開けて、詩乃に笑みを向けた。
詩乃にとっては、とろけてしまいそうな笑顔だった。
「丁度良い? 水上君、薄味好き?」
「うん。濃いのは好きじゃないんだよね。すごく美味しいよ」
詩乃はそう言ったが、実際の所、料理の味はどれも良くわからなかった。柚子に女性の魅力を感じすぎてしまって、その緊張のせいで、味覚も嗅覚も馬鹿になっている。男の本能を何とか理性で抑えながら、なんでそんな恰好で来るんだと、詩乃は柚子に言ってやりたかった。柚子が腕を動かすたびに、その隙間から何かが見えるのではないかと期待して、ちらちらと見てしまう。
詩乃は水を飲み、一息つく。本当は飲むだけではなく、頭から浴びたい気分だった。鼻先に人参をぶらさげられた馬というのは、こういう心境なのだろうか。目と鼻の先の新見さんと言うのは、精神に良くない。〈目の保養〉になんて全然ならない。保養になるほどじっくり見るなんて、とてもできそうにない。
昼食の後、柚子は食器を洗い始めた。詩乃は最初、後でやるから良いよと言ったが、柚子が聞かなかった。詩乃は仕方なくちゃぶ台の前に座り、腕を組んで目を閉じ、小説のことを考えて時間を過ごすことにした。そのうち、流しの水の音が止まり、洗い物を終えた柚子がちゃぶ台に戻ってきた。
「悪いね」
詩乃は目を開けて、戻ってきた柚子に労いの言葉をかけた。
「全然いいよ、楽しいから」
そんな柚子の言葉に、頬が緩んでしまう。それを隠すために、詩乃はまた腕組みをしたまま、目を閉じた。
「まだ、具合悪い?」
心配そうな柚子の声に、詩乃は慌てて目を開けて腕組みを解いた。
「いや、具合は全然、良いよ」
「――何か、考え事?」
「まぁ、うん」
そっか、と柚子は相槌を打つ。
詩乃が考え事をしてしまうと、柚子としては少し手持ち無沙汰になってしまう。本当を言えば、もっと構ってほしいと思う。しかし柚子は、詩乃の作る沈黙も、それはそれで嫌いではなかった。
「小説の事?」
「まぁ……、それもあるかな」
「どんなこと考えてるの?」
柚子は、思い切って聞いてみた。鬱陶しいと思われるかもしれない。それでも、水上君の世界に入ってみたいという思いの方が、柚子には強かった。
「……ちょっと、空気入れ替えよう」
詩乃がそう言ったので、柚子はベランダに目をやった。確か、窓は開いていたはずだと柚子は記憶していた。そしてやはり、柚子の記憶通り、窓は開いていた。まだ夏の熱の少し残る、それでも「涼しい」と感じられるようになった風が微かに部屋を通り抜けている。
「散歩、嫌い?」
詩乃に質問されて、柚子は、詩乃の言った「空気を入れ替える」の意味を理解した。
「ううん、好き」
柚子が応えると、詩乃はうなずいて、立ち上がった。クローゼットを開けて、上着を引っ張り出す。前がチャックになった薄手の黒フーディー。秋や春の上着は、制服以外では詩乃はそれしか持っていなかった。柚子もカーディガンを着て、二人で外に出た。
「水上君、鍵は?」
「あぁ、そうか」
当たり前のように鍵を閉め忘れる詩乃を見て、柚子は、心配になってしまうのだった。
住宅街の細い道を、二人は並んで歩いた。街路樹があるわけでもなく、何か特別なものや店があるわけでもない、どこにでもありそうな道。そんな風景なので、柚子は話題を見つけることもできない。柚子自身は、詩乃の横顔を見ているだけで、詩乃の隣を歩いているだけで満足していたが、詩乃の事を考えると、柚子は何か、話題を探した方が良いのではないかと、そういったちょっとした焦燥を覚えるのだった。
「そういえば、懸賞に応募しようかなって言ってたよね?」
柚子は、少しためらいがちに聞いた。そのことは、夏の、あの花火大会の日に聞いたのだ。柚子も、花火大会の時のことは、今はできるだけ話題にあげたくはなかったが、それでも、詩乃が懸賞に応募したのかどうかは、知りたかった。
「うん」
詩乃は、静かに応えた。
応募したの? と柚子は念を押して聞きたかった。しかし、夏の失敗の事で柚子には詩乃への負い目もあり、それ以上は聞けないと、口を噤んだ。詩乃も、花火大会に繋がる話題は避けたいと思っていた。
「――今日はあんまり、何も考えられないよ」
詩乃は、話題を変えようと、そんなことを言った。
「え?」
それはどういう意味なのか、柚子は小さな不安を覚える。何も考えられないのは、私のせいだろうか。強引に会う約束なんかとりつけて、本当は、邪魔だったろうか。そんなことを考えてしまう。柚子は、緊張しながら、詩乃の言葉を待った。しかし詩乃は、また考え込んでしまった。
詩乃は、どう言ったものかと考えていた。
こんな、デートのようなことになって、そのせいで、新見さんを意識しすぎてしまう。いつもなら、授業中でも人混みでも、自分の思考に没頭してしまえるのに、今は、目を閉じても新見さんの事ばかりが頭にちらつく。
自分と一緒にいることを、新見さんはどう思っているのだろうか。緊張しているようには見えないけれど、それは決して、自分にとって良いことではない。自分を男として意識していないから、普段通りでいられるのかも……。そう思って、一人勝手に落ち込む詩乃だった。
一方通行の小さな道を横切って、芝生の土手にかけられた細い階段を上る。
階段を上った先は、荒川の広い河川敷を見下ろす長い道が伸びている。河川敷には野球コートが三面並んでいて、そこでは、小学生から中学生くらいの少女、少年たちが野球の試合をしている。その向こう側は、サッカーコートが二面あったが、遠くて二人には良く見えなかった。
土手上の道から、河川敷公園の遊歩道に降りてゆく長いスロープの道を、二人はゆるゆると歩いてくだった。そうして不意に、詩乃がぽつりと言った。
「ちゃんとした作家になりたいんだ」
「え?」
と、柚子は聞き返した。
詩乃も、口を突いて出てしまった言葉に、自分でも驚いた。どうして自分はそんなことを、新見さんに打ち明けたのだろう。詩乃は唇を結んだ。
柚子は、詩乃を見つめた。柚子は詩乃の心の内を垣間見たような気がした。この機を逃すまいと、柚子は詩乃に質問した。
「やっぱり小説家になりたいんだ、水上君!」
明るい柚子の声に、詩乃は恥ずかしくなって俯いた。その夢を持っている事ではなく、それを打ち明けた自分の、柚子に対する欲望が、詩乃は恥ずかしかった。自分は、新見さんに認められたいと持っているのではないか。その自分の下心に、詩乃は消え入りたいような恥じらいを感じた。
「水上君ならなれるよ。絶対才能あるよ!」
柚子に言われて、詩乃は唇を結ぶ。
嬉しいには嬉しかったが、新見さんに期待させるほどのものが本当に自分の中にあるのか、そう自問すると、詩乃の中にあった自信はぐらぐらと揺らぐのだった。
詩乃は一度は、作家だった。
中学二年生の時に初めて書いた長編ファンタジーが、小説投稿サイトで好評を得、それが出版社の目に留まり書籍として売り出された。その実績で、茶ノ原高校への一芸入試での転入も叶ったのだ。そうでなければ、自分の成績では到底、茶ノ原高校には入れなった。
しかしそれは過去の話、過去の栄光――詩乃にとっては触れられたくない汚点だった。
詩乃は、自分が書いていたそのファンタジーを、今ではすっかり嫌いになっていた。安っぽい描写、取ってつけたようなストーリー、作者の――つまり詩乃の思い通りに動く、腹話術人形のようなキャラたち。文芸の世界に興味を持ち、独学でそれを勉強すればするほどに、詩乃は自分の作品に嫌気がさすようになっていった。
最後には、もう書けないと思い、詩乃は高校一年の冬、そのファンタジー作品を無理やり完結させ、出版社との契約を終えた。
書けば書くほど虚しい思いが募った、その執筆活動の時代。読者を騙すような、小手先の饒舌体でつづった物語は、しかし売れた。エンタメ作品は、売れなければ意味が無い。しかしその、職業作家としての仕事の割り切りは、詩乃にはできなかった。満たされたのはいくばくかの金と浅はかな虚栄心、後に残ったのは情けなさと無力感。自分のファンタジーは、売れただけで、誰の心にも残りはしない。
「才能なんて……」
詩乃は呟いた。
柚子は、詩乃の悲しそうな目を覗き込んだ。柚子は、自分の言葉の何かが詩乃を追い詰めたのかと思った。ただ恥ずかしがっているようにはとても見えない。痛みをこらえるような詩乃の表情を見ると、柚子まで胸が痛んだ。
「でも私、水上君は、特別だと思う」
柚子は、詩乃をじっと見つめて言った。
柚子は自分でも、その言葉がほとんど告白のような意味があるのを自覚していた。しかし柚子は、今それを言わなければいけない気がした。きっと水上君は、これを告白とはとってくれないだろうけど、でも、伝えなければ、伝わらない。少しずつでも伝えいたいと柚子は思った。
「水上君、私ね……たぶん、優しい人って映ってるでしょ?」
「うん」
「でも本当は、臆病なんだ」
詩乃は顔を上げ、柚子をじっと見つめた。柚子の目が愁いを帯びているのを感じ取って、詩乃は、ちゃんと聞こうと思った。
「――ベンチに行こう」
「うん」




