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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
後日譚,霧の夜は二人だけ
242/243

月の船(7)

 ホテルに向かうタクシーの中、柚子は息をひそめるようにして呼吸し、膝に置いたバックに視線を落としていた。


 ピンクベージュのレースドレスに白のボレロ、ホタテのような形のパーティーバックとハイヒール。この日のために用意した柚子の勝負服だった。香水も、いつもと違うバニラ系のオーデパルファム――……。


 色々と隙無く準備してきた柚子だったが、それはこれからの数時間を楽しむためというよりは、それくらい万全の状態でなければ、とても怖くて、今夜に臨めないと思ったからだった。


 ピピっと音がしてタクシーの料金が変わるたびに、柚子は顔を上げた。


 目的地が近づくに従って、悪い予感ばかりが、柚子の脳裏に浮かんできた。


 タクシーがハザードランプを点け、道の脇に車を寄せて止まった。


 いよいよだ、と柚子はカードで支払いをして車から出、息を吸った。


 都会の、お世辞にも澄んでいるとは言い難い空気でも、肺にたまった重たい気体よりかは随分ましだった。息を吐いた柚子は、緊張している今の自分の滑稽さを思って、くすりと、口元を押さえて笑った。


 この夜を境に自分たちの関係が変わる。どっちへ転んでも変わる。その変化への不安を感じながらも、柚子の心には、インクを落としたような一点の好奇心が、今になって浮かび上がってきた。これから私たちは、どうなるのだろう。


 怖いけど、その中に楽しみがある。


 ――本当に、詩乃君といると退屈しないな。


 ホテルのエントランスからは、半円を広げた様に低い階段が広がっている。


 柚子はエントランスを見上げ、階段を上り始めた。


 まだ待ち合わせの時間より早い。


 柚子は、自分の方が先に着いたと思っていた。時間より、約束の時間より随分早い。


 ところが柚子がエントランスを見上げた時、ちょうど、詩乃がホテルの入口から出てくるのが見えた。スーツ姿。


「えっ?」


 柚子は驚いた。


 出鼻をくじかれたような気もする。


 詩乃の方もすぐに、階段を上ってくるピンクドレス姿の女性が柚子と気付いた。


 詩乃は階段を降り、柚子は階段を上り、二人は階段と階段の間の踊り場のような空間で出会った。立ち止まった詩乃に、柚子も何だろうと面と向かって、詩乃を見つめた。


 柚子の不思議そうな瞳を、詩乃は、射抜くように見つめた。


 柚子は思わず、


「詩乃君……」


 と、詩乃の名前を呼んだ。


 詩乃の瞳の奥に、柚子は烈火の炎を見た。それは、近頃はすっかり見ることのできなくなっていた、そして柚子が恋をした瞳だった。


「今日は、夜景もフレンチも無しだ」


 詩乃は、柚子を見つめたまま、きっぱりとそう言った。


 柚子はただ、詩乃を見つめたまま、詩乃の言葉を待った。


 詩乃も、今この時は、柚子が口を開くのを許すつもりはなかった。何も言うなと、詩乃の目は柚子にそう言っていた。


「――新見さん、やっぱり自分は、書くことしかできないみたいなんだ。アルバイトをして、働いて、新見さんの生活を――女子アナの生活を支えるパートナー主夫――そんな自分を想像できない。陽だまりの生活は、自分には無理なんだ」


 詩乃は、弱気な言葉を言い出しそうになる自分を、柚子を見つめることによって押さえつけた。


「でも、新見さんが支えてくれたら、車も、家も、指輪も――作家になって、プロの作家になって、ベストセラーを飛ばして、何だって買ってあげる。新見さんが信じたのが、ビー玉じゃないって、絶対に証明して見せるよ。だから……一緒に――」


 詩乃はそう言って、柚子の左手を微かに握り、言った。


「結婚してほしいんだ、柚子」


 詩乃の瞳とその言葉は、柚子の心を捉えて離さなかった。


 柚子は、嬉しさに震える唇を結び、ぎゅっと両手を握った。


 そうして柚子は、思い切り弾みをつけ、詩乃の胸目掛けて跳び込んだ。


 詩乃は柚子の身体を、くるくると回りながら、抱き止めた。


 柚子は、詩乃に抱きしめられたまま詩乃の顔を見つめて言った。


「――私で良かったら、貰ってください」


「はい」


 詩乃は、こくんと頷いた。


「あと、もう私は、水上さんだからね」


 詩乃は、柚子の言わんとしていることを悟り、頷いた。


「柚子ね」


 柚子は、照れ隠しに詩乃の頬を突いた。


「心の中ではもう、随分予行練習をしてたから」


「名前呼びの?」


「そう」


「詩乃君、ホント可愛い。大好き」


 柚子はそう言って、詩乃の身体をぎゅっと抱きしめた。




 詩乃は柚子を連れて、地下駐車場に停めていた車に戻った。助手席に柚子を座らせ、運転席に着いた詩乃は、柚子に目的地も告げないまま車を出した。キュキュキュっと、タイヤがスリップ音を反響させる。地下を出た二人の車は、数分もしないうちに首都高に入った。高速に乗るなり、詩乃はアクセルを踏み込んだ。


 グオオンと、エンジンが唸りを上げ、そこで柚子は、車が高速道路に入ったのを知った。


 柚子は、車に乗った後はプロポーズされたことが嬉しくて、詩乃の手を握ったまま泣いていた。二つのカーブを乗り越えた後、詩乃は苦い顔で白状した。


「指輪、本当は用意するはずだったんだ」


「うん」


「でも、柚子にあげたい指輪にはちょっと手が届かなくて。だから妥協して二番目、三番目のにしようか迷ったんだけど、やっぱり、柚子には一番をあげたかったから……」


 詩乃が言うと、また柚子は涙を手で払い始めた。


 詩乃はアームレストを開いて、小物入れに用意していた〈指輪〉を出した。メモ帳を折って作った、折り紙の指輪である。その中には、詩乃のペンネームが書いてある。詩乃はそれを取り出して、柚子の左手の薬指にはめた。


「今はこれで許して」


 柚子は、詩乃から指輪を嵌めてもらうと、口元に手を当てて、また泣き出してしまった。


「大事にする」


「いいよそんなの、大事にしなくて」


 詩乃が言うと、柚子はぶんぶんと首を振った。


「だって、詩乃君と結婚するの、夢だったんだもん」


 詩乃は柚子の頭を撫でた。


 柚子は、上ずった涙声のままで詩乃に言った。


「ずっとよろしくお願いします」


 柚子の健気な言葉に胸を打たれて、詩乃も泣きそうになってしまった。


 詩乃は、柚子の手の甲を、握った左手の親指で撫でながら訊いた。


「夜景、見たかった?」


 詩乃の問いに、柚子は泣きながら笑った。


「詩乃君らしくないなって、ずっと思ってたんだよ。だからちょっと、心配だった。楽しみだったけど、なんか、この方が詩乃君らしくて好き。――どこ行くの?」


「温泉どうかなと思って」


「いい! どこ!?」


「湯河原まで」


 詩乃と柚子は、二人で声を出して笑った。


 この時間から、弾丸でいきなり、湯河原に行く。大人と思えないような計画性の無さ。後先なんて全然考えてない。そういえば、詩乃君が旅行雑誌で湯河原の宿を紹介しているページを見ていたことがあったなと、柚子は思い出した。ひとしきり笑った後、柚子は詩乃に質問した。


「もしかして、ずっと計画してたの?」


「え? 全然」


 詩乃の拍子抜けするような返事に、柚子はまた笑った。都会を離れてどこか遠くに行きたい。車を飛ばしたいと考えた時に、雑誌で見た湯河原の風景を思い出して、それで決めたのだと、詩乃は柚子に打ち明けた。


「思い出の場所とかじゃないんだ」


「うん。湯河原はたぶん、初めてだな」


 柚子はそれを聞いて嬉しくなった。二人の、最初の一ページに相応しいような気がした。


「少し早い新婚旅行だね」


「……日帰りじゃなくて、大丈夫?」


「明日はもう休み取ってあるよ」


 柚子はそう言って、詩乃の手の甲をぽんぽんと叩いた。それから柚子は、湧き出てくる嬉しさを抑えられず、運転する詩乃の首に抱き着いた。頬を寄せ、柚子は「ありがとう」と詩乃に言った。詩乃は、柚子の「ありがとう」の重みを受け取って、自分はどう返したものかと考えた。


 対向車線のロービームが、視界の端でちかちかと移り変わる。


 柚子の静かな鼻息が、詩乃の首筋を撫でる。


「お待たせ」


 詩乃はそう応えて、柚子の鼻の頭に唇を寄せた。


 二人を乗せた車は夜の中を走った。東の空に浮かんだ三日月は、BGMも必要ない二人の旅に温かい光を投げかけて、宙へ宙へと、ゆっくり昇っていく。

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