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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
後日譚,霧の夜は二人だけ
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月の船(6)

「――今度二十周年の記念日なんだけど、指輪せがまれちゃってさぁ。何かいいのないかね?」


「あ、でしたら、ちょうど今新作が入荷していますので、もし良かったら、ご案内いたします」


「頼むよぉ」


 見るからに上等そうなグレースーツを着た、四十がらみの男と販売員がそんな会話をしている。その客の方の男は、いかにも成功者というような、そしてそれを誇るようなゆったりとした口調で話し、胸を張って堂々と歩く。販売員の方は、身を低くしながら、その男のためにガラスケースをあけて、品物を取り出して、早口で色々と説明している。主人と召使のように見える。


 詩乃は目を瞑った。


 客という立場、そして経済的な成功者という威光を無暗に振りかざす男の醜態も、それに遜る仮面をつけて人形と化した販売員の姿も、これ以上見たくなかった。


「ご気分、いかがですか」


 販売員の女性が、ペットボトルとグラスを持って戻ってきた。


 トクトクと、ペットボトルの水をチューリップグラスに注ぎ、詩乃に出す。


「ありがとうございます……」


 詩乃は、息を吐いて、グラスの水を一口飲んだ。


「もしご気分がすぐれないようでしたら、遠慮なさらず、お申し付けください」


 詩乃はそう言われたので、


「あの……」


 と、彼女に聞こうとした。「辛くはないですか。どうして貴方は、仮面をつけて頑張れるのですか」と。しかしそんなことは聞けずに、詩乃は、戸惑いを目の奥に微かに浮かべた販売員に言った。


「ありがとうございます。だいぶ良くなりました」


「はぁ、良かったです」


 詩乃は、販売員の笑顔に絆されて、買うならこの人から買おうと思った。


「――婚約指輪を、探しに来たんです」


 詩乃はそれから予算を告げると、販売員は目をキラキラさせて、早速詩乃をショーケースに案内した。販売員の質問に詩乃はぽつりぽつりと答えながら、指輪を見て回った。デザイナーのことや、このシリーズはどうのという話を販売員は話したが、詩乃は頷くだけで聞いてはいなかった。詩乃は、販売員に接客させてしまっているという罪悪感にとらわれていた。


 結局自分も、ここの他の客と同じように、あの偉そうな中年男と同じようになのだ。


 そう思うと、詩乃はやりきれなかった。


「――こちらなども、大変人気があります」


 販売員が、新しい指輪を詩乃に紹介した。


 詩乃は、そのショーケースに並べられた他の指輪をざっと見てみた。紹介されたシリーズの他の価格帯の指輪が並んでいる。その中に一つだけ、詩乃の目を奪うものがあった。三つのリングが絡み合ったような独特なデザインのリングは、そのシリーズのどの価格のものも同じだったが、不思議とその一つだけが、詩乃の目に飛び込んできた。


 販売員はガラスケースの上に、四十万以内という詩乃のリクエストに適う指輪を三つ乗せてその紹介をしていたが、詩乃がじっと、ケースの中の指輪の一つを見つめているのに気づくと、その、詩乃が気に入った指輪も、ケースから出して、すでに出していた三つと並べた。


 販売員は、その指輪には三百ものダイヤモンドが使われていること、そしてそのそれぞれがブリリアントカットであることを詩乃に説明した。一つの指輪を形成している三つの絡み合ったリングのそれぞれに小粒のダイヤがキラキラと輝いて、星のようだと思った。


 これが欲しい、と詩乃は思った。


 柚子にあげるのならこれしかない、と。


 しかし、その指輪は、軍資金の十倍とまではいかないが、とても今の詩乃が買えるような値段のものでは無かった。


「これ、いいですね……」


 しみじみと詩乃が言うと、販売員もその話に乗った。


 しかし詩乃が提示した金額から随分と離れているものなので、販売員も、詩乃の出方を覗った。詩乃は少しの間頭の中で、その指輪を買う方法を考えた。


 アルバイトで一年か、二年間か――しかし詩乃は、ダメだと結論付けた。生活費のことを考えれば、この指輪を買えるだけの金を貯めることは、ほとんど不可能だろう。


 販売員は、ローンの話を詩乃に出した。


 しかし詩乃は、何を買うでも、ローンは嫌だった。借金をしなければ買えないようなものは、最初から買わないというのが、詩乃の考え方だった。そして、この指輪がどんなに欲しくても、それだけはしてはいけないと思った。


 その後も詩乃は販売員と指輪を見て回ったが、最終的には結論を出せず、考えさせてくださいと言って、店の片隅にあるカフェの、一番奥のカウンター席に逃げ込んだ。そこで、一杯千円のコーヒーを飲みながら、詩乃は、だんだんと光が弱まっていくガラス外の大通りを眺めた。


 四十万の中から、一番良い指輪を選べばいいじゃないかと、詩乃は自分に、何度も意見した。しかし詩乃は、そうしよう、とは思えなかった。世間知らずで我が儘なだけかもしれないが、詩乃は自分の中にある自分のその感覚を、どうしても捨てたくなかった。納得できないことでも納得する、妥協する、我慢する――それは確かに大人らしいことかもしれない。子供は、それができないのだから。しかし一方で詩乃は、我慢できない自分、子供っぽい自分というものも、そう悪くないのではないかと思っていることに気が付いた。


 あの河原で野球少年やサッカー少年の、自分の欲求と夢に忠実に生きる彼らの姿が、眩しかった。あんな時代もあったななんて、遠目で眺める大人にはなりたくない。なるのなら、あの子たちと一緒に泥遊びをする大人になりたい。


 それなのに自分は今、遠い目をして思い出に浸るような、そんな人間になろうとしている。小説家を目指していた時代もあったな、若かったな、子供だったなあの頃は、なんて、昔書いた小説を何かの拍子に見つけた時に、甘温かい目でそういう風にうそぶく大人に、自分はなろうとしている。


 ――本当にそれでいいのか。お前、よく考えろよ、水上詩乃。


 詩乃は自問した。


 結婚したらアルバイトをして、そのうちにはもっと稼げるような役職について、そうして自分はその先々で頭を下げ、へこへこして、そしてまた立場と状況によって、偉そうに振る舞うような大人になるのだろうか。そしてそういう生活にも慣れてきたら、さも分かった風な顔をして「仕事っていうのはそういうものだ」と、偉そうに誰かに説教するのだろうか。


 きっと新見さんは、そんな自分でも受け入れてくれる。作家であろうが、無かろうが、何をしても、どんな自分でも、マスクを付けた自分でも、肯定してくれる。――でもそれは、本当の、永遠の独りぼっちを意味するのではないだろうか。柚子に仮面を褒められたら、もう自分は、その仮面を外せなくなってしまう。


 目を瞑りながら詩乃は、悪夢にうなされたように首を振った。


 ――嫌だ、それは嫌だ。


 フレンチのコースが美味しそうなんて、レストランからの夜景なんて、全部嘘っぱちだ。一番では無いものを一番だという風に納得させて、それで買った指輪でプロポーズをして、そして自分は、心の中でどう言い訳をしたらいいのだろう。喜んでくれる柚子の笑顔を見た時に、その心にも自分は、マスクを付けなければならないのか。


 詩乃は腕を組み、目を閉じて、思考の迷路に出口を探した。


 詩乃の自問を熱を帯び、迷宮は赤く燃えた。


 心臓が、ぎゅうっと押しつぶされる様に緊張する。


 そうしてやがて、コーヒーもすっかり冷めて苦くなってくる頃。


 詩乃の思考の迷宮は風化し始めた。その灰の中には、ただ一本だけの道がはっきりと現れていた。穏やかな湖面を渡るその道の奥には、水銀のように光る出口が浮かんでいる。


 道と出口が確かになると、詩乃はまるで、最初からそれが見えていたような気がした。


 迷宮は最初から、複雑ではなかったのかもしれない。


 振り返り、出口からの光を背にすれば、自分の濃い影が見える。その影の向こうには崖だ。その下は、暗闇が広がっている。


 ――もう、迷うのはよそう。


 詩乃は、一本道を歩いた。


 ここまで来たら、自分はもう馬鹿みたいに――夏の虫のように本能だけに従って、明るい中に飛び込む道しかないのだろう。ペンばかりをもらって来た自分には、やっぱり、ペンしかない。書くことだけしかできない自分は、もう、どうあがいても、書くしかないんだ。


 マスクの中に隠された誰かの叫びを、葛藤を、良心を、自分が書くしかないんだ。


 迷宮に決着をつけた詩乃は、ぐいっと拳を握って立ち上がった。


 目を開ければ、外はもう薄暗くなっている。詩乃は口からほっと息を吐きだし、店を出た。


 そして、待ち合わせのホテルへと向かった。

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