月の船(5)
車で一時間ほどをかけて、詩乃は八王子の市役所を訪れた。
今日の予定は、もう決まっている。
市役所で戸籍謄本を受け取り、その後は来た道を引き返し、銀座に寄る。先週末にオーダースーツを頼んでいたスーツショップから、スーツが出来上がったという連絡があったのだ。スーツショップで、できたばかりのスーツに着替え、その足でジュエリーショップを回る。何しろ場所は銀座である。婚約指輪を選ぶのに困ることは無い。そして行く店も、詩乃は五件ほどをピックアップして決めていた。軍資金の四十万円はバックの封筒に入れてある。
戸籍謄本はコンビニでも印刷できるので、わざわざ本籍地にまで出向く必要はなかったが、しかしこれも、詩乃にとっては必要な儀式だった。無機質な電子モニターを操作して出てくるような書類に自分の人生を預けるのは、詩乃は嫌だった。
「お待たせしました。すみません、こちらになります」
「ありがとうございます」
詩乃は、窓口の職員から戸籍謄本を受け取り、役所を出た。何か一つ、肩の荷が下りたような気がした。詩乃は車に戻り、婚姻届を入れてあるクリアファイルの一番上に、戸籍謄本を入れた。
帰り道、高速道路は空いていた。事故も渋滞もなく、追い越し車線に入れば、ずっとそのまま、百キロオーバーで走り続けられる。しかし詩乃は、走行車線に車を入れて、買ったばかりのこの車のスペックを試そうとはしなかった。どうにも、そういう気分にはなれなかった。
暫く車を走らせたとき、詩乃はふと、寄り道をしようかと思い立った。
急がなくても、予定より時間は随分早い。一時間くらい道草を食っても、今日のスケジュールは恙なく進行できる。指輪を選ぶ時間が少し短くなるだけだ。
どこに行こうか、詩乃は運転しながら考えた。
独り身最後の数時間。
最後だからと言って、一人で行っておきたい場所が特別にあるわけでもない。
それでも詩乃は、寄り道をするのならここだと思う所があった。
八王子を出てから一時間後、詩乃は北千住の荒川河川敷にいた。
二段構えになった土手の一段目に敷設されたベンチに座り、河川敷に並べ敷かれた野球場と、その向こうの川を眺め、見下ろす。
そのベンチは、詩乃にとっては特別な場所だった。
はじめてそのベンチに座ったのは十一年前――高校二年生の時。まだ柚子と付き合う前の九月、詩乃の誕生日の翌日だった。一人熱を出して寝込んでいた詩乃の家に、看病にやってきたのが、柚子だった。学級委員長も大変だね、なんて拗ねたことを柚子に言ったのを、詩乃は覚えていた。まだ、柚子の気持ちを疑っていた頃である。誕生日当日まで寝込んでいたが、翌日にはすっかり熱も下がって、それで柚子と、この河川敷にやってきて、このベンチに座ったのだ。
このベンチだけは、あの頃から少しも変わらない。
高校を卒業して、七年間を地方で過ごして戻ってきた後、詩乃は真っ先にこのベンチを探しに来た。ベンチは、当たり前のようにここにあった。そして今も変わらず、ここにある。いつも空いている、人気の無いベンチ。そして、ここから見える景色も、ほとんど昔のままだ。
小学生くらいの子供たちが集まってきて、野球を始める。
散歩をする人、サイクリングをする人。
あの九月と今と、気候もよく似ている。
そして晴れた空には――詩乃は空を見上げた。
今日の月は、白く細い三日月だった。しかしその三日月の横には、丸い月の影がはっきり見えている。三日月なのに、それ以外の部分が全然隠せていない。そのことが妙に可笑しくて、詩乃は一人くすくすと笑ってしまった。
高校二年生の柚子は、月からはどんな世界が見えるのだろうかと、そんなことをここで言っていた。自分は果たして、何と答えたか。月から見える〈星の海〉を見たいと柚子が言い、自分は、見せてあげられてもまがい物の――ビー玉の海くらいだよと、そんな事を言ったのだ。
詩乃は空の月を見つめた。
月が何か、訴えているような気がした。
「お前とはもうお別れだよ」
詩乃は、月に向かって呟いた。
きっと月は今日の夜からは、ずっと高く、自分の声の届かない一つの天体になってしまう事だろう。
『水上君といたら、見られるかな?』
詩乃はその声にハッとして、隣を見た。
誰もいない。
詩乃は、息をついた。
そういえば、そんな事言われたっけと、詩乃は思い出して笑った。
「遠かったよ」
詩乃はまた、月に話しかけた。
――だけど俺は、負けたわけじゃないぞと、詩乃は心の中で月に宣言した。
確かに月の景色は諦めた。でも自分には、柚子がいる。買ってもらった車に乗って、買ってもらったスーツを着て、それだって、一つの人生だ。稼げない代わりに自分は、新見さんのサポートに徹しよう。それだって、充分楽しい生活が送れる。今感じている敗北感も、不甲斐なさも、生活の中でそのうち薄まって、消えていくことだろう。新見さんと一緒なのだから、それで充分幸福なのだから。
――もう行こう。
詩乃は立ち上がり、土手の階段を上った。
堤を一番上まで登り、詩乃は振り返らず、そのまま裏法面の階段を降りた。堤防に沿った二車線道路は、工事のために一方ずつの通行となっている。改善工事か修繕工事か、十人ほどから成る作業員が、コンクリをめくって、小型のユンボで土を掘っている。
詩乃が横断歩道の前までやってくると、六十を過ぎたほどの年齢と見える交通誘導員が、誘導棒を横にして掲げた。詩乃は誘導員の指示に従って、横断歩道の前で止まった。
「すみません、ありがとうございます」
誘導員は、その日に焼けた肌に笑顔を作って、詩乃に頭を下げた。そうして今度は、右車線から来た白のオープンカーを止めた。オープンカーの運転手は、詩乃と同じほどの年齢と見えるが、詩乃よりは随分肌艶の良い男だった。助手席には若い女を乗せている。
「すみません、ご協力ありがとうございます」
誘導員は頭を下げる。
その時に詩乃は、運転手が軽く舌打ちをしたのを見た。次に、助手席の女が、大きな口を開けて笑った。何を笑っているのかはわからない。
片側の車を行かせ、その後で止めていたもう片側――白いオープンカーを先頭とした五台からなる車列を通し、誘導員はその後で、再び詩乃に目を合わせ、頭を下げ、「ご協力ありがとうございます」と、手に持った誘導棒で横断を合図した。
詩乃は、アクセルを踏み込んで行ってしまったオープンカーの後姿を見つめ、それから横断歩道を渡った。コインパーキングに向かう小道に入る前に、詩乃は来た道を振り向き、立ち止まった。
交通誘導員は、また車を止めて頭を下げている。
その向こう、堤に上る階段の上には散歩をしている老人が見える。
そしてさらに上を見上げると、空と月。
青白く、爽やかに、月はひっそり地上を眺めている。それでも詩乃は、今月が、自分を見ているような気がした。そうしてやっぱり、何かを訴えているような気がした。しかし月は、何も言わない。ただ薄く、ぼつんと天上の片隅に浮かんでいる。それなのに背を向けると、何か、とんでもない暴言を突き刺されているような気になる。
「言いたいことあるなら、言ってくれよ!」
詩乃はそう言い返そうとしたが、言葉も出てこなかった。
詩乃は目を閉じて月を背にして、コインパーキングに停めた車に戻った。
銀座の店で出来上がったスーツに着替え、詩乃は一件目のジュエリーショップに入った。仕立ててもらった三つ揃えのブラックスーツ。銀色のネクタイにピカピカと光を跳ね返すプレーントゥシューズでフロアを歩く。
「いらっしゃいませ」
販売員の落ち着いたトーンの笑顔に、詩乃は畏まって頭を下げた。
しかしよく見ると、そんなことをしている客はいない。一人で来ている客も、カップル客も、客は皆販売員の挨拶には、目を合わせるだけで会釈なんてしない。テッシュ配りを避けるがごとく、すまし顔で素通りしたり、彼氏にべったり甘えた声で話しかけたりして、販売員の存在を歯牙にもかけない。
そして、そんな風にされても、彼ら販売員の笑顔は顔に張り付いたままだ。
笑顔も、おべんちゃらも、全部流れ作業なのだろうか。だから彼らは、挨拶を黙殺されたくらいでは、怒らないのだろうか。慣れのせいだろうか。慣れというのは、人間を人形のように作り変えるのだろうか。
詩乃はそんな事を考えて首を振り、こめかみを押さえた。
なぜ自分は、仕事をしているだけの彼らを見て、そんな意地悪なことを考えてしまうのだろうと思った。そうだ、彼らは仕事でやっているのだ。彼らには家族がいるかもしれない、恋人がいるかもしれない、独り身だとしても、自分のために稼がなければならないのだ。人形だなんて、まるで自分が、その稼ぐという行為を、馬鹿にしているみたいじゃないか。
「どうかされましたか?」
眩暈を起こしたかのような詩乃のもとに、販売員の女性がやってきた。詩乃は「すみません、大丈夫です」と答えた。しかしその女性は、詩乃を近くの一人掛けソファーまで付き添って、詩乃を座らせた。
「本当に大丈夫です。ただちょっと、考え事をしてて――」
「少々お待ちください。お水をお持ちしますので」
販売員の女性はそう言うと、水を取りに行ってしまった。
詩乃は、額に手をやった。
自分はよっぽど、具合が悪そうに見えるのだろうか。
詩乃はただ、恥ずかしかった。この場所、この服装と自分は、やはりちぐはぐだ。服でどんなに外見を装っても、すぐにボロが出る。ここの従業員や、北千住の工事現場で見たあの誘導員のように上手く仮面を被るなんて、やっぱり自分には無理だ。悲しむこと、喜ぶこと、それに特に――怒ること。怒りを抑えることは、自分にはできない。
本当は、工事現場の人たちも、そしてここの笑顔を絶やさない販売員たちも、心の中では怒っているはずだ。泣いているのかもしれない。どうして皆それなのに、彼らが仮面の下に素顔を隠しているのを知っているのに、高価なオープンカーに乗っているというだけで、高級ジュエリーブランドの客だというだけで、こんなに横柄になれるものだろう。




