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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
1,星の海で遊ばせて
24/243

寄り添う二羽(4)

 柚子はそう言うと、昼休みの終わりを待たず、教室を後にした。職員実で担任から詩乃の住所を聞いて、そのまま駅に向かう。ホームで電車を待っている間に、詩乃に『心配なのでこれから伺います』のメッセージを入れる。程なくして、銀色に緑のラインの入った電車が入ってきた。柚子は、深呼吸をして乗り込んだ。


 ポワンポワンした発車メロディーが、二回ほど繰り返される。


 ――四番線、ドアが閉まります。


 短い放送を合図にして、扉が閉まる。


 もう後戻りはできないのを、柚子は感じた。電車が進み始めてから、柚子は座席に腰を下ろした。二つの駅を挟んで、三つ目の停車駅が北千住――詩乃の一人暮らしをしている家の最寄り駅である。スマホのナビゲーションアプリを立ち上げて、それを頼りに歩き始める。


 改札を西口の駅前デッキに出て、バスターミナルの上を横断し、階段を降りる。徒歩四分という表示を見て、柚子はつばを飲み込んだ。迷わなければ、四分後には水上君の家に着いている。そのことが、まだ信じられない柚子だった。


 自転車がすれ違えるかどうかという路地裏の細長い道を通り、そこよりは少し広い、車一台が辛うじて通れるほどの道に出る。その道路を一分も歩かないうちに、スマホの電子アナウンスが、『目的地に到着しました。案内を終了します』と告げた。


 道の曲がり角、二階建ての安アパート。


 建物一階のベランダには背の低い手すり格子があり、その前一メートルの空間には、もはや「庭」と呼ぶにはあまりに雑で小さな、カタバミの小群生地がある。その気になれば、道から数歩でベランダに侵入できてしまうような、柚子には信じられない物騒な物件である。その一階の二部屋あるうちの一部屋が、詩乃の家である。


 柚子は建物に入り、101号室を探した。探す、と言っても右か左の部屋しかない。詩乃の部屋は向かって右手だった。いかにも薄そうな扉の『101』の文字。その扉の左側、黒いインターホンの上の表札入れに、『水上』という筆文字の書かれた薄い用紙が挟まっている。


 ――ここだ。


 柚子は、インターホンを鳴らした。


 小さい音が、扉の向こうからも聞こえてくる。


 しかし、反応が無い。


 再び、押してみる。それから一分ほど待ったが、反応は無かった。中で人が動くような気配すらない。柚子はもう一度インターホンを押して、ノックもしてみた。


「新見です。水上君、いますか?」


 文芸部の部室に入るときのように、声も掛ける。


 しかし、これもはやり、反応が無かった。


 留守かなと思い、詩乃はドアノブを回して、扉を少し引いてみた。これで鍵がかかっていたら留守だから、帰ろうと思った。留守ということは、きっと風邪ではないだろう。風邪じゃないのなら、心配いらない。会いたいけれど、風邪じゃないなら――。


 扉が、開いた。


 半分まで開ける前に、開くことのみを確認した柚子は、あわてて扉を閉めた。


「え……これ……」


 どういうことだろうかと、柚子は考えた。


 インターホンにも、ノックにも、声にも反応が無い。部屋の中で何かが動くような音も気配もない。それなのに、扉は開いている。柚子は、妙な胸騒ぎを覚えて、紗枝に電話をかけてみた。


 紗枝はちょうど、五時間目の授業中だったが、柚子からの電話に気づいて、授業を抜け出し、二階の自販機横まで走ると、柚子からの電話に出た。


『柚子、何かあった?』


「どうしよう、今水上君の家の前なんだけど、呼んでも出てこなくて。でも、扉は鍵かかってないの。どう思う?」


『それ、まずいんじゃないの……?』


「そうだよね……」


『入っていいと思うよ』


「うん、ありがと」


 柚子はそう言うと、電話を切って、一度深呼吸すると、再びドアノブを回し、玄関の扉を開けた。短い廊下の先にある開き戸は、微かに開いている。玄関に入った柚子は、もう一度部屋の中に声をかけてみる。


「水上くーん、新見です。いますか?」


 しんと静まり返っている。


 反応が無い。


 柚子は靴を脱いで、そおっと廊下を進んだ。扉の前で数瞬だけ躊躇ったが、ここまで来て後には引けないと、柚子は軽く扉を押した。扉は、ゆっくりと開いていった。正面右手には布団、ここには誰もいない。そして扉が左方へ開いてゆき、部屋正面が露になる。


 扉の前にはラック型のPCデスクと、その上にはパソコンモニター。そしてそのモニター越しに、詩乃がいた。デスクチェアーに座り、顔は天井を向いている。


「水上君!?」


 ただ眠っているにしては様子がおかしい。


 柚子はPCデスクの右側から回り込み、屈みながら、詩乃の腿と膝を揺すった。


「ふぅー……」


 詩乃は、薄っすらと目を開けた。


「水上君、大丈夫? 熱あるの?」


 詩乃は、目の前に柚子がいるのに気づき、腫れぼったい目を開いた。


 なぜここに新見さんがいるのだろうか、という疑問が詩乃の頭にぼんやり浮かび上がる。しかし熱のせいで頭が回らず、声を出すのも辛いので、はぁ、はぁと、深く、粗い息遣いの隙間から、詩乃はうめき声のように「うん」と返事をした。


「大丈夫? どこか痛い?」


「熱が……」


「動ける? 布団行こう?」


「うん……」


 詩乃は背もたれから頭と背中を離した。しかし、嘔吐感に苛まれ、そのまま上半身を前に折って、机の端に突っ伏した。柚子は、詩乃の背中をさすった。


「あぁ……」


 吐き気と熱の辛さに、詩乃の口から弱弱しい呻きが漏れる。


「ゆっくりでいいよ、大丈夫だから」


 詩乃は腹を抱えるようにしてゆっくり立ち上がり、そのまま掛け布団の上に両ひざをついて蹲った。柚子はその横にちょこんと屈み、詩乃の背中に手を置いた。


「気持ち悪い?」


「うん……水……」


「水? 持ってこようか?」


「うん……」


 柚子は台所の流しでコップに水を入れ、詩乃のもとに戻ってきた。詩乃はコップを受け取ると、ぐいっと一気に水を飲み干した。それから背中を丸めて立ち上がり、トイレに入った。詩乃は、今飲んだばかりの水を吐き出した。昨日の夜から、胃液もすっからかんになるほど何度も吐いたので、出てくるのは、水だけである。トイレットペーパーで口を拭き、水と一緒に流す。


 一度吐くと、吐き気はだいぶましになって、意識も少しはっきりする。


 詩乃が部屋に戻った時、柚子は枕元の布団の脇にぺたんと座っていた。詩乃は枕の反対側に、崩れるように座った。


「寝た方がいいよ、はい」


 柚子は立ち上がりながら、布団の上でぐしゃぐしゃになった掛け布団を抱えてどかした。詩乃は、言われるがまま、こてんと枕に頭を預けた。柚子は詩乃の足元に移動しながら、掛け布団を整えて、詩乃にかけた。


 詩乃は息を吐き、心配そうな柚子の顔を見上げた。


「風邪治ったの?」


 思いのほかしっかりした詩乃の低い声に、柚子はドキリとしてしまう。


「うん。水上君のおかげで」


「ゼリーが効いた?」


「うん。ゼリーが効いた」


 柚子は優しく微笑む。詩乃もそれを見て、自然と目元が緩む。


 新見さんにとっての特別が、自分になったらいいのになと、詩乃は思った。でも、そんな幸せは想像できない。これは、昨日お見舞いに行ったことへの義理だ。新見さんは義理堅い。知っている。


 詩乃は目を閉じて、言った。


「学級委員長も、大変だね」


「え?」


 意外な言葉をかけられて、柚子は驚いてしまった。学級委員長であることが、今のこの状況と、何の関係があるのだろう? しかし詩乃は、それ以上は何も言わなかった。学級委員長としての役割としてここに来たんでしょと、それくらいは、吐き気がマシになった今なら聞くには聞けたが、その言葉を肯定されたらと思うと、詩乃は怖くて、その質問を言葉には出せなかった。今新見さんにそんな冷たい反応をされたら、自分はどうにも、立ち直れそうにない。


「楽になったから、もう大丈夫だよ」


 目をつむりながら、詩乃が言った。


 詩乃の声の中に、柚子は微かな諦めのようなものを感じた。今回が初めてじゃない。水上君の言葉――声の中には、ほとんどいつも、それがある。一瞬、打ち解けたような気がしても、次の瞬間には、遠くへ行ってしまう。心を隠してしまう。


 柚子はそれが悔しくて、ぎゅっと手を握った。


 水上君は、口では大丈夫なんて言っているけど、そんなわけはない。こんな状態で、どうやって食事を摂るのだろうか、作るのだろうか。辛いことをどうやって、紛らわせるのだろうか。


 柚子は、横たわる詩乃の右手を両手で握った。


「無理しないで」


 柚子のやわらかい声。しかしそこには、有無を言わさぬ妙な迫力があった。新見さんのこんな声は初めてだ。今のは、叱られたのかもしれない……。


 詩乃は静かに息を吐いて、そのまま、寝息を立てて眠ってしまった。柚子は、詩乃が眠った後も三十分くらいはそのまま手を握っていた。


 そうしてふと、柚子は傍らに放ったまま、その存在を忘れていた自分のスマホを見た。


 ラインメッセージが、たくさん入ってる。――紗枝からだった。慌てて柚子は、メッセージを返して状況を伝えた。心配するから連絡しなさいと、いつものように叱られる。ごめんなさいのスタンプを探しながら、柚子はふと、詩乃のことを考えた。私には紗枝ちゃんがいる。こうやって、気にかけて連絡をくれる。でも、水上君はどうなんだろう。そういう友達が、いるのだろうか。


 柚子は一度詩乃の家を出て、近くのコンビニでゼリーやスポーツ飲料水の買い出しに向かった。その帰り道、ビニール袋を片手に歩きながら、この状況にわくわくしている自分がいるのに柚子は気づいた。


 柚子は、家族以外の人の看病はしたことがなかった。男の子の家に上がるのは初めてではないが、こんな風に、完全に二人きりということは今まで経験したことが無い。しかも、まだ学校は授業中だ。だからこれは、いわゆる、ズル休みみたいなもの。授業を休んで同級生の男の子の家に上がり込んでいる、高二女子。柚子にしてみれば、これは立派な不良行為だった。


 誰も知らない路地を通って、誰にも気にも留められず、水上君の一人暮らしの家に戻ってくる。誰も、ここに水上君が住んでいることを知らない。通りをすれ違った人たちも、学校の生徒も、先生も、知っているとしても住所くらいだ。世界の片隅でものすごい兵器を作っているような気分になってくる。背徳の興奮が、罪悪感を圧倒的に押し込んでいる。


 しんとした詩乃の部屋に戻ってきた柚子は、ゼリーや飲料水を冷蔵庫に入れて、寝ている詩乃の傍らに座り、その寝顔を覗き込んだ。文芸部の部室前の廊下で、寝ている詩乃の唇を奪った記憶が、柚子の脳裏に浮かんでくる。そしてあの時の、雷に打たれたような感覚が蘇ってくる。

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