月の船(4)
「両親の骨、納骨堂にあるって言ったでしょ」
詩乃は、打ち明ける決心をして切り出した。
「うん」
「その保管してもらえる期間が終わって、合祀にすることにしたんだ。――本当は、お墓を建ててあげたかったんだ。でも、どう考えても自分の力じゃ、何百万も用意できない。用意できるかもしれないけど、できたとしても、それは随分先になる。それまでまた保管場所を点々とさせるくらいだったら、もう、合祀にしようって、決めたんだ」
「それは、いつ決めたの?」
「決めたのはもうずいぶん前から決めてたんだけど、連絡したのは今日。期日だったから」
柚子は、じっくり考え、それから詩乃に言った。
「詩乃君は、お墓を建ててあげたいんだね?」
「うん」
柚子は、詩乃の気持ちをじっくり考えた。
きっと、母のことは大好きだった詩乃君。その母にまつわる話を、柚子は詩乃から聞いていくつか知っている。母のことを、恐らく、ないがしろにしていた詩乃の父。だから詩乃君は、父親を憎んでいる。だけどそれでも詩乃君は、父親に対する愛情を持ち続けている。そのジレンマが、彼の中にはある。母も好き、父も本当は好きでいたい。だから詩乃君は、家族旅行で行った旅先の事をよく覚えているのだ。そうしてたまにぽろっと、その時の思い出を話したりする。
『死んじまえって、一言でも言えなかったのが、本当に悔しい』と言っていた詩乃君。優しいから、言えなかったのだ。死の床にいる弱った父親の顔を見たら、言えなかったのだ。母親への愛情の裏返しのように父親を憎んでいたのに、それなのに、父にそのことを言えなかった。それは詩乃君の優しさなのに、詩乃君はそれを、母への愛が薄かったからだと思っている。詩乃君はきっとずっと、今も、母を助けられなかったと思っている。だから詩乃君は、まるで自分に罰を与えるかのように、辛い決断ばかりを選択をする。
「詩乃君、本当の事を教えて」
柚子はそう前置きをして詩乃に訊いた。
「貯金の二百万円は、お墓のためだったの?」
「……」
詩乃は、応えられなかった。
しかしその沈黙が、柚子にとっては答えだった。
「詩乃君――」
柚子は、じっと詩乃の目を見つめた。
「お墓、建ててあげようよ」
詩乃と柚子は、ただ見つめ合った。視線を交わすだけで、互いの中にある葛藤は充分に伝わった。言葉にすれば長すぎて、しかも収拾のつかない矛盾を抱える悩みは伝えきれない。それでも目でなら伝わった。その、伝わっているという事すらも、二人にはわかった。
「うん……」
詩乃は頷いた。
こうなることは、柚子にこの話を打ち明けた時には、詩乃もわかっていた。それなら自分から、そうお願いすればいいものを、わざわざ柚子の言葉を待った――そんな自分に対して、詩乃はありったけの侮蔑をぶつけた。
「明日また電話してさ、きっとちょっとなら、待ってくれるよ。ちょうど今頃って、お墓の募集してるんじゃないかな。調べてみるよ」
ごめんね、とも、申し訳ないね、とも詩乃は言えなかった。
墓を造ってやれることへの安堵と、自分の不甲斐なさと、その両方を詩乃は感じ、押し黙った。
「大丈夫、大丈夫」
と、柚子は明るい声で、詩乃の背中を撫でた。
詩乃は、柚子に撫でられている自分の背中が温かくなっていくのを感じて、日向ぼっこをしているような心地になった。今も昼寝はしているが、日を浴びて眠ることの無い詩乃には、それは懐かしい感覚だった。このまま、ずっとこの温かさに包まれていたいと詩乃は思った。
そしてその陽だまりの温かさの中で詩乃は決めた。
このままだらだらと同棲生活を続けていくわけには、やっぱりいかない。もう、進む覚悟を決めなければ。――プロポーズして、ちゃんと結婚を申し込もう。きっとそれで幸せになれる。自分をむしばむ体の異物の違和感も、きっとこの温かい生活の中で、それの発する痛みもだんだん薄れて、その塊のあることも忘れてしまえることだろう。
この、蕩ける様な睡魔のように、麻酔のように……――。
詩乃はそのうちに眠りに落ちた。
柚子は、詩乃の肩に毛布を掛けて、詩乃の肩に頭を預けた。
六月十日――。
あぁ、今日はいよいよその日なんだなと、柚子は覚悟を決めて出社した。
その日柚子は、詩乃からディナーに誘われたのだった。
柚子から詩乃を食事や買い物や、つまり、デートに誘うということはあっても、詩乃から柚子を誘うということは、これまでほとんど無かった。それだけで、柚子には今回の誘いが、特別なものだとわかった。しかも場所は、東京湾を一望できるフレンチレストラン。
プロポーズか。
それとも、別れ話か。
二つに一つだと、柚子は考えていた。
ロケーションは完璧にプロポーズだが、その場所選びというものが、どうも詩乃らしくない。夜景は綺麗だろうけれど、それを眺めながらのフレンチなんて判で押したようなプロポーズ、詩乃に限ってするだろうか。
ナレーションの収録が終わり昼食も終えて、仕事の終わりが近づいてくると、柚子は深呼吸をして気持ちを整えた。今日の夕食は柚子にとって、食事ではなく戦だった。その覚悟は、合戦に赴く兵のごとくだった。
柚子は自分が、詩乃の男としてのプライドを無視して突き進んでしまっていることを自覚していた。結局詩乃の両親の墓のことも、金銭的には柚子が決着をつけた。決めたのは詩乃だったが、柚子は、本当にそれで良かったのか、ずっと引きずりながら考えていた。
そうしてもう一つは、詩乃の小説の事である。
詩乃がもう作家を諦めるとそう決めたのは、やっぱり自分のせいじゃないだろうかと、柚子は思っていた。もし詩乃が独り身だったなら、自分と再会しなかったら、絶対に今も、これからも、物語を書き続けていたはずなのだ。それなのに、自分と再会したばっかりに、詩乃は作家の夢に期限を付けて、コンテストに一つ落ちたくらいで、その夢にピリオドを打ってしまった。
――詩乃君は、私と結婚なんてしない方がいいんじゃないのかな。
柚子は、そうまで考えていた。
しかしそう考えると、柚子は少し、気持ちが楽になった。プロポーズをされたら嬉しいけれど、もし別れ話だったのなら、それはそれで、仕方がない。自分が詩乃の人生に触れてしまったせいで与えた悪い方の影響を考えれば、別れ話をされたとしても、納得できると柚子は思った。
今だったら、どんな決断でもそれが詩乃君の決断だったら、ちゃんと受け入れられる気がする。十年前とは違う。どっちに転んでも、「それが人生だ」って、ちょっと大人びて強がれる。
それに詩乃君が私から離れて、それで羽ばたいていけるなら、私はそれを見上げることができる。一緒に飛べなかったとしても、それでも十分、自分には幸せだ。もう、これまでの十年間のように、自分と詩乃君の間に、霧や雲がかかっているわけでは無い。
「よし」
と、柚子は立ち上がった。
時間は止まらない。会社を出る時間が来た。
そして数時間後、笑っているのか、泣いているのか、もう別れた後なのか、それはわからない。今は、そのどの可能性も、同時に存在している。
――だけど神様、できれば、まだもう少しだけ、詩乃君と一緒にいる時間をください。
柚子は最後に一つ祈って、更衣室へと向かった。
六月十日の朝、柚子が家を出たのを見送った後、詩乃は、こっそり用意していた婚姻届をテーブルに広げた。クジラのシルエットの婚姻届。有料のものをダウンロードして、昨日のうちにコンビニで印刷してきたのだ。A3の大きな紙は、見慣れたA4用紙とは違う存在感がある。
詩乃が今日の夜、柚子をディナーに誘ったのは、他でもなく、プロポーズのためだった。婚姻届は、詩乃がそのために用意したものである。今日は婚姻届だけではなく、これから戸籍謄本ももらいに行く。そんな書類はまだ、プロポーズの段階では必要無かったが、しかし詩乃にとっては、それ無しでプロポーズなんてできないというほどの、重要なものだった。それだけの準備をしなければ、とても嘘くさくて「結婚」を口にできないと詩乃は思っていた。フレンチのコースや夜景や、婚約指輪だけでは、詩乃には不十分だった。
婚姻届は、書き間違いも考慮して、五枚用意していた。
そして筆記用具のペンも五本。
一つは、柚子に貰った緑の万年筆。
一つは、深紅のボールペン。橘昴――高校生の時に同級生だった、そして今はピアニストとして活躍している男に貰ったもの。彼とは高校三年生の初め、柚子を取り合った仲である。
もう一本は銀色のボールペン。春に貰ったものだ。
そして一番最近増えた一本は、青いボールペン。清彦からの餞別。
よし、と気合を入れて詩乃は、最初の一枚に名前を書き始めた。書き終わると二枚目は、四本のうちの他のペンを使う。そうして三枚、四枚と書いて、最後の五枚目は、詩乃が長年愛用している普段使いのボールペン(一本百五十円)を使った。
それで五枚。
判子も押して、乾かして、それからその五枚の婚姻届を、A3サイズのクリアファイルにしまった。
書初めのような緊張感のあと、詩乃は息をつき、時計を見ればもう昼前。
詩乃は婚姻届けの入ったファイルとセカンドバックを持って家を出て、マンションの立体駐車場の一階にやってきた。幾台か並ぶ車の間に、黒いスポーツセンダンがひっそりと、出番を待っている。一昨日納車されて、詩乃と柚子、二人で取りに行った中古車である。その乗り心地は折り紙付きだが、この車にはまだ詩乃は、一度しか乗っていない。一人で乗るのは、これが初めてである。
後部座席に婚姻届のファイルを置いて、詩乃は運転席に座った。
この後の予定は、柚子とのディナーまで一方通行だ。途中で引き返すことはできない。ここに帰って来るのは今日の夜、全てが終わった後である。その時にはもう、書類上のことはともかくとして、自分と柚子は、夫婦になっている。
詩乃は、エンジンをかけた。
グオンという歯切れの良い低音が腹に響く。
「はぁ……」
詩乃は息を吐き、さらに一呼吸おいてから、車を出した。




