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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
後日譚,霧の夜は二人だけ
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月の船(3)

『お前そりゃ、逃げたくもなるよ』


 柚子の兄、新見燕樹(やすき)は柚子から大まかに話を聞くと、そんな一言を言った。


 燕樹は柚子の八歳年上で、昔も今も、柚子にとっては不思議な存在だった。実家で一緒に暮していた頃も、柚子の話し相手はもっぱら母や姉の彩芽で、燕樹よりはまだ父との方が会話は多かった。柚子は兄と仲が悪いわけでは決してなかったが、燕樹は口数も少なく、何をしているのか、家族の誰もよく知らなかった。


 そんな燕樹に柚子は、久しぶりに電話をかけたのだ。


 柚子には、千代や紗枝や、両親や、そして何と言っても心強い姉がいたが、今は燕樹の意見が聞きたいと思った。男友達のいない柚子には、燕樹は貴重な存在だった。


 そうして結婚の事や、最近の詩乃のことなどを燕樹に相談すると、燕樹はいとも簡単に、『お前そりゃ、逃げたくもなるよ』と、こう返してきたのである。「え、そうなの? そう思う?」と柚子が聞き返すと、燕樹の呆れたようなため息が電話の向こうから聞こえてきた。


『そんな何でも与えてやったらさ、子ども扱いされてるような気になるだろ。お前はそれで満足かもしれないけど、男は嬉しくないよ、それ』


 無遠慮な燕樹の意見に、柚子は憎たらしさと新鮮さと嬉しさのごちゃ混ぜになった不思議な感情を覚えた。そして柚子は心のどこかで、「やっぱり」と思った。


「お兄ちゃんだったら、嫌だ?」


『嫌だ。鬱陶しい』


 グサリと、柚子の心に兄の言葉が突き刺さる。


 ――鬱陶しい。


『水上君はヒモ気質じゃないんだよ』


「うん」


『まぁでも実際、お前とやっていくんだったら、水上君もそのへん吞まなきゃいけないんだよ。お前より稼ぎがあればいいけど、その見込みはないんだろ?』


「小説家でデビューできたら――」


『できたらな。でもそれは不確実だし、作家でプロになっても、局アナの収入を超すのはかなりハードルが高いよ』


「うん……」


『一人にしてやれよ。考えてんだよ、水上君も。お前のために全部投げうってくれるような男なんだろ? 少しは信用してやれ』


「信用はしてるよ! でも……」


『お前は心配しすぎ。いちいち狼狽えるなよ』


「でも、そう言うけど――」


『本当に困った時に、その彼は――当てにならないのか、水上君は』


 柚子はそう言われて、ハッとした。


『俺は正直、水上君は立派だと思うよ。親の借金背負って、別に相続放棄すればいいものをさ、七年働いて全部払って、その親はもう、両親ともいない、親族もいない、それで高校時代の世話のかかる元カノのためにこの半年つぎ込んで』


「うん、そうだよ」


『だからさ、彼が一人で考えに出るくらい、どっしり構えて待ってやれよ。お前が動揺してたら、水上君だってじっくり悩めないだろ?』


「……そっか」


『そうだよ。考えてもみろ、水上君が七年かけてやっと完済しただけの金を、俺やお前は一年、二年で稼ぐ。そういうのを目の当たりにしながら、水上君は生きていかなきゃいけないんだ、お前と一緒にいるっていう事は。その辺は、汲んでやらないと』


 兄との電話は、姉や他の女友達との電話よりも短かったが、その言葉は鈍器のようにずしりと重かった。そして、驚きもあった。燕樹と真面目な話をするのは、柚子にとっては実は初めてに近かった。柚子は兄が、もっとふざけた人間だと思っていたのだ。何しろ、旨いラーメン屋が近くにあるかどうかで大学を決めたくらいである。しかし話してみると、柚子は燕樹の中に父親を見たような気がした。


 ベランダの端から、刺すような西日の差しこむ夕方。


 兄との電話を終えた柚子は、テーブルの上のスノードームを見つめた。美奈から返してもらったペンギンのスノードーム。足元の雪が茜色に染まっている。詩乃からもらった誕生日プレゼント。


 ――あぁ、そうか、これがいけなかったのかもしれない。


 柚子は、スノードームを手に取って立ち上がった。


 詩乃から貰ったものやその頃の思い出の品が、この部屋にはたくさん置いてある。高校時代のアルバムはテレビ台の下、詩乃から貰ったキーホルダーはテーブルの上。そしてこの、スノードーム。


 詩乃君は先の事を考えているというのに、この部屋には、過去のものばかりが置いてある。


 まるで私の不安で、詩乃君の自由の外堀を埋めるみたいに。


「確かに、鬱陶しいかも……」


 柚子はそう一人呟くと、スノードームは自分の部屋に片付けた。高校のアルバムも、自室にしまう。キーホルダーはバックの中に入れる。急に全部を変えると詩乃も不審がるだろうと思い、昔別れ際に貰ったオルゴールだけは、棚の上にそのままにしておく。


 柚子にとっては随分寂しくなったリビングを見渡し、柚子は息をついた。


「これで、いいんだよね……?」


 柚子は、オルゴールに問いかけた。




 六月初めのその日。


 その日も詩乃は、柚子が夕食を食べ終えた後に帰ってきた。


「おかえり」


 と、柚子は咎めるでも、過剰な感情を含ませるでもなく、帰ってきた詩乃を迎えた。詩乃は「ただいま」と小さな声で返して、手を洗った後は和室に逃げ込んだ。ベッドに腰かけ、手提げ袋を布団の上に放り投げる。幾枚かのチラシが――今日も無駄に貯めてきた、言い訳のような求人広告が、ばさりと袋から零れて散らばる。


 自分は一体何をしているのだろうと、詩乃は蹲る様に頭を抱えた。


「詩乃君、ご飯食べた?」


 襖越しに、リビングから柚子の声が聞こえてくる。


 穏やかで明るいその声に、詩乃の良心は痛んだ。きっとあの声の裏側で、新見さんは、寂しい思いそしているに違いない。しかし詩乃は、そんな柚子の寂しさを想像するほどに気持ちは重くなり、「後にする」と、そんな返事しかできなかった。


 詩乃は結局夕食は摂らず、そのままベッドに横になった。


 一人でリビングにいるのにも飽きた柚子が和室にやってきて、詩乃の隣に横になる。その時は柚子も、詩乃の背中や肩を撫でたり、背中を向ける詩乃を後ろから抱いたりした。


 柚子の体温を背中に感じながら、詩乃は呟いた。


「ごめんね」


 その詩乃の弱弱しい声が、柚子の心に刺さった。


「今日どこ行ってきたの?」


「今日は、佐倉」


「あ、ええと……堀田正睦だっけ!?」


「あぁ、いたよ」


「いたの!?」


「銅像ね」


 詩乃は笑いながら応えた。それから詩乃は、佐倉の長閑な風景や、竹林の遊歩道、風車や武家屋敷など、今日見てきたものを柚子に話した。詩乃の話を聞きながら柚子は目を瞑った。そうすると、柚子の暗い世界に、詩乃の声が創り出す佐倉の風景が浮かび上がった。詩乃の低い声は子守歌のようだった。


 いつの間にか寝息を立てた柚子に気が付いて、詩乃は口を閉じた。




 夜中、柚子は目を覚ました。


 隣に詩乃が居ない。


 しかし、襖の向こうに人の気配がした。耳を澄ますと、すすり泣きのような声が聞こえてくる。柚子はベッドから降りて立ち上がり、襖を少し開けて、リビングを覗いた。


 台所の電気だけが点いている。その白光の斜めの光の下、詩乃がテーブル席に座っていた。和室側に背中を向けている。詩乃の肘の向こうに酒の瓶が見える。


 柚子は声をかけようと口を開いた。


 しかし、詩乃が泣いているのに気づいて、呼びかけの言葉を呑み込んだ。


 詩乃は、すすり泣きのその啜る音さえも隠しながら、口でゆっくり息を吐き出して、泣いていた。グラスに並々注がれたウィスキーを乱暴に煽り、突っ伏し、震えるような息を吐き出す。


 柚子は、居ても立ってもいられず、襖を開けて、詩乃の背中に近づいた。


 詩乃は、背後に柚子の気配を感じたが、泣いているのを見られたくなかったので、顔を上げなかった。柚子は、泣いている詩乃の隣に座り、背中を擦った。


「どうしたの」


 柚子は、宥めながら訊いた。


 詩乃は奥歯を噛んで俯いた。


 しばらく、そのまま無言の時間が続いた。詩乃は何度か口を開きかけ、何か、柚子を笑わせる様な軽口を叩こうとしたが、できずに口を閉じた。そうして結局、長い沈黙の後に詩乃が言った言葉は、「ごめん」だった。


 柚子は首を振って、詩乃の背中を撫で続けた。


「私もごめんね。なんか色々、一方的だったよね」


 柚子が言うと、今度は詩乃が首を振った。


「新見さんのせいじゃないんだよ、本当に。本当に、自分の……自分の問題なのに」


 詩乃はそう言葉を絞り出した後、俯いた。


「詩乃君の問題は、私の問題でもあるんだから……話していいんだよ。私にも、力にならせて」


 柚子は、詩乃の背中を撫でながら言った。


 詩乃は、うんうんと、頷いた。


「詩乃君は、私の問題をいつも何とかしてくれるでしょ? それと同じだよ」


「自分は、新見さんに何もしてあげられてないよ」


「ええ!?」


 柚子は、詩乃の認識に驚いてしまった。


 十二月に再会してからこの半年、詩乃がどれだけ自分のために色々してくれたか。大体詩乃君がいなかったら、自分はもうこの世にいなかったかもしれない。仕事への復帰なんて、絶対に無理だった。それなのに、詩乃君はそれをどういう風に思ってるのと、柚子は思った。


「何言ってるの詩乃君。詩乃君いなかったら私、たぶんここに居ないよ。ここというか、この世にいないよ」


「でもそれは、自分が勝手にやったことだよ。新見さんに頼まれたわけじゃないし、誰に頼まれたわけでもない。自己満足だよ」


「なんでそう考えるの。詩乃君は、難しく考えすぎだし、優しすぎ。私は、たくさんしてもらってると思ってるよ。だから私も、詩乃君の悩みには、力になりたいよ。私がそうしたいの。誰かのためとかじゃなくて」


「うん……」


 詩乃は、頷いた。


 柚子がどう思っているか、そして自分の言葉に柚子がどう反応するか、それが解らない詩乃でもなかった。二人でいる以上は、もう自分の問題は、自分だけの問題にしてはおけない。そのことを詩乃は、頭では理解しつつあったが、感情はまだ呑み込めていなかった。問題だらけ、欠落だらけの自分が、これからどれだけ柚子に荷物を背負わせてしまうか、傷つけてしまうか。それが詩乃には恐ろしかった。


 それでももう、ここまで来た以上は――こんな姿を柚子にさらけ出してしまった以上は、後戻りはできないと詩乃は思った。

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