月の船(2)
計画性も、忍耐力も、全てにおいて柚子には完敗だと詩乃は思った。自分はこのまま、結局流されて、今の生活を続けていくような気がした。そうしてそれについて、最初は嫌だと思っていた気持ちもだんだんと、薄まっていくのを詩乃は感じていた。男のプライドも、小説家という仕事も、書かなければならぬという作家の意地も、夢や幻のように、このまま薄まって、溶けて消えていくのかもしれない。そうしてそれと引き換えに手に入るのが柚子との結婚生活なら、それも、悪くない。
ナンをカレーで食べ切った後で、デザートの蜜柑シャーベットが運ばれてきた。
柚子は手を拭いてから、テーブルに詩乃へのプレゼントを出した。手紙のようなそれは、スーツの仕立券だった。詩乃はそれを受け取りながら、そう言えば自分が、スーツに憧れるというような話を柚子にしたのを朧気に思い出した。
「ありがと」
詩乃は礼を言いながら、プレゼントの仕立券を受け取った。
詩乃は、シャーベットを一口食べ、銀のスプーンを見つめた後、柚子に切り出した。
「結婚の事なんだけど――」
柚子は、息を呑んで顔を上げた。
「あ、いや、結婚というか、仕事の事。自分のね。会社に勤めるかどうかは別にして、やっぱり少しは働こうと思う。まぁ、バイトでキッチンをするくらいだけど。じゃないとやっぱり、どんどんダメになっていくと思うんだ。稼ぎは当然、新見さんの足元にも及ばないけど、でも、やっぱりヒモ男にはなりたくないんだ。――実際は、ヒモみたいなものかもしれないけどさ」
そう言って詩乃は、火照った体をシャーベットで冷やした。
柚子は、詩乃の考えを、頷きながらじっくり聞き、それから詩乃に訪ねた。
「執筆は、続けるんだよね?」
柚子に問われて、詩乃は顔を曇らせた。
「もう、書かないの?」
詩乃は、唇を結んだまま、小さく縦に頷いた。
「なんで、もったいないよ!」
柚子が言った。
「自分には無理だよ」
「ううん、詩乃君は、絶対才能あるよ。私、他の小説も読んでみたよ。流行りの、賞取った、売り出し中の本。ベストセラーで何十万部、百万部とかって小説。ファンタジーも。――でも、詩乃君の小説が一番面白かったよ。諦めたら、絶対勿体ないよ」
詩乃は微笑を浮かべながらスマホを取り出して、そのモニターにあるページを表示させた。
それは、二月に詩乃が応募した懸賞の結果通知ページだった。小説の応募番号とパスワードを入力すると、自分の出した小説の選考状態、選考結果が表示される。詩乃は毎日これを、一時間に一度は確認していた。
そして今朝、『選考中』が『選考結果』に変わった。
コンテストへの応募に対するお礼から始まるその文章を追っていくと、『残念ながら』という文字が出てくる。結果は、『一次選考落選』だった。柚子は、詩乃がテーブルに放りだしたスマホの画面を覗き、拡大させながら文字を追った。
内容を理解した柚子は、言葉もなく顔を上げた。
詩乃は、柚子に微笑みかけた。
「二次選考で落ちたならともかくね、一次選考じゃ」
詩乃は、吐き捨てるように言った。
柚子は、詩乃にどういう言葉をかければいいかわからなかった。励ましの言葉はいくらでも思いついたが、しかしそのどれも、詩乃の賭けたものに対しては、いかにも薄っぺらいように感じた。それでも柚子は、詩乃が落ち込むのは違うと思った。
「でも、たまたま落ちただけだよ。詩乃君なら――」
詩乃は首を振り、柚子の励ましの言葉を待たずに言った。
「自分は全力を出し切った。でも、ダメだった。これが最後のつもりで書いたんだ」
「だけど――」
自分を励まそうとする柚子に、詩乃は言った。
「新見さんは、作家じゃない俺は嫌だ?」
「そんな……そんなこと――」
柚子は、言葉に詰まった。
詩乃が、本当に執筆を辞めて、小説家という夢を諦めてしまうことが、柚子には辛かった。そこまで追い詰められて、挫折している詩乃の気持ちを思うと、柚子はもう何も言えなかった。
「大丈夫だよ。もう、諦めはついたから。これが、最終選考まで残ってダメだったら未練はあったかもしれないけど、かえって一次落ちだから、さっぱりしていいや」
詩乃はそう言って、ぱくりとシャーベットを食べた。
「――でも、ファンタジーの方はまだでしょ?」
柚子は、思い出して言った。
詩乃は笑いながらその可能性を否定した。
「あれは無理だよ。書いてるからわかるんだけど、あれは、小説としての体裁がとれてなかった。自分のファンタジー世界を詰め込んだだけで、全然、闇鍋だよ」
「でも私、面白いと思ったよ? うずらに乗る一寸法師なんて、他の人じゃ思いつかないよ」
「そういう場面だけね。でもそれじゃ、物語としてはダメなんだ」
そうかなぁ、と柚子はシャーベットを掬った。
詩乃は、柚子が納得できるよう自分の物語論を語ろうと口を開いたが、辞めた。今更自分が何を言ったところで、負け犬の遠吠えだ。自分はもう舞台を降りたのだ。偉そうな批評家にはなるまいと、それが、詩乃に残った最後の意地だった。
「でも、もったいないなぁ」
柚子が呟いた。
しかし詩乃は、微笑を浮かべて答えた。
「別に、自分が書かなくなったところで、誰も困りはしないんだ。書ける人間なんていくらでもいるんだよ。そういうのが死屍累々といる世界だから。だから全然、もったいなんてことは無いよ。新見さんに期待させてたとしたら、それは本当に、申し訳ないんだけど、でも……自分はこんなもんだよ」
柚子は、少し考えてから応えた。
「でもね詩乃君、私はそんな風に思ってないよ。詩乃君はね、詩乃君が思ってるほどダメじゃないんだよ。私を信じて」
詩乃は、柚子の視線から逃げるように頷いて、シャーベットに視線を落とした。それから詩乃は一度、ちらりと柚子を見やった。本当はもう一つ、詩乃には、柚子に話しておくべきことがあった。しかし結局詩乃は、再び視線を落として、その話は、自分だけの胸の中にしまうことにした。
「詩乃君、何か、言いたいことあったら言ってね。私ちゃんと聞くから」
詩乃の閉じた唇を見て柚子はそう言ったが、詩乃は柚子の優しさに微笑で応えて、それ以上は何も言わなかった。
ゴールデンウィークが明けてから最初の一週間のうちに、二人は早速、柚子の目星をつけていた外車専門の中古車ショップに行き、車を買った。これまで随分レンタルで借りてきていた車と同車種、色は黒。内装の微妙な違いはあったが、乗り心地はすでに良く知っていたので、ほとんど即決だった。購入の最後の決断や、書類上のことでも、何か決断をする場面では、柚子は詩乃にその決定を委ねた。詩乃のすることは、柚子やディーラーの最終的な問いに頷いたり、短く応えるだけだった。後の雑多なことは、全て柚子が受け持った。納車はひと月後ということになった。
そして次の一週間のうちに、詩乃は柚子と一緒に、銀座のスーツショップを訪れた。カレー記念日の仕立券でオーダースーツを作るためだった。銀座の一等地、いかにも高級感の漂うそのビルの外装に怖気づいた詩乃だったが、いかにも楽しそうな柚子の笑顔に引き連れられて店に入った。
最終的にはその店で、二時間ほどをかけて詩乃はスリーピーススーツのオーダーを終えたが、その二時間は、詩乃にとっては過酷なものだった。テーラーとの打ち合わせ、生地選び――「質の高いメリノウールを惜しみなく使ったもの」と、テーラーはそんな風に生地の説明をしたが、詩乃はそう言われても、「そうなんですか」ということくらいしか応えられなかった。詩乃が「これは」と思って生地に目をとめるごとにテーラーは洪水のような説明をするので、詩乃はそれに疲れてしまい、最後には相槌さえ柚子に任せた。
「疲れたな」
スーツショップを出た後で、詩乃は呟いた。
ただスーツを買っただけ、車を買っただけ――それだけなのに、それ以上の疲れの蓄積を、詩乃は感じていた。肩といおうか、内臓といおうか、内臓でも心臓の下、胃の上のあたりに何かが乗っかっているような不快感を詩乃は感じるようになっていた。そうしてその、胃の上に鉛を乗せているような不快感は、寝ても覚めても、詩乃をむしばみ始めた。
詩乃の中のその不快な塊は、詩乃が家にいる時に、特に重くなった。家の中でじっとしているのに苦痛を感じるようになり、五月の中頃になると、詩乃はふらりと家を空けるようになった。外に出ると、詩乃の気分はその時だけは、少しマシになった。
しかしそれはそれで、新しい問題を引き起こした。家を空けるようになると、今度はどういうわけか、柚子と顔を合わせづらくなってしまった。仕事から帰ってきた柚子の、その明るい笑顔を見ると、胃の上の塊が疼き出すのだ。そうしてしまいには、「おかえり」を、上手く発音できなくなった。
そうなると詩乃は、先に夕食までを作っておいてから家を出て、それから夜遅くに帰る様になった。柚子が心配するので、アルバイト先を探すという口実を作って。
詩乃は西へ、東へ、時によっては電車も使ってぶらりと歩き回り、その先々で見つけた飲食店で、求人チラシが張られていないかを確認した。バイト募集のチラシが店の入り口辺りに置いてあれば、とりあえずそれを取って手提げに入れた。そうして家に帰り、集めてきたチラシを柚子に見せて、口実が本当であるという証拠とした。
しかし柚子も、詩乃のそれくらいの嘘は見抜いていた。自分が避けられているのがわからないほど、柚子は鈍感でもない。しかしそれを指摘して、本当の事を教えてほしいと迫ることは、柚子にはできなかった。『水上も男なのよ、柚子』と、紗枝から言われたその言葉が、柚子には、一つの答えのような気がしていた。
車を買って、記念日を祝って、そして、スーツも一緒に選んで買って。
だけどそれは、自分の、自己満足ではなっただろうか。
柚子も何となく、前のめりになっていた自分に気づいていた。本当は外から帰ってきた時に、詩乃から「おかえり」を言ってほしかった。それがないと、柚子は発作のような寂しさに襲われるのだ。しかしそれでも、すぐに詩乃に電話をかけたり、今どこにいるのかとメッセージを入れたりしないのは、柚子の自分の中にある、詩乃に対する罪悪感からだった。
詩乃がいない夜には、柚子は近頃の自分の行いを振り返って反省しながら、詩乃の用意した夕食を温めて食べた。そんな日が一週間、二週間と続き、ついに柚子は、兄に相談することにした。




