月の船(1)
五月四日、アナウンス部でナレーション台本を書いていた柚子のもとに、美奈がやってきた。ちょうど〈昼いち!〉の収録を終えたところだった。スムージーの紙ボトルを右手に、左手にはペンギンのスノードームを持っている。
「あっ」
と、柚子は声を上げた。
ペンギンのスノードーム。高校時代に詩乃が柚子に贈ったもので、柚子はそれを、最期の贈り物として美奈に渡していた。
「これ、返しますよ」
美奈は、スノードームを柚子に渡した。
柚子は、手を出そうかどうしようか、迷った。確かに柚子にとってそれは大事なものだったが、一度は手放したものである。それを今更返してもらうというのは虫が良すぎるのではないか、と思ったのである。
しかしそんな柚子の手を美奈は握りながら、半ば強制的にスノードームを柚子の手の中に押し込んだ。
「こんなの、私には重すぎます」
美奈が言うと、確かにそうかもしれないと、柚子も思った。一歩間違えれば、呪いの人形と同じような、曰くつきの品になりかねない。我ながら、とんでもないプレゼントをしてしまったものだと思い、柚子は苦笑いを浮かべながら、スノードームを受け取った。
「ご、ごめんねぇ……」
「いえ、私もずっと返さなきゃなって思ってたんですけど、なかなかちょうどいい時が無くて」
「あぁ、そうだよねぇ」
「今日、記念日ですもんね?」
うん、と頷こうとして、柚子は、「あれ」と首を傾げた。確かに今日は、柚子にとっては記念日だった。〈カレー記念日〉――林間学校で詩乃とカレーを食べたその日である。しかし、どうしてそのことを、美奈が知っているのだろうと思った。
柚子の不思議そうな顔を見て、美奈はケラケラと笑った。
「だって言ってたじゃないですか、あの時」
あの時――というのを、柚子は考えた。そうして、思い出した。数カ月ぶりに出社した日、美奈と、ワインで酔っぱらってしまったあの日。柚子は、色々なことを美奈に話したのは覚えていたが、何を話したのかは、あまりよく覚えていなかった。
「私、そんなことまでしゃべってた?」
「はい」
「うわぁ……」
柚子は、両手で顔を隠した。
周りで聞き耳を立てていたアナウンス部の同僚が、小さい笑い声を上げる。
「今日はこの後、デートですか?」
「うん、まぁ……」
柚子は、周りを見渡しながら、曖昧に応えた。
しかし美奈は、周りがこの話を聞いているのを充分わかって上で、柚子に言った。柚子が今、一般男性と同棲しているということは、週刊誌が報じたくらいなのでアナウンス部でも知らない者はいなかったが、そのことは公然の秘密となっていて、詮索はご法度のような雰囲気が、柚子に関してはあった。復帰したとはいえ、一度は死までを考えた柚子である。皆、柚子への接し方には注意を払っていた。
しかし美奈は、そんな関係者たちの、まるで腫れ物に触れるような態度が気に入らなかった。そういう態度が、かえって柚子を息苦しくさせているんじゃないか、と。
「昨日、新見さん、観てくれました?」
美奈が柚子に訊ねた。
昨日は、美奈がレギュラーで出ている夜の三十分番組で、小説家をゲストに招いた回が放送された。だから、というわけでは無かったが、その作家の小説を、柚子も最近読んだばかりである。
「あぁ、うん、観たよ!」
柚子が応えた。
「私、心の声漏れてませんでした?」
「え、心の声?」
あははと、美奈は笑って、それから言った。
「私ああいうタイプほんとダメなんですよね。カッコ悪いのにデキる男気取っちゃって、もう、ずっと寒くて震えそうでした」
躊躇った割にはものすごい毒を吐いたので、周りで聞いていた同僚たちは思わず、今度ははっきりと聞こえるような笑い声を上げた。こんなに堂々と、皆の前で毒を吐くアナウンサーは、美奈くらいである。ほんの数カ月前までは、美奈も、同僚がいる所ではそんな発言はしていなかったが、近頃は一転、言うようになった。
「菊池お前、そういう事絶対他の所で言うなよ!」
先輩の男が美奈に言った。
それでまた、他の同僚も笑った。しかし実際は、美奈の発言を皆楽しんでいた。
「言いませんけど、でも――『自己満足をしているうちはプロじゃありません。プロっていうのは、自分ではなく他人を満足させられるものを書ける人間です。だから僕は、自分の満足より、読者のニーズを考えます』――とか言うんですよ」
美奈は、茶化したような真似を交えながらそう言った。
放送での美奈はその後しっかり、『あぁ、だからあんなに面白い作品が書けるんですね。人気が出るのも、そのお話を聞いて分かった様な気がします』と応えていた。皆そのことを知っていたので、なおさら美奈の話は面白かった。
「立派なプロ論じゃないか。何が不満なんだよ」
男性上司が、美奈に突っ込んだ。
美奈は、小馬鹿にしたように笑って言った。
「私プロですけど自己満足が原動力ですよ?」
美奈があまりにもはっきり、しかも即座にそう返したので、上司もこれにはたじたじだった。何人かは、その気持ちの良い告白に吹き出して笑った。美奈と〈看板女子アナ〉の座を争っているライバルの若手アナウンサーは、そんな美奈の不遜な態度を面白く思っていなかったが、美奈も、そういう女子アナから陰口を言われようが、一向構わないと、相手にしていなかった。その、自分たちなど眼中にないという、歯牙にもかけない美奈の態度が二重、三重にライバルたちの自尊心を煽ったが、美奈はそれすらも、あえて気づかぬふりをしていた。
ところが、そんな美奈にも苦手な人物がいた。
「菊池さん、アナウンサーが自己満足だけじゃ困るんですけどね」
美奈の背後からそう声をかけて現れたのは、福美だった。
美奈は本能的に、福美には逆らわないようにしていた。
あちゃーと、美奈は顔をゆがめながら、ゆっくりと振り向いた。
「すみません、嘘です」
福美は、頬を引き結んで美奈を咎めた。しかしその目元は笑っている。
「――じゃあ、新見さん、デート、楽しんできてください」
美奈はそう言うと、逃げるようにその場から離れた。
「これ、ありがとう!」
柚子は、美奈に向かって言った。美奈は、「はーい!」と応えて休憩室に逃げ込んだ。
五月四日――詩乃は随分前から、その日の夜は明けておいてほしいと柚子から言われていた。「空けておくも何も、毎日空いてるよ」と詩乃は柚子に応えていた。なんとも情けないと思いながらも、事実は隠しようがない。少なくとも向こう一カ月、詩乃の予定はすべて白紙である。
柚子の希望で、その日も詩乃はレンタカーを借りた。もうすっかり常連になっている、ブラックカラーのスポーツセダン。自宅近くのレンタカーショップで車に乗って、そのまま柚子を、会社まで迎えに行く。
柚子を乗せた後は、そのまま、柚子が予約しているという店に向かった。
西麻布のカレー屋。
詩乃は車の中で目的地を知らされた時、柚子が〈カレー記念日〉というものを作っていたのを思い出した。きっと今日がその日に違いないと思い至った詩乃は、車を降りて、西麻布の住宅街を柚子に付いて歩きながら、頭を掻いた。
詩乃は、記念日のことなど忘れていたので、プレゼントを用意していなかった。
しかし柚子は、最初から詩乃が、この記念日を覚えているとは思っていなかった。詩乃が、一般的な男に輪をかけて、そういったイベントに無頓着なのを、柚子はとっくに承知している。
住宅街の中の一角、笹の木に囲まれた木造風の建物が、目当てのカレー屋だった。外からはとてもカレー屋には見えない、サロンのような外装である。看板も無く、誰でも気安く入れるような店ではないが、柚子はこの手の店には慣れていたので、迷いなく、店の扉を開けた。
店は完全個室で、二人はそのうちの一室に通された。
部屋は、布クロスの壁紙に落ち着いたオレンジライト。詩乃は、高校生時代の林間学校、カレーを作ったあの森の中を思い出した。
「麻布の店なんて、初めて来たよ」
席に座りながら、詩乃は言った。
「うん、そうだよね」
柚子は笑った。
柚子も最初、こういった隠れ家のような店に連れてこられた時は戸惑ったものだった。
「あの、今日ってさ……」
「うん、そうだよ」
確認もしづらい詩乃に、柚子は笑顔のまま頷いた。
「ごめん、完全に忘れてた」
詩乃は、頭を掻きながら言った。
「じゃあ、和歌作ってよ」
柚子が言った。
高校時代、詩乃はよく柚子に、和歌を作って送っていた。高校三年生の最初の〈カレー記念日〉も、詩乃はその日が記念日になっていることを知らず、柚子が詩乃に贈った靴のお返しとして、詩乃は柚子に和歌を贈ったものだった。
――このよるの間をば射止めよ弓張りのゆずらず当たれ月のひとやよ。
今でも柚子は、詩乃のその歌を覚えていた。
詩乃は、うーんと、柚子のリクエストに応えようとしたが、力なく首を振った。
「もう、作れない」
あっけなく白旗を上げた詩乃に、柚子は笑って「そっか」と応じた。今、たまたま思い浮かばなかっただけだよね、と柚子はそう思い込むことにした。柚子は詩乃の敗北を無かったことにして、取り繕うように、詩乃の忘れっぽさをからかった。
そうしているうちに、四種類のカレーと、特大のナンが運ばれてきた。ナンは、「特大」という文字が示す以上に特大で、テーブルの三分の一以上はナンに占領された。
テーブルの三分の一以上はナンに占領された。
「すごいね」
詩乃は思わず声を上げた。
柚子も、この店が巨大なナンを出すのを知っていたが、目の当たりにすると、思っていた以上の質量と存在感に驚かされた。ラッシーで乾杯をして、早速二人は、ナンをちぎりながらカレーを食べることにした。
緑、黄色、白、茶色――四種類四色のカレーは、それぞれに美味しかった。不思議なハーブの香りと、柔らかい肉と、そして何と言っても、ほんのりとバターの香りのするナン。ちぎってもちぎっても豊富にあるナンは、それだけでふつふつと、二人の笑いを誘った。
「ねぇ詩乃君、車なんだけど、どうかな?」
そう言ってナンを食べながら、柚子は詩乃の反応を見た。
「あぁ、買うかって話?」
「うん」
詩乃は苦笑を浮かべた。
この頃になると詩乃も、柚子の戦略がわかってきていた。近頃は何かと出かける時には、レンタカーで例のセダンを使わせようとする。買うとなれば柚子の貯金から払うことになるというのに、それでも、買うかどうかの判断を自分に委ねるというのが、なんとも柚子らしくて可愛らしい。
――でも、車の値段は、全然可愛くないんだよなぁ。
詩乃はそのことを考えて、これまでなかなか「買おう」とは言えなかった。
「中古車で、ちょうどいいの見つけたの。同じ車種と色で」
詩乃は苦笑いのまま頷き、降参の意志を示して言った。
「うん、そうだね……車、あった方が何かといいもんね。ずっとレンタカーってのも面倒だし」
「ホント? じゃあ、進めちゃっていい?」
「いいよ」
「じゃあ今度さ、一緒に車屋さん行こうよ」
「うん」
やったと、歓ぶ柚子を見て、詩乃はナンをちぎった。




