流れ星のささやき(6)
「ほら実、お名前は、だって」
紗枝は、実の小さな腕を振りながら実に言った。
「抱っこしてみる?」
紗枝は、詩乃に言った。
「いや、いいよいいよ、怖いよ」
詩乃はあとずさり、紗枝の申し出を辞退した。
紗枝は、詩乃の反応にからからと笑った。詩乃は苦笑しながら、再び実に顔を近づけた。すると突然、くしゃんと、実はくしゃみをして、その鼻水が詩乃の顔やらジャケットやらに飛び散った。
「おっ、と! あぁ、ごめん!」
紗枝は実をひょいっと詩乃の前から遠ざけて、謝った。
詩乃は、あはははと笑いながら、手で顔を拭った。
「大丈夫大丈夫、寒いからね」
詩乃は顔を拭った右手ひっこめ、自分のクシャミに驚いて泣きそうな実に、左手を伸ばした。柚子は、紗枝にポケットテッシュを渡し、紗枝はそれをうけとって、実の鼻水を拭いた。
「風のせいだよね」
詩乃はそう言いながら、実の小さい手を握った。
実も、詩乃の指をきゅっと握った。
「じゃあもうお家帰ろうかね」
詩乃は、実の手の甲を親指で撫でてそう言った。
「あー、服が……ごめんね、水上」
「いいよいいよ、元気な証拠だよ」
詩乃はそう言うと、「じゃあ、ばいばいだね」と、実に囁くように声をかけ、実との握手を終わりにした。柚子は、詩乃の知らなかった一面を見て、感動していた。詩乃は、紗枝からの手土産と、脱いだジャケットを後部座席に置いて、それから、柚子を助手席に乗せた。
バタンと、助手席のドアを閉めた詩乃に、紗枝は声をかけた。
「水上、また来てよ」
「え?」
「あと柚子の事――たぶん柚子には、君しかいないんだから」
詩乃は、小さく笑った。
「わかってるでしょ?」
詩乃の微笑の意味が掴めず、紗枝は少し不安になり、踏み込むように詩乃に確認した。詩乃は、柚子の事を心配している紗枝の様子が嬉しくて、頬を緩ませた。高校卒業からずいぶん時間が経ったというのに、未だ紗枝は、自分の事を頼りない男だと思っている、柚子の親友の紗枝のままだ。
そのことが詩乃は、嬉しかった。
「そんなの、月の数訊いてるようなもんだよ」
詩乃はそう言うと、運転席側に回り込んだ。
そうして運転席のドアを開ける前に、詩乃は立ち止まり、実と、まだ心配そうな紗枝に言った。
「あの……紗枝さんと、ミノル君も、元気で」
詩乃はそう言うと、運転席に入りドアを閉めた。
窓を開けた柚子が、「ばいばい」を紗枝と、そして実とかわし、詩乃はゆっくりと車を前進させた。
細い路地を抜けて、ふうっと息をついた詩乃に、柚子は話しかけた。
「お迎え、ありがとね」
「ううん。この車なら、運転楽しいし」
柚子は、にこりと微笑んだ。
作戦通り、というのもあったが、それよりも詩乃が子供に優しかったということが、柚子の心を温かくしていた。詩乃と実とのやり取りを思い出して、柚子は思い出し笑いを浮かべた。
「ジャケット、高かったの?」
「ううん、イチキュッパの安物だよ。行きに量販店で買って来た」
本当だろうかと、柚子は後部座席を振り返った。
それから、柚子は詩乃に言った。
「詩乃君、子供好きなんだね」
「どうだろう」
詩乃は、特別自分が、子供好きであるという自負は無かった。ただ、嫌いでは無いということはわかっていた。民宿で働いていた時、宿泊客には小学生の団体も多かったが、どんなに騒いでも、その爆発しそうな元気が楽しく、うるさいと怒るよりは、よく送迎バスの運転席で、一人バックミラーを見ながら笑っていたものだった。そしてまた、高校を出た後七年間住み込みで世話になっていた新倉家には、詩乃がやってきた当時三歳か四歳だった新倉家主人の孫がいた。春という名前の男の子で、詩乃はその子と、良い関係を築いていた。詩乃はその子――春からも、柚子と同じように『詩乃君』と呼ばれ、懐かれていた。
「実君可愛かったね」
「うん」
子供出来たら、可愛いんだろうねと、柚子はその言葉が出かかったが、呑み込んだ。
「向こうにさ、あの、茨城にいた時の話なんだけど、お世話になった家に、三歳くらいの男の子がいたんだ」
「あ、前ちょっと話してた子だよね。えっと……春君だっけ?」
「そう。春も、可愛かったんだよね」
詩乃はそれから、春との思い出を柚子に話した。
実は、東京に戻ろうと決めた詩乃の、一番の泣き所は春だった。春がもう少し大きくなってからにしようかと、本気で詩乃は悩んだのだ。向こうに残る理由はほかにいくらでもあったが、詩乃にとっては、残るかどうか、それを決める時に真っ先に考えていたのは、春の事だった。詩乃にとっては、春はもう他人の子、というようには思えなかったのである。
詩乃が出て行くことを親伝に知った春はその夜、詩乃の部屋にやってきた。その時のことは、詩乃は鮮明に覚えていた。三年前、春はまだ、小学校の五年生だった。
「行っちゃうの?」
と、春は詩乃の座る椅子の傍に寄ってきて、そう言った。
その、いかにも寂しそうな目に、詩乃は、作り笑顔も見せられず、「大人の事情なんだ」という風に、自分の感情を隠してはぐらかすこともできなかった。春を置いて出て行くことの罪深さに、詩乃はただ「行かなきゃいけないんだ」と、あたかも、誰かに決められたことのように、そう言うのが精いっぱいだった。
「勝手だよねぇ、大人は」
春との思い出話をしたあと、詩乃はそう言った。
「でもそうやって、子供の悲しい気持ちに向き合える大人って、私良いと思うな」
「だけど自分は薄情だよ。結局春にはそれから、一通の手紙も書いてない。新見さんにだってそうだったでしょ? 呼ばれた結婚式も平気ですっぽかすし、ダメなんだ、自分は、本当に」
「詩乃君には詩乃君のペースがあるんだよ。私はそんな事で、詩乃君を薄情なんて思わないよ」
「新見さんのことは、本当に、大切にしたいと思ってるんだけど……」
だけど、どうしていいのかわからない、というのが今の詩乃の状態だった。新見さんを大切にするとはどういうことなのか、何をすればいいのか、詩乃にはわからなかった。柚子に『結婚しなくてもいい』と言われたあの瞬間から今日まで、この問題に関する詩乃の思考はこんがらがった毛糸のごとく、解けていなかった。
結婚すれば、就職をして稼げるようになれば、それで柚子は安心できて、それが柚子を幸せにすることだと詩乃は信じていた。その責務を果たせないなら自分の価値なんて、一体何なのだろう。
詩乃があまりにも思いつめたような沈黙を作るので、柚子は「そういえば――」と話し出した。
「ちーちゃんも、詩乃君に会いたがってたよ」
「ちーちゃん? ――あぁ、雨森さんか」
「今は二宮さんね」
「あー、そっか」
「今日天城高原のホテルに泊まって、明日旦那さんと山歩きなんだって」
天城、という単語に詩乃は、ぞくりとした寒気を覚えた。一度も行ったことのないその天城という場所は、しかし詩乃の中では、恐ろしい所という認識があった。
「天城かぁ……」
詩乃が感慨深そうに言うので、柚子は訊ねた。
「行った事ある?」
「無いけど、有名だから」
「あぁ、歌にあるもんね」
「それもそうだし、小説も……読んだことある?」
「どんなお話?」
詩乃は、松本清張のその作品のあらすじを、ざっと柚子に話した。そうしてその短編を読んだ時に浮かんだ、天城の山、その峠の恐ろしさと寂しさを。
「切ないお話だね……」
詩乃からその小説のあらすじを聞いた柚子は、そう言った。
「うん。そんな動機で人なんか殺さないだろって言う人もいるんだけど、自分は、わかる気がするんだ。だから、怖いんだ」
「詩乃君は――人殺したいって、思った事ある?」
詩乃は、柚子の質問にぎょっとした。
しかし驚きはしたが、詩乃はしっかり応えることにした。
「あるよ。――父親を」
今度は、柚子が息を呑む番だった。
詩乃の父は、詩乃が高校三年生の時に白血病で死んだ。その事は柚子も良く知っていた。その通夜は、ちょうど文化祭の最終日だった。その日柚子は斎場に行き、その時詩乃は柚子に言ったのだ。『死んじまえって、一言でも言えなかったのが、本当に悔しい』と、涙交じりの目で。その時のことを、柚子はよく覚えていた。
「今も、思ってる?」
「うん」
詩乃は、はっきりと答えた。
そっか、と柚子は短く応えた。千代が言った『三つ子の魂百まで』という言葉が思い出された。詩乃の殺意や、その裏にある悲しみの深さを感じ、柚子は少しでも詩乃の傷を癒してあげたいと思った。
「新見さんは?」
詩乃は、躊躇いがちに訊ねた。
「あるよ」
柚子も応えた。
それから柚子は、詩乃が驚く間も与えずに言った。
「――私を」
詩乃は、目を見開き、条件反射のように柚子の手を握った。
柚子は、詩乃の反応に笑った。
「今は全然。そんな事思ってたのが嘘みたい」
柚子はそう言ったが、詩乃は、柚子を握る手の力を強めた。詩乃の体温はダイレクトに、柚子の心臓まで浸透した。
「冗談でも新見さんの死ぬところなんて、想像したくない」
詩乃の言葉に、柚子は胸を打たれてしまった。
「ごめんごめん、嘘だよ」
柚子は、泣き出した子供を慰める様な慌てようでそう言って、右手を握る詩乃の手を両手で包み込んだ。そうされると詩乃は、思いがけず目頭が熱くなった。
詩乃は、汗を拭う振りをして目に滲んだ涙をぬぐい、鼻を啜った。
「ちょっと暑いね」
詩乃は、心配そうにのぞき込んでくる柚子にそう言って、窓を開けた。ごおおっと、高速道路の突風が車内に吹き込んできて、柚子の髪がばさっと乱れた。「ちょっと」と、柚子は笑いながら詩乃に抗議して、髪を押さえた。
「あ、ごめん」
詩乃はそう謝りながらも、わざと少しだけそのまま、柚子が風に困る様子を横目で楽しんだ。
三島からの帰り道、二人は夕食を途中のサービスエリアで(並んでラーメンを)食べた。そうして高速を降りた後、そのインターチェンジ近くにある本屋の大きな電光看板を見て、柚子が言った。
「詩乃君、本屋さん寄って良い?」
「うん、いいよ」
詩乃は車を、その本屋の駐車場に入れて、二人で本屋に入った。
本屋に入ると、詩乃は専門書、新書のコーナーに真っすぐ歩いた。最初は柚子も、詩乃の後についていった。詩乃は、他も一通りまわるものだろうと柚子は思っていた。柚子は、文芸書を買おうと思っていた。
ところが詩乃は、柚子の予想に反して、新書のコーナーから動く気配を見せなかった。向かい合う棚の社会学や心理学、隣の図鑑関係の書籍の表紙や背表紙を眺めるだけ。新書のコーナーか文芸書のコーナーには行くには、雑誌類の数棚を越えなければならない。
「買ってきていいよ。自分はここにいるから」
詩乃は柚子にそう言った。詩乃は他の棚――特に文芸書のコーナーには、入りたくなかった。柚子もどこか居心地の悪そうな詩乃の様子を見て、「一緒に見ようよ」というような駄々をこねるのはやめた。
「じゃあちょっと、見てくるね」
柚子はそう言い残して、文芸書のコーナーに向かった。『今一番話題の』『最高に泣ける』『傑作ミステリ』などの文字が、平積みの本の帯や、手書き風のポップに踊る。『〇〇賞受賞』『〇〇万部』『○○部門第1位』――。
『水上が、プロの作家になれると思ってる?』
柚子は、紗枝のその質問に、答えを出さなければいけないような気がしていた。なれたらいいな、ではなく、彼なら絶対になれる、と、紗枝が剛巳さんを信じた様に、自分も詩乃君を信じることができているのだろうか。
柚子は、文芸書のコーナーの中で、一番もてはやされて、派手に宣伝されていた本を幾冊か買った。
柚子も、本は読む方だったが、柚子の読む本は、名作文芸と呼ばれている、少し古い本が多かった。もともと大学時代にはイギリス文学を勉強していたので、一般的には古典として扱われているくらいの作品の方が、柚子の肌にはなじんだのだ。
会計を終えた柚子は、本を入れた袋を持って詩乃の待つ新書のコーナーに戻った。結局詩乃は何も買わず、柚子と一緒に車に戻った。
その日詩乃は、家に帰ってからも、柚子に「何の本買ったの?」という質問は一切しなかった。柚子には、買った本を打ち明けて、それを肴に詩乃と文談をしてみたい気持ちもあった。しかし柚子は、これから自分がしようとしていることを考え、とてもそんな気軽な提案はできないと思った。
これから柚子は、買って来た流行りの小説と詩乃の小説を比べようとしているのだった。それは、柚子には恐ろしいことだった。詩乃の信頼を裏切る行為そのもののような気もしていた。しかし柚子は、自分の中に起こるその詩乃への後ろめたさを、紗枝の言葉を思い出して払拭した。
『本当に彼が小説家になれると思うの?』
――私は、なれてもなれなくても、詩乃君が良い。
『それは逃げだよ。そんな答え、彼は求めていない。彼の成功を信じてるの、いないの?』
――私は……。
『柚子、どうなの?』
自問自答の最後は、紗枝の声と自分の声が重なって聞こえてくるようだった。