流れ星のささやき(5)
夕方になり、千代の帰る時間になった。千代はこの後、仕事を終えた旦那の勝と三島で待ち合わせをしていて、そのまま今日は天城高原のホテルに行くのだという。そして明日は朝から天城山を歩くことになっている。山歩きは千代の趣味だが、それに休みまで連れまわしちゃっていいのかと紗枝が聞くと、千代は「放っておくとどんどんメタボが進行しちゃうから」と笑った。
また会おうね、と門の前まで柚子と紗枝(ぐずりながら起き出した実を抱っこしている)は千代を見送った。そうしてリビングに戻ってきた紗枝は、柚子に訊いた。
「そう言えば柚子は、明日仕事なんだよね?」
「うん」
「朝から?」
「ううん、十一時出社」
「それなら、もしアレだったら、今日このままここに泊まっちゃってもいいよ。十一時だったら、明日起きてからでも間に合うでしょ」
「あー、でも今日は、詩乃君迎えに来てくれるんだ」
「え、そうなの!?」
柚子は、恥ずかしそうに頷いた。
実は、柚子は、紗枝の家に行くことになった時に、詩乃に迎えをお願いしていた。あのアルファロメオで、迎えに来てほしい、と。そこには柚子なりの策略が色々と張り巡らされていたが、詩乃はそんなこと考えもせずに、柚子の願いを聞き入れた。
「ここまで?」
「うん」
と、柚子は詩乃とのメッセージのやり取りを見せた。柚子が送った紗枝の家の位置情報の下に、詩乃からの「了解」の絵文字の返信がある。
「水上、免許持ってるんだ」
「大型二種持ってるよ」
「えぇ! なんで!?」
「民宿の方で必要だったんだって」
「あぁ、なるほどね。柚子は、無いんだっけ?」
「うん」
「じゃあ車は、水上の?」
「ううん、レンタカー」
柚子はそう言ってから、こっそりと、紗枝に教えた。
「詩乃君、気に入ってる車あるのに買うの遠慮するから、もうちょっと欲しがってもらおうと思って、今日もお迎え頼んじゃったんだ」
「柚子のお金で?」
「まぁ、そうかな」
「そりゃあ、遠慮するでしょ普通。外車?」
「うん。アルファロメオのセダン」
「欲しいなんて言えないよそりゃ。私ちょっと、水上に同情しちゃうかも」
「えー、なんでよ」
柚子の反論に、紗枝は額に手をやった。
紗枝の胸元で、実はぽかんと口を開けている。
「水上も男なのよ柚子。だから女の方にねだったり、買って貰ったりっていうのは、プライドが許さないんじゃない? 柚子はそれでいいかもしれないけど、頭上がらなくなるでしょ、水上の方は。それは結構、ストレスになる人はなるって言うし」
うーん、と柚子は悩んでしまった。
紗枝に言われると、確かにそうだと思ってしまう。そして柚子は昔、姉にもそんな事を言われたのを思い出した。『男はプライドの生き物なんだから』と。
少し深刻な表情になりかけた柚子を見て、紗枝が言った。
「だから柚子、そこは上手く舵取りしてやるのよ。男って、まぁ、千代の旦那みたいなタイプはそんなこと無いかもしれないけど、うちの旦那とか、水上も多分そうだと思うんだけど、自分の舵取れないタイプいるでしょ? 放っておいたら生きていけないようなタイプ」
柚子は思わず笑ってしまった。
紗枝の旦那の剛巳も、実はかなりの破滅型だという事は、柚子も知っていた。親と喧嘩して浅草の実家を飛び出して、流れ着いたのがこの三島。しかしそこでの剛巳は、自堕落な、どうしょうもない生活をしていた。ずっと剛巳のことが好きだった紗枝は、剛巳の壊滅的な一人暮らしの様子を見て、三島に移り住むことを決意したのだ。大学四年生に上がる春の事である。柚子もそのとき、どうすべきか、紗枝から相談を受けたことがあった。後にも先にも、紗枝からの深刻な相談は、その時だけだった。
そうして紗枝は、大学四年の一年間と、卒業してからの数年、半同棲という形で剛巳をサポートしていた。今となっては剛巳は、三島でも観光ガイドに載るような店の板前をしているが、剛巳が持ち直したのは、紗枝の内助の功によるものだった。そういう経緯を知っている柚子には、紗枝の言う事の重みと説得力はひとしおだった。
「――でもね、そういう男に限って、女の方が面倒見ようとすると、絶対にそれを嫌がって、逃げようとする」
「あぁ! そっか、そうだったのかな!?」
柚子は紗枝の言葉で、十年前の詩乃との別れの事を思い出した。柚子は、ずっと解けずに、心の沼の奥底にしまっておいた問題の鍵が、今解けた様な気がした。カチっという音さえ、聞こえてくるようだった。
実が、柚子の声に驚いて泣きそうになった。
柚子はすぐにそれに気づいて、「ごめんごめん」と、実に笑顔を見せてその柔らかい頬を撫でた。泣く準備をしていた実は、涙だけを一滴零し、柚子の笑顔に合わせて笑った。
「紗枝ちゃんは、どうやったの」
実を脅かさないように、声を潜めて柚子が言った。実が、柚子の発音を真似して、「さ」と「ど」だけがはっきり聞こえる難語を発した。紗枝は笑いながら、実を揺すった。
「私は直球だよ。早く一人前になって私を養えって」
「えぇ! そう言ったの?」
「まぁ言い方は、いろんな言い方したけど、うん、でも、ほんと直球で言う事もあったよ」
えー、と柚子は驚いてから紗枝に訊ねた。
「それがコツ?」
「そ」
と、紗枝はにやりと笑って頷いた。
「でもそれ、プレッシャーにならないかな……」
「そのプレッシャーがいいんじゃない」
紗枝が言った。
「それで一旗揚げてやろうって野心の無い男じゃダメよ? でも、水上はどうなのよ。小説一本でやってやろうって気、ないの?」
「それは、絶対あると思う」
「まぁ、そうよね。だから柚子は悩んでるわけだもんね」
こくん、と柚子は頷く。
その頷き方が、高校時代と変わらないなと思い、紗枝は笑った。
「で、柚子はどう思ってるの?」
「え?」
「水上が、プロの作家になれると思ってる?」
柚子は唇を結んだ。
「私は、タケちゃんは、絶対に板前になると思ってたのよ。ぐーたらしてて馬鹿っぽいタケちゃんだけど、まな板の前に立って、包丁握って、魚掴んでるときは、やっぱり違ったのよ。まだ全然、弟子でもなんでもない、中学生くらいの時のタケちゃんでも、あぁ、この人はこの道のプロになるんだろうなぁって、なんか思っちゃって。それに鰻も――美味しかったでしょ?」
「うん」
と、柚子は深く頷いた。
「タケちゃんの鰻の蒲焼、まだ向こうにいた時に食べたことがあるんだけど――あ、タケちゃんがタレから何からこっそり作ったヤツなんだけどね、それ、食べた時実は私ね、タケちゃんのお父さんのより美味しいって思ったのよ。界隈じゃ一番だなって」
「え、あれ、でも紗枝ちゃん、鰻の味はわからないって――」
柚子は、高校時代の記憶を頼りにそう言いかけると、紗枝はあっはっはっはと、大きな声で笑った。実がまた、目を満丸くして驚く。
「嘘に決まってるでしょ。浅草に鰻食べさせる店、何軒あると思ってるの。恥ずかしかったのよ、タケちゃんの鰻が一番美味しいなんて、そんなこと言えないでしょ。――でも、内心ね、そう思ってたのよ。そんな腕がありながら、自暴自棄でダメになっていっちゃうの、勿体ないじゃない。というか、私が嫌だったのよ。で、やっぱり本人も、俺にはこの道しかないって言うから、じゃあそれで身を立てて養いなさいって、そう言ったの」
「でもよくそんな風に……もし――」
「それで、もしプレッシャーに耐えられないとかで挫折したら、私も、もとからプロは無理だったんだって諦めるつもりではいたわよ。私だって別に、厨房に立つタケちゃんは好きだけど、板前じゃなくなったら好きじゃなくなるなんてわけじゃないし。そしたら、それはそれで、違う人生だったとは思う。――でももしかしたら、そうだったら結婚はしてなかったかもね。向こうが、耐えられないだろうから」
紗枝は実の頭を撫で、「ね」と、恥ずかしさを隠すように実に同意を求めた。
「紗枝ちゃん、すごいね……私――」
「いやいや」
と、紗枝は、柚子は自信を失ったような顔をするので笑ってそれを、先んじて否定した。
「私から見たらね、柚子の方がすごかったわよ。今もだけど、その一途さって、千代とも必ず話題になるんだけど、柚子、水上のことは本当に頭のてっぺんから足の先まで信じてるでしょ」
「だけど私、紗枝ちゃんみたいに上手くできない……」
「私だって別に、上手くやったわけじゃないわよ。でも、やっぱり血なのかしらね、博打は好きなのかも。だけどそんな博打打ちの私から見ても、柚子はトリッキーよ」
「トリッキー、かな?」
「そりゃあもうね」
ふふふと、二人は笑い合った。
時間になり、レンタカーのアルファロメオに乗った詩乃が、浅茅家の門の前に車を止めた。紗枝は実を抱いたまま、柚子の見送りで門の前まで出た。詩乃と紗枝が顔を合わせるのは、高校の卒業式以来である。
「ホントに久しぶりだね。なんか、がっちりしたねぇ」
紗枝は、詩乃の姿を見て言った。
白シャツにテーラードジャケット、それに細身のパンツというシンプルな装いなので、ボディーラインが良くわかる。高校時代の、紗枝が記憶している水上詩乃より、随分体格が良くなっていた。しかし纏っている雰囲気はそのままだった。顔立ちも、子供のあどけなさが抜けて、いっそう哲学者じみて見える。
「あ、新しいジャケット?」
柚子は、早速服について詩乃に訊いた。
柚子は再会以来、詩乃のこのジャケットスタイルは見たことが無かった。詩乃の持っている服は、数も少ないので、全て把握している柚子である。詩乃の持っているジャケットは黒のダウンジャケットだけで、コートも茶のダッフルコート一枚だけ、その他に上着は、濃灰色のカーディガンのみだ。
高校時代にはデートの時に幾度か柚子は、詩乃のカジュアルジャケット姿を見たことがあったが、今と昔では印象が全く違った。肩幅が広くなったせいか、力が抜けているせいか、寒そうなポリエステル生地でも、柚子には詩乃が格好良く見えた。
「うん。途中で買って来た」
詩乃はそう応えると、紗枝に抱かれていた実に指を伸ばした。実は、不思議そうに詩乃の指を眺めた。詩乃は指の形を変えて、キツネを作ったり、トンボを騙すようにぐるぐると指先で渦を描いたりして、最後にはちょこんと、実の掌に触れた。実は、「ほ」の口をして、驚いている。
「元気?」
と、詩乃は実の前に手を振りながら、いつも通りの声音で実に言った。
実は、詩乃の真似をして、ぶんぶんと片手を振った。
掌同士が合わさり、詩乃は思わず笑った。
「ほら、詩乃君だよ。将来の柚子の旦那さんだよ」
紗枝は、詩乃に実を傾けながら言った。
詩乃は微笑し、実の目をじっと見つめた。黒目が、本当に黒目で、黒曜石のようだなと詩乃は思った。
「多田さんももうお母さんなんだね」
「もう多田じゃなくて、浅茅だよ」
「そっかぁ……」
そう言いながら、詩乃はぽんぽんと、実とハイタッチを繰り返していた。
「お名前は?」
詩乃は、小学生くらいの子供を相手にするくらいのつもりで実に聞いた。
実は、「はーい」と応え、それがその場の三人を笑わせた。




