流れ星のささやき(4)
紗枝は、柚子の子守能力に感心してしまった。実も、決して人見知りな方ではないが、そうとは言っても、歳相応には人見知りだ。知らない人が家に来ると、とりあえずは泣くか、自分にしがみついて、見知らぬ人物からの視線を避けようとする。
ところがどういうわけか、柚子とはすっかり、打ち解けてしまった。柚子の笑顔と声には、昔から不思議と人を安心させる力があったが、こんな小さな子にまで効くのかと、紗枝は驚いた。
「柚子、なんか、慣れてるね」
千代も、感心しながらそう言って、紗枝の淹れたコーヒーを啜った。
紗枝も、千代の隣に座り、コーヒーを飲んだ。
「実はもう子供いるとか?」
紗枝が言った。
千代は「まさか!?」と目を満丸くして紗枝を見たが、柚子は笑って応えた。
「まだいないよ」
「ご予定は?」
「こら紗枝ちゃん、ミノル君の前で変な事聞かないの」
そう言って窘める柚子の頬は、言葉の後にだんだんと赤くなった。
にやりと、紗枝は笑みを浮かべ、千代はそれを見てくすくす笑った。
「にょお、にょお」
「うん、にょろにょろヘビさんだね」
「にょお」
「そうそう」
柚子は、握って持つとかくかく左右に動く赤いヘビのおもちゃで実の気を引いた。実は、普段はそのおもちゃを怖がって近づかないが、柚子が、動くヘビに小さくパンチする様子を見せると、実もそれに倣い、動くヘビの頭を狙って、ひょい、ひょいと、猫のようなパンチを繰り出して遊んだ。
手を変え品を変え小一時間、柚子は実と遊び、最後実は、柚子の膝の上で、柚子の『Feed the birds』を聴きながら眠ってしまった。紗枝は隣の和室に実を運び、起こさないように布団に横たえると、力の抜けたその頬を撫でてから、リビングの二人の元に戻った。
「もうぐっすり」
リビングに戻った紗枝は、襖を閉めながら二人に言った。
「柚子、ありがとね、なんか実の子守りさせちゃって」
「ううん。ずっと遊んでたかったよ」
「え、じゃあベビーシッターお願いしようかしら」
「ダメだよ紗枝、柚子は高いよ」
「やめてよもう」
柚子はそう言いながら、一人掛けのソファーに座り、紗枝が淹れ直したコーヒーを飲んだ。
「でもこりゃ、柚子は良いお母さんになるわ」
千代が言うと、紗枝主頷いて言った。
「私も、三つ子の魂百までって言うから、実とはたくさん遊んであげようと思ってるのよ。でも、柚子は云うなれば、遊びのプロね。恐れ入ったわ」
紗枝が言うと、柚子は恥ずかしそうに笑った。
「そういえば紗枝、教育学部出てるんだもんね」
千代が言った。
「まぁ、だからってわけじゃないけど、子供の頃のことが、良くも悪くも一生に渡ってその子の人格とか人生に影響していくっていうのは、確かにそうなのかなって思う所はあるからさ」
「呪いみたいだね……」
柚子は、ぽつりとつぶやいた。
紗枝は笑いながら反応した。
「悪く出ればね」
「いやぁでも、改めて驚きだよね。水上君と再会して、一緒に住んでたなんてさ。――だって、卒業以来一度も会ってなかったわけでしょ? しかも京都ででしょ?」
千代が言った。
「ちょっと信じがたい恋愛してるよね」
と、紗枝も同意する。
柚子はもう二人には、詩乃との再会の事や、それからのことなど、隠さずに話していた。そして話題はまず、自然と結婚の話へと流れていった。いつ結婚するのかと訊かれて、柚子は難しい顔をし、紗枝と千代はそれを見て、問題は詩乃にあるのだなと悟った。
「また、自信がないとか言ってるんじゃないの?」
少し呆れた風に、紗枝が言った。
高校時代の同級生だからできる無遠慮な指摘に、柚子は言葉を詰まらせた。
「え、そうなの?」
千代は、柚子に確認のため聞いた。紗枝はもう一押し、柚子が答えるのを躊躇っている間に言った。
「絶対そうでしょ。柚子が結婚に条件つけるわけないし、水上と結婚したくないわけないし。でしょ、柚子」
柚子は、困ったなと、口元をコーヒーカップで隠した。
このあたりが、大学時代の同級生や、社会人になってからの友達とは違う所だった。つまりは、隠せない。隠せないだけでなく、向こうもこっちも、大事な部分に平気で踏み込んでいける。
「え、でもご家族の反対ってこともあるでしょ」
千代が言った。
それに応えたのも紗枝だった。
「いやぁ、千代。柚子は、水上の事になると岩みたいに頑固だからね、家族が仮に反対したとしても、進めちゃうでしょ」
「確かに」
紗枝の意見に、千代も尤もだと思って笑った。
「いやぁ……実は、そうなんだよねぇ」
柚子は、ため息交じりに白状した。
「水上は、今何か仕事してるの?」
「ううん。私のために仕事、辞めちゃったんだ」
ふーんと、紗枝は相槌を打ち、少し考えてから訊ねた。
「でも今は、仕事しても大丈夫なんでしょ、水上」
「ま、まぁ、そうなんだけど、でも……私は、しないでほしいんだよね」
え、と紗枝と千代は、顔を見合わせた。
「主婦やってほしいって事?」
紗枝が訊ねた。
「ううん。――小説を書いててほしいの」
柚子の発言から少し間を開けて、今度は千代が柚子に訊ねた。
「水上君は、何て言ってるの?」
「結婚したら、働くって」
千代は首をひねった。
「柚子、それはね、水上の感覚が普通だよ」
紗枝はまずそう言った。
それに対して柚子は「でも――」と、反論しようとした。しかしそれより早く、紗枝が言葉を続けた。
「――でも柚子が、水上の才能を信じるんだったら、有りかもね。千代、どう思う?」
「うーん、でも、確かにね。柚子と水上君だったら、そういうことでも、いいのかもしれないのかな……。でも普通は――」
「うん、普通は、ありえない」
千代の言葉の最後を、紗枝が拾った。
「私は、詩乃君が小説家でデビューしても、しなくても、どっちでもいいんだけど……」
柚子が言うと、紗枝は少し強い口調で言った。
「でもそれじゃ、水上は納得しないでしょ」
「そうかな?」
「そう思うけどなぁ、私は。責任感の無いちゃらんぽらんな男だったらいざ知らず、水上はさ、柚子を支えたいと思ってるから、働くって言ってるわけでしょ」
そこへ千代が、口を挟んだ。
「でも実際、柚子を支えるって、相当難しいよね。あ、経済面でね」
千代の現実的な指摘に、紗枝はうんうんと、笑いながら頷いた。
と、そこへ、リビングの庭側のガラス戸を、外からコンコンと、叩く者があった。
四角い顔をした角刈りの男――浅茅剛巳、柚子の旦那である。
「お待ちどうさん」
剛巳は、岡持ちを縁側に下ろし、その間に紗枝は、ガラス戸と網戸を開けた。剛巳は、近くの料理屋で働く板前なのだ。そのことは、千代と柚子もよく知っていた。会ったのは二人とも、紗枝の結婚式以来である。
剛巳は、日に焼けた頬に引きつらせたような笑みを浮かべ、二人に頭を下げた。こんにちはと、柚子と千代も、挨拶をした。
「あれ、実は?」
「寝ちゃった」
「あぁ、そうか。――あ、お二人とも、ゆっくりしてってください。今日は俺も、飲んでから帰りますんで」
剛巳は、親指と人差し指で猪口の形をつくり、それをくいっと飲み干すようなしぐさをしながら言った。面白い人だなと、二人は笑った。剛巳は三人分の特上うな重を紗枝に渡すと、ぺこぺこと頭を下げつつ庭を横切って門を出て行った。剛巳の姿が消えた後、ブロロロロと、カブの排気音が聞こえ、その音もやがて遠くに消えていった。
「二人ともお腹空いたでしょ。食べちゃおうよ」
紗枝は、うな重の一段重箱、漬物、吸い物をテーブルに配膳した。
そうして三人は、特別な煎茶で渋い乾杯をして、少し遅めの昼食となった。
「美味しい! うな重なんてもう、随分食べてないよ」
千代が言った。
「タケちゃんってさ、家事とかもうてんでダメだけど、割烹の腕だけは確かに、プロなんだよねぇ」
紗枝はそう言って、お吸い物を啜った。
「あぁこれ、剛巳さんが作ってるんだ」
「うん。鰻はもう全部、任せてもらってるんだって。まぁ元が鰻屋の息子だからね」
「あぁ、そっか。そうだよね」
柚子は、紗枝と剛巳が今に至るまでの年月を思って、やたらと感心してしまった。
「でもさぁ、千代の旦那さん――勝さんは、真面目でしょ?」
紗枝が、千代に話を振った。
「うん、真面目だよー。本当にね、几帳面。感心しちゃう」
「それ、うちの旦那にも爪の垢煎じて、ちょっと飲ませてやりたいよ」
「えーでも、いいじゃない紗枝は、こんな料理作れる旦那さん。板前さんなんてさ」
「鰻無かったらもう、ただのぐーたら男よ。休みの日なんて一日中寝てるし。旅行なんて行けやしない」
「休みの日ぐらい休ませてあげなよ」
「勝さんは休みの日って、寝て過ごしてる?」
「いやぁ、うちはね……私が旅行誘っちゃうと、細かいスケジュールまで決めてくれて……」
あっはっはと、紗枝は笑った。
「休みの日も几帳面なんだ」
「もう本当に、ちょっと可愛そうになっちゃうもん」
そうなんだ、と柚子は、二人の話を聞いていて、何か、気が楽になるのを感じた。そして柚子は、もしかして二人は、自分を励ますために、こういう話をしてくれているのかなと思った。千代と紗枝はそれから、それぞれの結婚生活などを披露しあった。
紗枝は専業主婦、千代の旦那は建設会社に勤めるサラリーマンで、千代自身は、理容室の副店長をしている。二人が遠慮なく家庭内の話をするので、柚子も自分の話がしやすかった。三人で話していると、時間はあっという間に過ぎて行った。




