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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
後日譚,霧の夜は二人だけ
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流れ星のささやき(1)

 四月に入り、柚子の番組も始まった。東京の桜も散り落ちた頃には、柚子もすっかり、週四から週五の仕事のペースを取り戻した。しかし詩乃は、心も体も元気になった柚子に「いってらっしゃい」を言うたび、自分の存在が薄まっていくような気がしていた。


 三月の懸賞に出した長編小説を書いた後、詩乃は今度こそ、抜け殻になっていた。もはや自分の中には、書くほどの何かが無い。試しにワープロソフトを開いて、キーボードに手を置いてみても、書くべき文字が全く思いつかなかった。「あ」だとか「い」という文字一つ、打てない状態になっていた。


 その上詩乃は、朝から酒を飲むようになっていた。柚子を見送った後、昼間までに蒸留酒ならショットグラスで三、四杯、ジントニックやウォッカトニックなら、タンブラーグラスで一、二杯。それくらい飲むと詩乃は、ほろ酔いよりも酔いが回って、眠ってしまう。そうして起きると、ちょうど夕方頃になっているので、夕食の準備を始める。


 仕事から帰って来る柚子に、詩乃は目を合わせられなかった。柚子は「ただいま」と、詩乃に満面の笑みを向け、日によっては帰って来るなり詩乃に抱き着いたりしたが、そうされると詩乃は、柚子が働いている間の自分の自堕落を思って、消えてしまいたいような気持ちになった。


 朝食や柚子の弁当や、そして夕食を、詩乃は丹精込めて作っていたが、それは柚子のためというよりはむしろ、自分のため――罪滅ぼしのような気持ちの方が強かった。


 そんなある日、詩乃は志波清彦に会うことになった。


 清彦は、詩乃の働いていたオムライス専門店の店長である。清彦と詩乃は、職場の上司と部下というより、部活の先輩後輩という関係に近かった。清彦は去年の十二月の頭頃に結婚を決めて、この三月に結婚式をした。その式に実は詩乃も呼ばれていたが、結局詩乃は、式には出席しなかった。それどころか、出欠席の連絡さえ、清彦に返していなかった。


 そんな清彦から電話が来て、詩乃は驚いた。


 世話になった清彦に義理を欠いた自分が、今更どの面下げてと思い、詩乃は、スマホにかかってきたその電話に出るかどうかも迷った。しかし結局電話に出て、会うことになった。清彦は、詩乃が思っているほど、詩乃に対して悪い感情は持っていなかった。




 詩乃にとっては久しぶりの北千住。


 駅の近くに最近できたピザ専門店で、詩乃は清彦と会うことになった。


 四月の土曜日、温かいというより暑い日になった。そのの日の昼間。待ち合わせの店の前で、詩乃は清彦を待った。やってきた清彦は、ジーパンにTシャツという相変わらずのラフな格好で、詩乃を見つけると、「よぉ」と手を上げた。


「志波さん――」


「おい、元気だったかよ。――まぁ、入ろうぜ」


 清彦は、詩乃に謝る時間を与えず、店に入った。


 煉瓦を模した壁紙に、少人数のテーブル席をいくつか備えた小さな店。カウンター席の上には、ワイングラスが逆さに吊るしてある。清彦と詩乃は、テーブル席に座り、早速ピザを二枚注文した。


「――ここ、なかなかなんだ。俺、先週も来ちゃった」


 清彦は、あくまでフランクに、詩乃に接した。詩乃は、清彦からそんな自然な振舞いをされると、どうしても謝罪の一つくらいはしなければ気が済まなくなった。


「志波さん、あの、すみませんでした、色々と――」


 謝りたいことは、詩乃にはたくさんあった。


 結婚式のことは当然として、店のことも。「暫く出られない」と連絡をしたきり、清彦からメッセージが届いても、返事を返さなかった。そしてその前、詩乃の最後の仕事の日、クリスマス・イヴの一番忙しくなる時に、いきなり店を飛び出してしまった。それら一切について、詩乃はまだ、清彦に謝っていなかった。


「いいよいいよ、気にすんなよ。俺も気にしてないし」


 清彦は、メロンソーダを飲みながらそう言った。


 本当は酒を飲みたいけど、これから夜シフトで入ってるんだと、言い訳のようにそんな事を清彦は言った。詩乃はホットコーヒーを頼んでいたが、なかなか、飲む気にはなれなかった。


 そんな、俯きがちな詩乃に清彦は言った。


「忙しかったんだろ?」


「うーん……」


 清彦は笑った。


「まぁいいよ、俺も、細かいこと嫌いだからさ」


 清彦はそう言うと、運ばれてきたピザ皿に手を添えた。


「志波さん、結婚生活は、どうなんですか?」


 詩乃は、そんな質問を清彦にしてみた。清彦は、五年間の同棲の末に結婚して今に至る。詩乃はそういったことを、清彦から聞いて知っていた。同棲するくらいなら結婚すればいいのにと思っていた詩乃は、そのことを清彦に言ったことがあった。その時には清彦は、準備期間が無いと怖いじゃないか、というようなことを詩乃に言った。しかし詩乃は、同棲は結婚の予行練習になんてならないんじゃないか、というような意見を清彦に言ったものだった。


 果たして、どうだったのだろうかと、詩乃は思ったのだ。


 清彦は、三角のピザを、チーズをとろっと伸ばしながら食いちぎり、それから言った。


「詩乃の言う通りだった。同棲と結婚は、全然違ったよ」


「……何が違いますか?」


「いやもう、個人じゃなくなるね、何もかも。まず、金だろ? あと、プライベートも無くなる。無くなるって言うか、行動全部が、俺じゃなくて、夫のになるんだよ。同棲はさ、お互いに不干渉みたいな、そういう一線があるんだよ。でもそれが、結婚すると全然違う。なんていうかな……嫁と旦那、って立場になると、もう他人じゃないんだよな。俺が何かすれば、それは半分嫁がしたことになるし、その逆もそうなるみたいな。個人じゃいられなくなるんだよ」


 詩乃はコーヒーを啜った。


 結婚や同棲のことで、清彦にわかったような口を効いていた自分を、詩乃は恥ずかしく思った。結婚と同棲は違う、同棲するくらいなら結婚すればいいと言っていたのに、自分だって結局今同棲していて、その生活の底――行きつく先も見えていない。


「で、そっちはどうなんたんだよ、あの後」


 あの後――というのは、詩乃が店を出て行ったクリスマス・イヴの後のことである。詩乃はそれからのことを、清彦に話していなかった。清彦からすれば詩乃は、『自分の、一番大事な人の、生き死にの問題なんです。すみません!』と店を出て行ってから今の今まで、ずっと音信不通の行方不明だったのだ。


「その、一番大事な人は、どうなった?」


「おかげさまで、無事です」


「そうか、良かったな。……え、その人とは結局、どういう間柄なんだよ」


「元カノで、今の彼女です」


「おぉ!」


 清彦は声を上げた。


 彼女はいらないと言っていた詩乃が彼女を作っているというのが、清彦には何か可笑しかった。


「まさか、同棲してたりするんじゃないだろうな?」


「……」


 ぷくくと、清彦は笑った。


「すみません、あの時は、生意気言って」


 詩乃が言うと、清彦は声を上げて笑った。


「――いやでも、予行練習とか、そう言うんじゃないんですよ。なり行きで……」


「結婚は? するの?」


「したいんですけど、自信が……」


「自信って、何の? 養っていく?」


「はい……」


「相手はなんて言ってるの」


「お金のことは気にしてないみたいなんですよね。でも、自分はそれが、やっぱり気になってて。――古い考えかもしれないですけど、やっぱり自分は――」


「わかる!」


 清彦が、テーブルを叩きながら言った。


「そりゃあそうだよな。でも俺、それ言ったらさ、金のこと心配してたら最初からアンタと付き合ってないって、直で言われたぜ? もう俺のプライド、ボロボロ」


 清彦の自虐を聞いて、詩乃は笑った。


「今、詩乃は何か仕事やってんの?」


「やってないんですよ。――もう、ダメ人間です。ぐーたら生活してます」


「小説は?」


「今は――結果待ちです」


「なんか、応募したんだ」


「はい。でも今は、書く気になれなくて」


「あぁ、芸術家ってそうだって言うよな。――でも、彼女の方はそれ、許してくれてんの?」


「はい……」


 かくんと、詩乃は首を垂れた。


「まぁ、じゃあいいんじゃないの?」


「いいわけないんですよ。僕このままじゃ、ヒモですよ」


「ヒモか!」


 あっはっはと、清彦は笑った。


「それ、羨ましいな」


「全然羨ましくないですよ。はぁ……このままズブズブ、情けない同棲生活に入っていきたくないのに」


「おい」


「志波さんの事じゃないですよ」


「いや、もうほとんど俺の事だろ。結婚を保留にしたまま五年間も同棲して――俺もかなりズブズブだったからな。でも実際、結婚すると吹っ切れるのもあるよ。もう、後戻りできないからさ」


「自分は、そっちの方が良いと思ってるんですよね」


「そっちって?」


「結婚した方が。じゃないと自分、怠け者だから、どんどん怠けていっちゃって」


「あぁ、わかるなぁ……いや、詩乃がそうって言うんじゃなくて、俺がさ。俺も相当だから」


「志波さんは、店長じゃないですか」


「雇われな。まぁそれも、この六月までだよ」


「え!?」


「北海道行くんだよ、俺。今の仕事辞めて」


「辞めちゃうんですか?」


 清彦はそこで、自分の近況について詩乃に話した。清彦の妻は札幌が実家で、今年の初め、その実家の近くにあったレストランが廃業した。清彦は、いつかは自分の店を持ちたいと思っていたので、それを知っていた妻は、その居ぬき物件を清彦にどうかと勧めた。清彦には大して貯金は無かったが、妻やその家族の助けもあり、この六月から向こうで、店を持つことになったのだ。


「すごいじゃないですか!」


 話を聞いた詩乃は声を上げた。


「まぁ、上手くいくかどうか、正直解らないけど、チャンスだと思ったんだよ」


「札幌かぁ、遠いですね」


「うん。いやでも、案外二時間くらいなんだよ。まぁ、金はかかるけど」


「思い切りましたね」


「たぶん俺が、後先考えない馬鹿だからできるんだろうな」


 詩乃は、けらけらと笑った。


「女はしっかりしてるよ。たぶん、嫁さんは、どっちに転んでも大丈夫な算段があるんだよ。俺は、ギャンブルなつもりなんだけど、なんか、余裕なんだよな、俺の嫁」


「豪快な人なんですね」


「まぁ、気は強いよ。こいつに俺いるのかなって、正直思ってる」


「あぁ……」


「わかるだろ? しっかりしてんだよ。しっかりしてないようで」


 詩乃は深く頷いた。


 本当にその通りだと、詩乃も思った。しかし、清彦の話には続きがあった。

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