優しい鳥籠(7)
柚子は詩乃の、揺れ動く目をじっと見つめて言った。
「でも、詩乃君、結婚したら小説、辞めちゃうんでしょ?」
「……」
「じゃあしない」
柚子は、力強くそう言うと、ぱくりと烏賊の寿司を食べた。もぐもぐと強く顎を動かすその様子が、柚子の感情とよく合っていた。柚子はさらに少し大げさに咀嚼して、詩乃を睨んだ。可愛らしい睨み方だったが、その瞳の奥に詩乃は、柚子の揺らがない信念を見た。
柚子のそんな瞳の前に、今の詩乃はたじろぐしかなかった。それはまるで、通行証を持っていない旅人が、武装した関所の門番を前に立ち尽くしてしまう様とよく似ていた。
「しない、かぁ……」
詩乃は、諭されたような気分で吸い物を飲んだ。
柚子は、誤解を与えたくないと、慌てて言葉を足した。
「したくないわけじゃないよ? もう本当は、喉から手が出るほどしたい!」
柚子の妙な言い回しに、詩乃は少し笑った。
「でも……私が納得したいの」
「え、新見さんが?」
詩乃は、柚子の言葉の主語を聞き間違いかと思って聞き返した。それを言うなら、主語は「私」ではなくて、「詩乃」なのではないか。自分――つまり水上詩乃がちゃんと納得している状態でなかったら結婚はしたくない、ではないのだろうか。それとも、新見さんの中にも、何か、結婚を躊躇っている部分があるという事だろうか。
詩乃が柚子の言葉の解釈に頭を悩ませていると、柚子はさらに言った。
「私は、詩乃君を鳥籠に入れておくような女になりたくない」
こう言われて、詩乃の頭はいよいよ混乱した。
しかしその意味を問い返すのも、自分の不粋を曝け出すようで気が引ける詩乃だった。そして詩乃は、結婚に対する柚子の考えは、自分には到底見抜けないような気がした。詩乃はつくづく、自分は子供だなぁと思った。
「うーん……」
詩乃は、考えている振りをして、手まり寿司を食べた。
一方柚子は、「あぁ、言ってしまった」と、表情には出さなかったが、大きな後悔をしていた。折角詩乃が、「結婚は、しようよ」なんて、プロポーズのようなことを言ってくれたのに、それを、断ってしまった。もしかしたらもう二度と、この機会はないかもしれない。
――やっぱり、「そうしよう!」と飛びつけばよかった。
詩乃が考える振りをしている間、柚子の後悔は深まるばかりだった。
何を恰好つけて、「鳥籠に入れておくような女になりたくない」だなんて。
しかし後悔はしても、それはそれで柚子の本心ではあった。詩乃君を、その真面目さと責任感で縛り付けてしまうくらいだったら、いつ詩乃鳥が飛び立ってしまうかを不安がりながらでも、籠越しではない空気を吸って、籠越しではない空を二人で見ていたい。それが晴れの空でも、雨の空でも。
しかし今しがたの詩乃の(頼りなくはあったが)プロポーズを受けなかった後悔が、今や先に立っている柚子は、自分の本音を非難した。――私はなんて面倒な女なのだろう。
彼の立場をはっきりさせておいた方が良いよという福美のアドバイスがありながら、それをふいにした。それは確かに自分の都合で、決断を迫らせる状況を作っていることは打算的だ。でもそれが、何だというのだろう。そんなことに引かっかかるほど、私は今更全然誠実じゃない。
詩乃君の後、何人も彼氏を作った。
栖常さんとは、頭では結婚まで考えた。だから私の頭は、身体ほど誠実じゃない。
そんな私が何を今更、一体何に拘っているのだろう。
しかしもう、一度断ってしまった。
決め台詞みたいな言葉も言ってしまった。その舌の根も乾かないうちに、「やっぱり――」なんて、流石に言えない。
柚子は、パニックを起こした天才科学者よろしく、ぐしゃぐしゃに頭を掻きむしりたい気分だった。詩乃に整えてもらった髪でなければそうしていた事だろう。
考える振りをしていた詩乃は、その振りにも飽きて、何となくテレビを点けた。
テレビ城東のBSが、夜桜のライブ中継番組を流していた。妖艶な桜のライトアップ。真っ黒い湖が鏡のように、水辺の桜を映し出している。画面の左隅に『志賀・御船山楽園 生中継』と金色文字で表示されている。
「そういえば、お花見行ってないね」
柚子が言った。
それから柚子は、あっ、と手まり寿司と重箱を見て、にやっと笑った。
「ねぇ、向こうで食べない?」
と、柚子はソファテーブルを目で指しながら言った。いいよ、と詩乃は応え、二人はソファテーブルに移動した。柚子はソファーではなく絨毯の上に座り、詩乃もそれに倣った。
絨毯にペタンと座り、ソファーを背もたれにして、二人で生中継の夜桜を鑑賞する。夜桜を観ながら手まり寿司を食べて、その満足そうな柚子の横顔を詩乃はちらちらと覗いた。柚子の笑顔が本物かどうか、この幸せそうな笑顔の裏に寂しさを隠してはいないだろうかと、詩乃はそればかりを、柚子の表情から探ろうとしていた。結婚を「しない」と宣言された詩乃は、柚子に叱られたような気もしていた。
『彼岸明けの今日は――』
と、番組のナレーターが、今日の出来事を話し始めた。
それを聞いて、柚子はふと、詩乃の両親の事が頭によぎった。
「そういえば詩乃君、お墓参りって――」
「あぁ……」
詩乃は、視線を落とした。
詩乃の両親は、すでに他界している。柚子もそのことは当然知っていたが、詩乃の両親がどこに眠っているかは、知らなかった。詩乃の家には昔から、仏壇もない。
「お墓、無いから」
「え? 無いの?」
「うん。納骨堂に預けてる」
それは、柚子には初耳だった。そして柚子は、自分が当然のように、「墓」と言ってしまったことを悔やんだ。借金を背負っていた詩乃に、どうして墓なんて作る余裕があるだろうか。柚子は、自分の能天気さに呆れた。
「納骨堂って、お参りできないの?」
「わかんない。できないことは無いと思うけど、したことないな」
「そうなんだ」
柚子はそれも、意外に思った。詩乃は、神様の事や風習のことを良く知っている上、日ごろから、目に見えないモノ――特に自然に属するものについては、現代人が忘れてしまった尊敬と畏怖をもって接している。そんな詩乃の事だから、仏事を欠かしはしないだろうと思っていた。
「お墓、高いもんね」
柚子が言うと、詩乃は暗い笑いを浮かべた。
「うん、まぁ、ね。いいんだ」
「でも本当は、建ててあげたい?」
詩乃は、ちらりと柚子を見やり、それから首を振った。
「いらないよ」
そう答えた詩乃の腕に、柚子は自分の手を、枯れ葉が落ちる様に静かに置いた。
詩乃は、次に取る寿司を選ぶ振りをして、柚子の手の温もりとその視線から逃げた。
両親の遺骨をどうするかについては、詩乃は自分で決着を付けようと思っていた。納骨堂も、いつまでも遺骨を保管してくれるわけではない。
「桜の下には死体が埋まってるって言うよね」
詩乃は、柚子が自分の心の中を暴く前にそう言った。
「あぁ、それ、聞いたことある。あれって、なんでそう言うんだろう? どこかの言い伝え?」
柚子は、詩乃に訊ねた。
詩乃が新しい話題――特に突飛なことを言う時には大抵、その中に、詩乃の真意があることが多い。柚子は、今回もきっとそうに違いないと、期待しながら詩乃の答えを待った。
詩乃は柚子に訊ねた。
「新見さんはどう思う?」
「え、私?」
「うん、死体が埋まってるって聞いて、その方がしっくりくる?」
「えぇ、どうだろう、考えたこともないけど……」
柚子は前置きの様にそう言って少し考え、それから応えた。
「確かに、そう言われると、そんな気がしてくる」
「死体が埋まってそう?」
「うん」
二人はそれから、示し合わせたわけでもなく同時に、テレビに映る桜を見た。黒い夜空にライトアップされた満開の桜。合わせ鏡のようになった湖面の桜。確かに、人の命でも吸わない限りは、こうはならないだろうというほどの、暴力的な美。
「そういえば詩乃君、桜嫌いなんだっけ?」
柚子は、昔詩乃が、そんな様な事を言っていたのを覚えていた。詩乃は、「あぁ」と反応して、首をひねった。そうして、少し目を閉じてから言った。
「たぶん、桜が嫌いなんじゃないんだよ。桜の気も知らないで、じゃないけど、桜はただ桜として生きてるだけなのに、どうして人間って、それに何か意味を求めるんだろうね。散れば散ったでその意味を、咲けば咲いたでその姿に何か、意味をこじつけようとする」
「じゃないと落ち着かないのかな。枯れ尾花、じゃないけど」
「だとしたら桜も立派に妖怪だね」
「あぁ、何かそう言われると確かに、ちょっと妖怪っぽいかも。――でも詩乃君、それこそ桜に失礼だよ」
「そうだね」
と、詩乃は笑って応えた。




