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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
後日譚,霧の夜は二人だけ
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優しい鳥籠(5)

 帰ったら柚子は、詩乃に記事のことを言わなければならないと思った。詩乃が記事の事を知っているかどうかは何とも言えなかったが、たぶん、知っているだろう。主要検索サイトの、「エンタメ」ニュースの上位記事に表示されている。


 プライベートを暴かれる――私と暮らせばそうなる。二人で出かければ、写真を撮られるかもしれない、撮られた写真が出回るかもしれない。そんなことを考えながら、暮らしていかないといけない。そんな暮らしを、詩乃君が受け入れるだろうか。




 その日詩乃は、昼過ぎに食材の買い出しに行き、いつもより早く夕食の準備に取り掛かった。熱々を食べる料理でなければ、詩乃はそういう事をたまにやった。調理の様子を見せなければ、テーブルに座って、皿が運ばれて来るまで、柚子は何が出てくるかわからない。出てこないかもしれない。そういうサプライズを用意すると、柚子はいつも良い反応をする。それを見るのが、詩乃は好きだった。


 今日作るのは手まり寿司。


 酢飯に、買って来た刺身を乗せて、えごまや大葉などの葉物、いくらや錦糸卵、海苔などで飾りつけをする。ラップでぎゅっと圧をかけて、形を整えて完成。それを三段の重箱に並べ入れる。


ひな祭りもホワイトデーも、執筆のためにすっかりそんなイベントのあることを忘れていた詩乃は、手まり寿司を作りながら、それらの行事のあったことを今更ながら思い出した。


「新見さん、期待してたかな……」


 だとしたら、ちょっと悪いことをしたなと、詩乃は思った。


 ひな祭りはともかく、ホワイトデーも、柚子は一言も催促はしてこなかった。ホワイトデーの「ホ」の字も言わなかった。それは、今考えれば不自然だと詩乃は思った。そして、きっと小説を書いていた自分に気を使ってくれていたのだとわかった。


 詰め終えた手まり寿司の重箱をキッチン台の脇に置き、詩乃はもう一品、デザートにパフェを作ることにした。手まり寿司にパフェはどうなのか、という食べ合わせ的なことも少し考えたが、まぁいいやと、詩乃は再び買い出しに走った。




「ただいま」


 柚子が帰ってきたのは夕方遅く、夜の初めの頃だった。


 夕食もデザートの買い出しも終えた詩乃は、和室のリクライニングチェアを倒して転寝をしていた。柚子の声と静かに閉じられたドアの音を聞いて、詩乃は椅子の背を元に戻した。


「詩乃くーん?」


 柚子が、半開きの襖を開けて、ぬっと顔を覗かせる。


「うー、おかえり」


 詩乃は、起きがけに目を瞬かせながら、回らない口で柚子に返事を返す。柚子が自室に着替えに行くと、詩乃はふうっと息を吐き出して立ち上がり、和室を出た。洗面所に行き、顔を洗って、うがいをする。


 明け放した柚子の部屋から柚子の声が飛び出してくる。


「詩乃君、今日うちにいたの?」


「うん」


 と、詩乃はタオルで顔を拭きながら返事をし、「あっ」と声を上げた。


「どうしたの?」


 と、詩乃の声を聞いた柚子は、部屋から詩乃に訊ねた。


 詩乃は、風呂場を開けた。


 湯船に湯を張るのをすっかり忘れていた。詩乃自身は、週に二度か三度、シャワーを浴びるだけで湯には浸からなかったが、柚子には毎日の入浴が必要だった。


『自動お湯張り運転を開始します』


 〈ウィリアムテル序曲〉の短いメロディーと共に、自動アナウンスが流れる。


 洗面所から流れてきたそれを聞いて、柚子は、詩乃が湯張りを忘れていたのを知った。柚子はいつもならそういう時、詩乃の慌てる様子を想像して思わずくすりと笑ってしまうのだが、今日は笑みを浮かべるほどのゆとりも無かった。


「ごめーん、お風呂二十分後だ」


「ありがとー」


 柚子の返事を聞いた後、詩乃はリビングに戻り、ほっと息をついてソファーに座った。それから、ソファテーブルの下段に薄く積んである雑誌を幾冊か、何となく引っ張り出した。旅行雑誌、関東道路地図、イタリアのメンズファッション誌。


 詩乃はその三冊をテーブルに開いて並べた。そうしてパラパラと適当にページをめくる。詩乃はよく、文字を読む気分ではない時は、風景やモノの写真、画像を見て暇を潰していた。パソコン上でも、雑誌の写真を見る時でも、ただ一枚の写真を見るだけでなく、同時に何枚かを並べて眺めるのだ。最初はただ眺めているだけなのだが、それが、だんだんとそれぞれの写真・画像が繋がりを持ち始める。そこに詩乃は、ちょっとした楽しさを見出していた。


 しばらくぼーっとページをめくっては写真を眺めていた詩乃だったが、ついに、繋がりの起点となるような一枚を見つけた。旅行雑誌の湯河原温泉を紹介しているページ。千歳川と橋と、桜並木の写真だった。ひなびた旅館の外装と、ライトアップされた温泉の紹介写真が、見開き二ページにわたって載っている。


 何が詩乃の空想の起点になるかは、詩乃自身にもわからなかったが、今はその湯河原の風景に心を動かされた。詩乃は道路地図で湯河原を探した。熱海、箱根と同じページの、その丁度真ん中あたりに湯河原を発見した。


 詩乃は、地層や岩石や堆積学的な知識については、ファンタジーを書く過程で調べたこともあって人並み以上には随分詳しかったが、実際の土地の名前やその場所はどこか、というような知見となると、てんでダメだった


 箱根も熱海も、詩乃にとっては思い出深い土地だったが、その二つの場所の位置的関係について図で見せられると、詩乃は驚き、そして困惑してしまった。湯河原温泉という地名も、詩乃は固有名詞としては知っていたが、その場所については、全く無知だった。


 こんなに近い場所にあったんだと、それは詩乃の中では大発見だった。


 それにしても、地図で見ると山も海も想像を絶するほど平面的だなと、詩乃は思った。そんなことを考えながら、詩乃は三つ目の雑誌――イタリアもののファッション誌に視線を移した。髭面の日に焼けた男が、わさっと豊富な胸毛を、開けたシャツに晒している。サングラス、サイフチェーン、ベルト、腕時計といったアイテムの紹介がされている。


 詩乃は、この男が湯河原の温泉街を歩く様子を想像した。しかし、全くのミスマッチに、すぐにその空想は止まった。湯河原や箱根の山をスポーツカーで攻めるダンディーなイタリア人を想像するのは容易かったが、詩乃の空想のイタリア人は、車から降りると霧散して消えた。


 詩乃が想像力を働かせているうちに、部屋着に着替えた柚子がリビングに戻ってきた。


 いつもなら柚子はそれから、詩乃の隣に座って、そのうち詩乃の肩にころんともたれかかり、何をするでもない時間を過ごす。


 ところが今日の柚子は、リビングに一歩入ると、扉の前で立ち止まった。


 どうしたのかと、詩乃は顔を上げた。


 淡い桜色の部屋着――見慣れた格好。


 しかし柚子の瞳は、何かを訴えかけていた。


 何だろう、と詩乃は思った。


「お腹空いた?」


 詩乃は、とりあえずこう質問してみた。


「うーん」


 柚子は、唇を閉じたまま眉を窄めた。弱った様な、悲しいような表情。


 詩乃は、柚子を安心させるように柔らかく笑って見せ、「おいで」と、柚子に小さく手招きをした。柚子は、「うん」と頷き、遠慮がちに詩乃の隣に座った。その柚子のしおらしい仕草に、詩乃は自分の中の男を自覚した。


 詩乃の隣に座った柚子は、両手を閉じた脚の腿の上に握って置き、ちょこんと俯いた。いつもなら、もたれかかってくるなり、抱き着いてくるなりする柚子である。


 詩乃は、柚子の肩の横に手を回し、柚子を抱き寄せてみることにした。


 柚子は、詩乃の力のままに身体を詩乃に預けた。


 抵抗も無く、大人しい。


 しかし、笑顔はなく、依然俯いたままである。


 どうしたの、と詩乃は聞こうかとも思ったが、やめた。言葉にできないから黙っているのに、それを言葉にするよう急かすのは、詩乃の流儀に反した。


 詩乃は左腕にぬいぐるみを抱えるように柚子を抱き、柚子の肩に頭を寄せた。


 柚子は、目を閉じてしまった詩乃をちらりと見やり、それからテーブルの上に広げられた雑誌と地図を見た。三冊とも、柚子が買ったものだったが、その不思議な組み合わせに、柚子の好奇心がくすぐられた。ここに詩乃がどういう繋がりを見つけたのだろうかと思ったのだ。


「新しい小説のこと、考えてたの?」


 柚子は、詩乃に訊いた。


 詩乃は目を閉じ、柚子の肩に頬をつけたまま首を振った。


「ううん。何となく見てただけ」


「そうなんだ」


 と、柚子は相槌を打ち、目を閉じた。


 暫く二人はそうしていたが、やがて風呂場から〈愛の挨拶〉のメロディーと共に、『お風呂が沸きました』のアナウンスが聞こえて来た。


「呼んでるよ」


「うん、行ってくるね」


 柚子は少し笑いながらそう応え、洗面所に向かった。




 風呂から出た柚子は、洗面所にドライヤーが無いのに気が付いた。


「あれ?」


 詩乃は、リビングで相変わらずソファーに座り雑誌を見ていたが、柚子が風呂から上がった気配に気づいて、脱衣所の柚子に向かって言った。


「髪、乾かすよ」


「え、ホントに!?」


「うん」


 ドライヤーは、詩乃の手元にあった。


 暫くすると、風呂上がりの柚子がリビングにやってきた。セミロングの濡れた黒髪を、首に巻いたふんわりとしたバスタオルで拭いている。頬と唇はピンク色に紅潮し、首筋からかすかに覗く鎖骨、そして第二ボタンまでを開けてはだけた胸元の白さ、艶やかさは、百合の花弁のような確かな弾力と厚みを感じさせる。


「どうぞこちらに、お座りください」


 詩乃は少しおちゃらけて、一人掛けソファーに柚子を案内した。


 柚子も「はい」と、笑いながら外行きの声で応じ、椅子に座った。詩乃は柚子の後ろに回り、柚子のバスタオルを首から外し、用意しておいた白いタオルで髪を拭いた。蜂蜜のような甘い香りがふわっと広がる。


「痛いとこありますかー?」


「大丈夫でーす」


「痒いとこありますかー?」


「大丈夫でーす」


 そんなやり取りをしながら、詩乃はドライヤーを使って、柚子の髪を乾かした。同棲を始めてから詩乃は、食事療法で心身を整える〈食事術〉や、素人でもできる〈マッサージ術〉、そして健康を保つ〈ランニング術〉など、柚子の気持ちの落ち込みを解消するための色々な方法を本やSNSの情報を参考にしながら試してきた。髪の乾かし方も、柚子のために詩乃が習得した技術の一つだった。二月初め頃までは毎日詩乃は、風呂上がりの柚子の髪を乾かしてあげていた。


 近頃は、柚子の心も体も、随分健康的に――現状では詩乃よりも遥かに――なってきていたので、マッサージをしたり、髪を梳かしたり乾かしたりする頻度も、週に一度ほどになっていた。詩乃からすれば、そういったことは全部、愛情表現というより、柚子の治療の一環だった。


「お腹空きましたか?」


「はーい」


 子供っぽいやり取りに、二人して笑った。

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