優しい鳥籠(4)
「――そういうことだったのねぇ」
「でも、結婚は、すると思います」
「婚約待ちの状態?」
「……ですかねぇ」
「何してる方なの?」
「小説書いてます」
「作家さん?」
「まだ、それでお金は稼げていませんけど」
福美は、箸を動かす手を止めた。
雲行きが怪しいのを感じた。
「仕事はしてないの?」
「私の看病のために、辞めたんです」
「あぁ、そうだったのね!」
福美は少しほっとして、声も大きくなった。
「何してらした方なの?」
「オムライス屋さんのキッチンでした」
「なるほど、納得」
福美は、柚子の弁当を見やり、そう言った。
それから福美は再び周りを確認してから「実はね――」と切り出した。
「新見さんと水上さんの写真、もう結構撮られてるみたいなのよ」
「週刊誌ですか?」
「そう。〈週刊スマッシュ〉の記者。局にももう連絡来てるの」
「あぁ、やっぱりそうなんですか」
柚子も、薄々そんな事だろうと思っていた。あれだけ詩乃と一緒にいて、二人でランニングをしたり、買い物に行ったりしていれば、ツーショットの一枚や二枚、撮られていて当然だ。局アナなどは、家の場所も、車があれば車種は当然のことながらそのナンバーも、出退社時間も、ソレ専門の記者には当たり前のように把握されている。
「局が対応してくれてるんですか?」
「うーん……というよりは、新見さんの場合はその――実は報道規制がかかってたのよ」
「え、そうなんですか!?」
「そう」
福美は、柚子を見つめた。
福美の落ち着いた視線に、柚子は、自分が自殺を考えていたことを思い出した。外向けにはその事実は出ていないが、報道規制がかかっていたとすれば、それに違いない。報道機関には自殺の取り扱いに関するガイドラインがあり、最近では、誰かを追い詰める様な過剰取材についても、BPOが規制を強めている。
「――あぁ、だから私の事……」
「そう。でも、仕事の復帰はもう嗅ぎつけられてるから、近いうちに出るんじゃないかと思うのよね。時期も時期でしょ、改変期前。タイミングとしては絶好よね」
「そう、ですよね……」
「でも、そんなに大きな話にはならないと思うけどね」
福美はそう言うと、柚子に笑って見せた。
「今は政治と軍事の問題が強いから。それに、水上さんが一般人というのも、マスコミにとっては報道しづらい所ね。――ほら、話題性が薄いから」
だからそんなに心配しなくても良いわよ、と福美は続けた。
柚子は、自分のことについては、心配していなかった。番組中での一言や、ちょっとした振る舞いが取り上げられて、色々言われるのにはもう慣れている。
柚子が考えたのは、詩乃の事だった。
自分と一緒にいるというだけで写真を撮られたり、失礼な文章と勝手な憶測であることないこと書かれたりする。そういうのは、詩乃が最も嫌うことだ。でもそれは、私がこの仕事をしている限り、程度の差こそあれ、付きまとう。
「新見さん、でもここだけの話、結婚したら、仕事どうするの?」
「え?」
「続ける?」
「勿論、そのつもりです」
福美は、努めて何気なく箸を動かして、ブロッコリーを口に運んだ。表向き、芸能事務所が局アナのスカウトをするのはご法度である。しかし実際には、そんなスカウトは、当たり前のように横行している。特に人気の出た若い女性アナウンサーは、方々からアプローチを受ける。実は柚子もこれまでに何度も、そんな話を持ち掛けられていた。そして福美はというと、柚子に来た全ての引き抜き話を知っているわけではなかったが、その中のいくつかは、零れ聞いて知っていた。
「フリーになる気はあるの?」
「いえ、全然それは、考えてません」
ふーんと、福美は相槌を打つ。
「私も、新見さんには本当に、残ってほしいと思ってるのよ」
「ありがとうございます」
「嘘じゃなくてね。これ、今はまだオフレコにしてほしいんだけど――今、編成局内に〈キャストマネジメント部〉っていうのを作ろうとしてるの」
「〈キャストマネジメント部〉、ですか」
「今はまだ準備段階なんだけどね、もう動いてる話なの。それで、新見さんさえよかったら、アナウンス部と兼任でもいいから、そのポストも引き受けてほしいと思ってるのよ」
柚子は、目を輝かせた。
「私で良かったら、やります! キャストマネジメントって事は――」
「そ、主にキャスター、アナウンサーの――要するにカメラの前に出る社員のマネジメントね。アナウンサーは会社員だからってわけのわからない理由でこれまでずっと、この会社もアナウンサーにマネージャーつけてなかったでしょ。だから――新見さんは身にしみて感じてると思うけど、アナウンサーって、なんだかいつも矢面に立たされて、泥被るじゃない? そんなことしてるから若い子はどんどん、入った先から辞めてくのよ。もうオヤジたちに任せてられないわ」
柚子は、返答に困って苦笑いを浮かべた。
しかし柚子にも、福美の言わんとしていることはよくわかった。
「でも福美さん、それって、かなり反発あるんじゃないですか」
「批判なんて怖くないわよ。それにこの話、羽賀局長が味方だから」
「ええ! そうなんですか?」
柚子は驚いて声を上げた。
羽賀というのは、総合編成局の現局長である。基本的に各部は、局長の方針に従って動くので、現場レベルのトップは部長だが、局長までを含めると、部長も中間管理職ということになる。特にテレビ城東の場合は、他テレビ局も大概そうだが、編成局の権力が大きい。何しろ、テレビ局の中心的役割を担っているのだ。そのため羽賀局長の方針というのは、テレビ局全体の指針とほぼ等しい。
「体制を変えようっていう声はずっと燻ってたのよ。それが新見さんの一件で――なんか、利用しちゃったようで申し訳ないんだけどね、とにかくそれが引き金になったのよ」
「そうなんですか?」
「アナウンサー一人守れない会社なんて、ダメだと思わない?」
福美の活き活きとした瞳に、柚子は勇気づけられた気がした。
「ま、それとは別問題として――彼のことははっきりさせておいた方が良いわよ。誰かから突っ込まれた時に、婚約者ですって言えないと、ちょっと面倒かも」
「やっぱりそうですかね……」
「もう同棲のことは隠しようがないから、変にシラを切ったりすると、かえって面倒よ。同棲の報道は、もう出るものと思っておいて、大事なのは、その後よ。今は、いろんな形があるから、婚約してない男と同棲してたって、一般的には『だから?』って感じだと思うけど、でも、新見さんは、〈新見柚子アナウンサー〉のイメージがあるでしょ? 結婚はともかくとして、やっぱりね、男にだらしない女みたいなイメージがつくのは、良くないと思うのよ。――私すごく嫌なこと言ってるわね」
「いえ、そんな……」
「ごめんね。でも、そこはちょっと、考えておいてほしいの。まぁそんなこと、私が言わなくたって、新見さんはよくわかってると思うんだけど、一応ね。……はぁ、うるさいおばさんよね」
「いえいえ、そんなことないです。有難いです」
柚子はそう言って、大きく首を振った。
「――逆にすみません、なんか私、色々、ご迷惑ばかりおかけして」
「それはいいのよ。困ったことあったら何でも相談してよ。そこで気を使われちゃうと、その方が私、困るから。結婚報告、産休育休の申請、理解の無い男連中とのやりとり、全部任せて」
「ありがとうございます……」
柚子は、福美の言葉に、泣きそうになってしまった。
「私、結婚できるように頑張ります」
柚子は、ふわんと開いたふきのとうの天ぷらを箸で持ち上げ、さくりと齧った。
「そうね、頑張ってよ」
福美はあははと笑って応えた。
詩乃は何とか、三月中旬の締切りだった小説コンテストに作品を間に合わせることができ、無事、提出を果たした。プロットを練る時間も無く、ほとんどぶっつけ本番で執筆にとりかかった長編ファンタジーだった。書きあがった後、添削をする時間も無かった。
――たぶんこれは、受賞はしないだろう。
と、詩乃はそう思った。それは、物書き的な直感だった。話がまとまっていないのは、詩乃は自分でもよくわかっていた。しかし詩乃は、それでも、満足はしていた。ファンタジーを書かなくなってからずっとこれまで心の中に貯めていた、魔法やドラゴンや、ファンタジーならではの不思議な生命に対する想いをぶつけることができた。
これだったら、自分の最後の作品でも、納得はできる。詩乃はそう思った。
小説を書き上げ、コンテストへの応募が終わると、詩乃の「何か書きたい」という欲求は、全く無くなった。心の一部にぽっかりと穴が開いたような気持ちで、詩乃自身は何となく、自分が抜け殻になったような気がしていた。
抜け殻になった詩乃は、小説の構想を練ったり、文章を書いたり、本を読んだりしていた時間を、料理の献立を考える時間にあてた。「あてた」というよりは、自然と詩乃の思考は、そこへと落ち着いた。「やる気」という上流の水は、執筆というすぐ下の村に流れていたが、その村が無くなれば自然とその村の次の場所、すなわち、料理の村へと流れる。一人暮らしではそうはならなかったが、今は柚子がいる。料理の村にいる柚子の喜んだり、驚いたりする顔が、今は詩乃の生活の原動力になっていた。
その生活の中、三月も残すところ一週間程度という時期に、柚子の同棲スクープが、週刊誌のネット記事に上がった。テレビ城東界隈では、もうその話はスクープでも何でもなかったが、一般的には、これまで報道されていなかったことなので、その記事はそれなりに注目を集めた。柚子の復帰を知らせる番宣CMが初オンエアされた翌日の事である。
『またしても女子アナの熱愛同棲報道がキャッチされた。テレビ城東アナウンサー新見柚子(28)だ。新見アナといえば去年十二月、婚約者のいるエリート社長との略奪愛が報じられたばかりである。まさか復帰明けにこんな報道が出てくるとは、筆者も驚いている。
今度のお相手はエリート社長から一転、なんと無職の一般男性だ。体調を崩していた新見アナを献身的にサポートしていたとか。「でも実際は、ヒモ男ですよ」というのは、局関係者の証言だ。
……
…………
「でもたぶん、上手くいかないと思いますよ。ステータスが違いすぎますから」(同関係者)。確かに、キー局女子アナとフリーターでは、経済感覚の違いは大きいだろう。「小金が出来て、ペットでも買ってるつもりなんじゃないですか」という意見もある。
何かとお騒がせな新見アナだが、これが単なる復権を狙った話題作りなのかどうか、見所である。どちらにせよ、新見アナの幸せを願うばかりだ。』
その日、会社では、美奈をはじめ、アナウンス部の同僚や他部署でも仲の良い同期から、復帰を祝われた柚子だったが、自宅へと帰る電車に乗ると、柚子の胃は不安で重くなり、心臓は徒競走の前のような、締め付けられるような鼓動を打った。




