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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
後日譚,霧の夜は二人だけ
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優しい鳥籠(3)

 雨は、柚子が思ったよりもしっかり降っていた。


 雨量で言うと、二ミリ毎アワーくらい。


 ばさっと、詩乃が蛇の目傘を広げた。


 黒と赤の傘。ちょうど、赤い三日月が、黒い丸を抱え込む様な形の模様。京都で一度だけ差して以来、詩乃も柚子も、この蛇の目傘はずっと使っていなかった。流石に柚子も、蛇の目傘を普段使いにする勇気はなかった。詩乃はというと、そもそも、外に出ることが少ない上、雨の日の外出はビニール傘を使っていた。


 本当にこんな雨の中散歩するのと柚子は思ったが、詩乃は傘を差して、何の躊躇も無くエントランスを出た。柚子も急いで傘を差し、雨で濡れて湿った黒い道路に踏み出した。


「どこにいくの?」


「公園にしよう」


 詩乃はそう言うと、北に向かって歩いた。


 二人の住むマンションの近くには公園はいくつかあったが、柚子の予想していた近場の公園はどこも、港の近くだった。千葉の港は、二人の住むマンションの南側で、マンションから港までは、歩いて五分とかからない。


 海が好きな詩乃のことだから、散歩も海に行くものとばかり柚子は思っていた。


「海じゃないんだ」


 柚子は、その理由が知りたくて、詩乃に言った。


「海は好きなんだけどね」


 詩乃は応えた。


 柚子も、そのはずだと思っていた。それなのにどうして、と柚子は思ったが、その疑問を口にする前に詩乃が答えた。


「工場は見たくなくて」


「あぁ、そっか」


 なるほどと、柚子は深く納得した。


 そうして、海の事ばかり考えて、どうして海じゃないのかを疑問に思っていたことが、情けなかった。それくらい、わかりそうなものだったなと柚子は思った。千葉港には、湾に沿うような倉庫群がある。湾全体を見渡すと、湾は大規模な工場地帯である。千葉港は日本が誇る貿易港で、そのネオンライトが創り出す夜景も、全国工場夜景ランキングでは、常に上位にランクインしている。


 そんな、一般的には「美しい」ともてはやされている夜景。柚子もそういった夜景の見える店や場所をデートスポットとして、担当している番組やコーナーで紹介したこともあった。「本当に綺麗ですね」と感想を言って、そういう時は夜景を褒めた。「こんな夜景を見ながら告白されたら、オッケーしちゃいますよね」と共演者の誰かが言うのには、確かに、と相槌を打った。


 しかしそんな時、柚子は心の片隅ではいつも、「詩乃君だったらきっと、こういう人工物は好きじゃない」と、そんな事を思っていた。


「工場の夜景、やっぱり詩乃君好きじゃないんだ」


「あの不気味さも美の一つだとは思うけど、今はあえて見たいとは思わないよ」


 詩乃の答えが、柚子には嬉しかった。


 やっぱりそうなんだ、と思った。


 二十分ほども歩いたところで、詩乃の言った「公園」に着いた。この辺りでは一番大きな公園だった。柚子の想像していた、ちんまりした公園ではない。芝生地帯に池も持ち、そしてちゃんと森林のある公園である。


 入口から遊歩道を少し進んだところで、詩乃は立ち止まった。


 ぼたぼた、ぼたと、背の高い緑葉樹の葉から大きな雫が落ちてきて、蛇の目傘が楽しげな音を立てた。


「新見さん、こっちにする?」


 と、詩乃は傘を軽く持ち上げて、傘交換の提案をした。


 どうして急にそんなことを言ってくるのか柚子には分からなかったが、詩乃の提案は、柚子には魅力的だった。まだこの蛇の目傘を差してことが無い柚子にとっては。


「うん、差してみたい」


 柚子が応えると、じゃあ、と言って、詩乃は柚子に蛇の目傘を持たせた。


 詩乃は柚子の長傘を代わりに差した。


 蛇の目傘は、ずしりと重たかった。張りに雨が当たった時の振動が、竹とにぎりの籐を伝わって、その微動は心臓にまで響くほど、はっきりと感じ取れる。


 歩きながら、詩乃はほとんど何も話さなかった。


 そんな詩乃の少し後ろを、柚子は蛇の目傘を差して歩いた。


 詩乃と一緒に暮らすというのは、こういう事なのだろうと、柚子はそんな事を考えていた。きっと、詩乃君との結婚生活は、普通じゃない。普通じゃないことで、きっと悩みもある。


 だけどやっぱり、こうして一緒に歩いていたいなと柚子は思った。


 絶対に普通の人だったら、こんな夜中に、雨の中、起き掛けに散歩に出かけることは無い。その、普通じゃない経験を、詩乃君とならできるのだ。雨の音、土の匂い、冷たい風――。


「詩乃君といると、なんか、忘れてたものをたくさん思い出せるな」


 小さな湖畔の道を歩いている時、柚子がぽつりとそんな事を言った。


「高校時代の事?」


「それもあるけど、もっと何かこう、砂遊びしてたような頃のこと」


 詩乃は小さく微笑を浮かべると、急に傘を閉じた。


 そうして詩乃は、両手を空に広げ、深呼吸した。


 詩乃は全身を雨に打たれて、気持ちよさそうだった。


 柚子も、腕を蛇の目傘から出してみた。


「まだ雨、冷たいね」


 柚子が言うと、詩乃は小さく笑って「うん」と、嬉しそうに頷いた。そうして詩乃は、少し雨に打たれてから、再び長傘を差した。


「今降ってる雨の冷たさも知らない人間にはなりたくないんだ。だけど、皆忘れてる気がする。それなのに何か、雨をわかった気になってる。――ファンタジーの魔法で、それを思い出させたいんだ」


 柚子は、どういうわけか、プロポーズを受けたかのような胸のときめきを覚えた。詩乃の言葉の真剣さと誠実さは、本当に、告白やプロポーズの響きがある。いや、もしかすると、本当にこれが、詩乃君流のプロポーズなのではないかとさえ、柚子は思ってしまう。


「私も、忘れそうになったら、思い出させてくれる?」


 柚子の言葉に、今度は詩乃が息を呑んだ。


 自分はやっぱり、どうしょうもなく、柚子が好きだと思った。


「この手この足の動く限り、この目の見ゆる限り、五躰の血、全て流れ尽くすまで」


「えぇ、それ何! 物騒だよ!?」


「いや、ちょうど主人公の最後の戦いの事を考えてたから」


 詩乃はそう言って笑った。


 柚子も笑って、詩乃の胸にこつんと自分の額をぶつけた。






 〈トレンドアップ!〉の宣伝CMのナレーション撮りをした後、柚子はアナウンサー室に戻った。午前中は四月放送のためのロケについての打ち合わせ、その後にこのナレ撮りがあり、それも順調に終わった。


 戻った柚子を待っていたのは、福美部長だった。


 一緒にお昼どう、と誘われて、柚子はもちろん「是非」と答えた。


 二人は十四階の展望レストランに上がり、その窓沿いのカウンター席に座った。


「天気予報、ばっちりですね」


 柚子は、窓から外を眺めて言った。


 青空の上方には、筆でしゅっと絵描かれたような筋雲ができ、その雲が日の光で光って見える。公園の木々は、わさわさと、手を振るように揺れている。


「新見さん、花粉症は大丈夫なの?」


「はい。あ、福美さん――」


「そうなのよ。薬で散らしてるんだけど、今年もこの時期が来ると、ちょっと憂鬱なの」


「この辺でも花粉、来ますか?」


「まぁ、内陸よりはマシだと思うんだけどねぇ、体感的には、関係ないかなぁ」


 福美はそう言うと、バックから白茶の弁当袋を取り出した。


「あ、それ!」


 柚子が言った。


 福美は、ふふっと笑い、袋からライトグリーンのランチボックスを取り出した。


 その袋と弁当箱の一式は昨年の四月、〈トレンドアップ!〉内で弁当箱特集が組まれた時に紹介された弁当箱ブランドの一つだった。


「やっぱり新見さん、覚えてるのね」


「はい。特にこれ、可愛いですよねぇ」


 福美は、柚子を試すつもりでその弁当箱を持ってきたわけでは無かったが、結果的に柚子の反応は、福美の柚子に対する評価をより固くさせた。


「新見さんもお弁当でしょ?」


「はい」


 柚子もバックから、弁当箱を出した。


 それを見て、福美は驚いた。本格的な小判型のまげわっぱ。渋い。新見柚子のイメージとは随分違う。


「へぇ、新見さん、随分渋いのに変えたのね。そっちで来たかぁ」


「はい」


 柚子は、にんまりと笑った。


「うわ、杉の香り」


「そうなんですよ。――あ、大丈夫ですか?」


「え? あぁ、大丈夫大丈夫。香りは好きなの」


 福美はそう言うと、弁当箱の蓋を開けた。柚子もそれに倣い、二人で昼食を食べ始めた。福美は、柚子の弁当の中身にも驚かされた。冷凍食品が一つも入っていない。というよりは、どこかの仕出し屋に頼んだかのような風格がある。


 さやいんげんの散らされ竹の子ご飯には、蓋を開けただけで広がってくる香り高い若山椒が添えられている。おかずにはまず、花のように広がった蕗のとうの天ぷらが目を引いた。胡麻のかかった紅白なます、鶏肉のしそ巻き、ひじきと人参の和え物、玉子焼き。


 本当に仕出しでも頼んでいるのだろうかと、福美は思った。


 以前福美が柚子と昼食を一緒に摂った時には、コロッケもシュウマイも、冷凍を使っていた。それに去年の夏ごろからは、柚子の弁当も、自作の日とコンビニ弁当の日が半々か、コンビニ弁当の日の割合が若干勝っていた。役職柄福美は、同僚の様子にそれとなく意識を向けていたので、そのあたりのことは目ざとく見ていて、覚えていた。


「それ、愛妻弁当?」


「ま、まぁ」


 柚子は、照れくさそうな笑みを浮かべた。


「本当にそうなの? これ、作ってくれるの?」


「はい。――料理得意なんですよ」


「うわぁ、羨ましい!」


 福美が言うと、柚子はまた、照れて笑った。


「でも、妻じゃなくて夫だから、愛夫弁当って言うのかしら」


「まだ夫じゃないんですけどね」


 福美は、周りに人がいないのをそれとなく確認すると、柚子に訊いた。


「新見さん、水上さんと結婚するの?」


「はい。……まぁ、まだその、道半ばですけど」


「でももう婚約はしてるんでしょ?」


「……」


「え、してないの!? でも、水上さん私に、婚約者だって言ったわよ?」


「それは――」


 そのことは、柚子も知っていた。詩乃は、テレビ局関係者には、自分を婚約者だと言っている。そうしないと舐められるから、と。そして柚子も、確かにそうかもしれないと思っていた。ただの「彼氏」では、局とのやり取りには弱すぎる。新見柚子の代理人なら確かに、「彼氏」ではなく「家族」か「婚約者」くらいの肩書でないと、怪しまれてしまう。


 柚子はそのあたりの事情を、福美に打ち明けた。


 すると福美は、これは一杯食わされたと、大楊に笑った。

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