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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
後日譚,霧の夜は二人だけ
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優しい鳥籠(2)

「今書いてるお話は、どういうのなの?」


「一寸法師が主人公の話を書いてるよ」


「えぇ、面白そう! 出来上がったら――」


「うん、出来上がったら読んでよ」


 詩乃はそう言って、ぐいっとグラスを傾けた。


 そうして、ソファーの背もたれに、仰け反る様に寄りかかった。


 酒は飲むが、柚子ほど強くはない詩乃である。寝不足に空腹ということもあって、サイドカーの一杯で、詩乃はすっかり夢心地になった。


 ぐったりと眠ってしまった詩乃は、柚子が揺すっても、もう起きなかった。


 柚子は、詩乃の頭を自分の腿の上に乗せた。


 起きている時には決してしない膝枕。柚子は、自分が詩乃に膝枕をされたことは幾度となくあったが、その逆は無かった。誘ったことはあったが、断られていた。きっと恥ずかしいのだろうと思っていたが、少しくらい、私に甘えてくれてもいいのにと、柚子は小さくそんな事を思っていた。


 しかし眠っている詩乃は、柚子の自由にできた。


 頬を撫でても、背中を撫でても、頭を撫でつけても、嫌がられない。


 それにしても、詩乃君はつくづく変わった人だなと、詩乃の寝顔を見ながら、柚子は改めてそんな事を思うのだった。まるで当たり前のように、自分のために全部を放って来てくれて、こうして一緒に暮らしている。私はまるで、魔法にかかったように今、「復帰」なんてことを言っている。たった二か月前に、まさに死のうとしていた人間が、今は会社に出て、四月からカメラの前に立とうとしている。


「魔法使った?」


 柚子は、詩乃の寝顔に問いかけた。


 人が嫌いかと思えば、映画やドキュメンタリーを見て一人泣いていたりする。用心深いかと思えば、信じられないような大胆な行動に出たりする。詩乃君がただ慎重なだけの人だったら、私と詩乃君は出会っていないし、今一緒に暮らしてもいないだろう。


 理屈っぽそうに見えて、その実、嵐のような激情に突き動かされて行動する人。動物が好きなのにペットは絶対に飼おうとはしない。そして――人の感情や思考は超能力じみた洞察力で見抜くのに、自分の感情については、全く無頓着な人。本当に優しいのに、その優しさを隠そう、隠そうと必死な人。


「私からプロポーズしていい?」


 柚子は、詩乃の耳元で言った。


 寝ている詩乃は、寝息を返すだけだった。


 柚子は、力の抜けた詩乃の寝顔を見て笑った。


 しかし、今は呑気な顔の詩乃でも、起きるとそうではなくなる。北千住のアパートを引き払ってこっちに引っ越してきたからといって、それが、〈結婚〉を意味するわけでは無い。詩乃の中で何かの決断があったには違いないと、そのことは柚子にもわかっていたが、詩乃の場合、ある日急に「出て行く」と言って行方をくらませても、不思議はない。そういう決断を、詩乃は過去、幾度となくしてきている。どんなに仲良くしていても、そして確かにそこに、永遠を誓うような愛があったとしても、詩乃の決断は、そういったことになびかない。


 しかし〈結婚〉となると、話は違ってくると、柚子は思っていた。あの書類に名前を書いて提出をすれば、詩乃を繋ぎ止めておける。


 詩乃君は、約束は守る人なのだ。だから、守れないような約束は絶対にしない。気休めでも、守れない約束はしない。結婚をするとなれば、詩乃君は、私や家族を裏切らないだろう。その責任感があるから、それが裏目に出て、詩乃君に〈一歩〉を躊躇させているのだ。


 柚子からすれば、無責任でも何でも良かった。とにかく、起きたら詩乃がいなくなっている、という可能性が一ミリでもあることが、柚子には不安だった。しかもその可能性というのは、日ごとに広がっているような気がした。


「行かないでね」


 柚子は、詩乃の伸び放題の前髪を掻き揚げながら呟いた。


 そうして柚子も、うとうとと、眠くなってきた。


 くら、くらっと、舟を漕ぐ。


 詩乃の体にひざ掛けをかけ、柚子は詩乃の寝顔に微睡んだ。




 真夜中――ふうっと、詩乃は息を吹き返すように覚醒した。


 目を覚ませた詩乃は、柚子の太ももを枕にしていることに小さく驚いた。しかし、通りで寝心地が良かったわけだとも納得がいった。自分の頭を抱え込むように寝ている柚子の、ニット越しの胸に、ふんわりと包まれていたのだから。


 詩乃が柚子の膝から退くと、柚子も何となく体を動かした。


 詩乃の酔いと眠気はすっかり取れていたが、柚子はまだ、半分以上眠りの中にいた。


 詩乃は腰や肩の関節を動かしながら立ち上がった。


 柚子が、詩乃の太ももに巻き付こうとしたので、詩乃はそうしようとする柚子の手を取って、自分の退いたソファーの上に、ころんと柚子を寝かせた。そうして、自分にかかっていたひざ掛けを、今度は柚子の肩にかけてやる。


 そして詩乃は、次に、どうして自分が起きたのかわかった。


 雨音だ。


 雨が降っている。


 詩乃はカーテンを開け、バルコニーのガラス戸を開けた。


 雨の音が、はっきり聞こえてくる。手を出すと、雨粒が手首を濡らした。


 その時詩乃の中に、ある考えが閃いた。


 今散歩に出たら――自然の夜の気と雨の只中に出たら、今の書きあぐねている状況を打破できるかもしれない。考えすぎてヒートしたこの頭を、リセットしてくれるかもしれない。そうすればその後で、眠っていた感性が呼び起されて、しっくりくる文章が書けるようになるかもしれない。


 一度、そうだ、と思うと詩乃のその直感は、確信に変わった。


「詩乃君、寝るよぉ」


 柚子が、いかにも眠そうな子で詩乃に言った。


まるで、眠りの世界からやってきた使者のようだと詩乃は思った。しかし今の詩乃はもうすっかり目を覚ましていたので、その誘いに乗ることは無い。


「うん、寝てな」


 詩乃はそう応えると、明るかった電気を消してオレンジライトに変えた。


 それから、リビングの椅子に掛けておいたダウンジャケットに袖を通す。今の時期はどんなに薄着でも(今の詩乃のような、気の抜けたスウェット上下でも)、このダウンジャケットさえ上に羽織れば寒くない。


 メモ帳、ペンを用意する。


 外に出る準備を始める詩乃の息遣いや物音を聞いて、柚子は「おや」と思い上半身を起こした。オレンジライトの暗がりの中――台所に、ジャケットを着た詩乃がいて、コップ一杯の水を一気に飲み干している所だった。


 一瞬で水を飲み欲した詩乃は、コップを軽く水洗いするとカップスタンドに洗ったコップをかけた。さて行こうと、詩乃はリビングを出かかった。


 その詩乃を見て、柚子の眠気も吹き飛んだ。


「え!? どこ行くの?」


「ちょっと、外に」


「待って待って」


 詩乃が扉を開けて廊下に出ようとするのを、柚子はソファーから立ち上がり、詩乃に突進するような形で止めた。起き掛けでふらついているうえ、電気もオレンジライトなので、柚子の不安定な足取りからの突進は詩乃には予想外の威力があった。


 詩乃は、背中を壁にぶつけて押し付けられ、笑ってしまった。


「そんな、いいよ、寝てなよ」


「どこ行くの?」


 困惑したような、不思議なものを見る様な表情で、柚子は詩乃を見上げた。


「散歩」


「散歩?」


 柚子は聞き返した。


 今何時、と思った。


 柚子の感覚では、夜中の一時か二時か、そんな時間のような気がした。とてもふらっと散歩に出て行くような時間ではない。


「今何時?」


 柚子は詩乃に訪ねた。


 詩乃はポケットからスマホを取り出し、時間を確認した。


 一時過ぎだった。


 時間を見て、柚子は眉を顰めた。


「もう真夜中だよ?」


 柚子が言うと、詩乃は意に介した様子なく、短く応えた。


「うん、でも」


 詩乃の意志の固いのを感じて、柚子は慌てて言った。


「ちょっと待って」


 柚子はそう言うと、部屋の電気をつけた。


 ピカっと、一瞬明りが眩しかったが、寝ている時はずっと白ライトの中だったので、すぐに目は明りになじむ。


「寝てていいよ、散歩してくるだけだから」


 詩乃は慌てて言った。


 自分の散歩のために柚子を起こしてしまうのは申し訳ないと思った。


 しかし柚子の方はそれどころではない。それは、女の性だった。詩乃に限って浮気なんて絶対にありえないことだと柚子も理性ではわかっていたが、本能が、夜の外出に反応してしまう。それに浮気でなくても詩乃の場合は、ふらっと出て行ったきり帰ってこない、なんてことがありそうな気もする。


 柚子は、自分の心配性の具合に自分でも驚きつつも、京都で詩乃に買ってもらったロングダウンを、自室に取りに行った。その間も、部屋の扉は閉めず、詩乃が勝手にふらっと玄関から出て行くのを警戒している。私もどうして、大概だなと柚子は思った。


 柚子は、顔を洗ってコートを着て、玄関で座って待つ詩乃の背中を叩いた。


「お待たせ」


「ただの散歩なんだから、雨も降ってるのに」


 詩乃はそう言いながら立ち上がる。


「え、雨降ってるの?」


 詩乃は応える代わりに扉を開けた。


 マンションの廊下だが家の中にいるよりは確かに、雨の音ははっきり聞こえた。


「ホントだ。え、雨降ってるよ、詩乃君」


 それでも行くの、と柚子は詩乃に目で訴える。


「うん」


 詩乃にとっては、雨だから行く、のである。


 詩乃は、京都で買った蛇の目傘を手に持って廊下に出た。


 柚子は、一瞬相合傘をしてもらおうかなと思ったが、流石にそれは鬱陶しがられるような気がして止めた。柚子は、自分が普段使っている紺色に白いラインの入った長傘を手に持って玄関を出た。

 マンションのエントランスを出かかって、詩乃ははっとして言った。


「あ、鍵――」


「持ってきたよ」


 もし一人で出て行って私が寝てたら、詩乃君どうするつもりだったのと思い、柚子は笑った。

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