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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
後日譚,霧の夜は二人だけ
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優しい鳥籠(1)

 詩乃の引っ越しが終わった後、和室にベッドが届いた。脚の無いタイプの背の低いクイーンベッドである。ずっと柚子は、実家にいる時にはそのサイズのベッドを使っていたが、就職後一人暮らしを始めてからは、シングルベッドを使っていた。実のところ柚子は、ずっとまた、大きなベッドを使いたいと思っていた。詩乃の引っ越しで、柚子もベッドを変える決心をしたのだった。


 詩乃の部屋は、これまで通り和室と決まった。柚子は、寝室と詩乃の書斎を分けた方が良いのではないかと詩乃に提案したが、面倒だという詩乃の都合で、和室は詩乃の書斎兼二人の寝室となった。


 和室にベッドを入れると、ベッドはリビング側から見て右手から和室の真ん中までを占領した。詩乃の書斎は和室の左手、PCデスクと椅子、そして背丈の低い本棚で囲まれた空間である。柚子から見ると狭いような気がしたが、詩乃は特別不自由も感じなかった。というよりも詩乃は、中学の頃から、必要な空間はそんなものだった。


 襖に向かい合う形でPCデスク、椅子を配置し、本棚は座った時に最上段が目線の高さ位になるくらいのものにする。座った時に右側に来る本棚の上に、自分の大事なものをレイアウトしておく〈神棚〉を作る。その二畳あるかないかの空間だけあれば、詩乃は満足だった。あとは、椅子にこだわるだとか、キーボードにこだわるだとか、そういう話になってくる。


 ちなみに詩乃がデスクチェアーにしている高座椅子は、高齢者向けに売り出されていた、いかにも居眠りに良さそうなスエード調のリクライニングチェアで、足置きがセットだった。頭が沸騰してくると詩乃は、背もたれを倒して、その足置きを使い、半分眠るようになりながら、文章なり、小説の構想なりを考えた。


 ところが三月に入り、ベッドも新しくなった頃になると、詩乃はもう、じっくり眠りながら考える時間も余裕も無くなっていた。ファンタジー小説のコンテスト締切りが三月の中旬である。一日一日、刻一刻と、締切りは迫ってくる。すでに詩乃の中では、一日という単位ではなく、一時間という単位で、締切りの足音は聞こえてきていた。


「詩乃君、ご飯、食べないの?」


 すっかり元気を取り戻した柚子は、連日会社にも出始めて、夕方前に帰って来ると、夕食も作る様になった。ずっと詩乃に食事を作ってもらっていたので、今は自分の番だと、柚子はそう思っていた。


「うん、あとで」


 詩乃はそう応えて、PCモニターを見つめながら、じっと考え込んでいる。キーボードを打っては考え、消しては考えを繰り返している。イライラと握った手で顎や額を叩き、眉を顰めたり、唇や頬をゆがめたり、鬼のような怒りに満ちた表情をしたりと、ひたすらにずっとモニターの前で悩んでいる。


 柚子は、あまり声をかけない方が良いと思いながらも、しかしどうしても心配になって、根を詰める詩乃に声をかけてしまうのだった。


「お腹空かない?」


「うん、コーヒー飲んだから」


 コーヒーはご飯じゃないよと、柚子は突っ込みたかったが、やめた。ちゃんと食べた方が良いよと、そんなことを言いたかったが、きっと今の詩乃にはそんなアドバイスは鬱陶しいだけだろうというのも、柚子はわかっていた。


 しかし実は、柚子も詩乃が、こんなに必死で執筆をしている姿を見るのは初めてだった。高校時代も、詩乃とは文芸部の部室でよく昼食を一緒に摂っていたが、実際に詩乃の執筆中の様子を見ることは、ほとんどなかった。この二か月の間も、詩乃の執筆は、紅茶を飲みながら、どことなく優雅な感じで行っていた。


 ところが今の詩乃は――特にここ数日の詩乃は、食べるものも食べず、夜一緒に寝ていてもいつの間にか起き出して、カリカリカリカリと、枕元に用意しているメモ帳やバインダーに挟んだ印刷用紙に、何事か書き出している。そして朝、柚子が起きる頃にはもう詩乃は起きていて、寝ながら何か書いているか、デスクチェアーに座って、モニターを睨んでいるかだった。


 柚子は、詩乃のために夕食のエビチリを皿に盛ってラップをかけて台所に置き、それからハーブティーを淹れて、それを詩乃の机の横に置いた。


「あ、ありがと」


 一瞬詩乃と目が合い、柚子は「うん」と頷いた。


 リビングに戻った柚子は、ソファーに座り、ほうっと、心臓を落ち着かせた。


 ――今の詩乃君、格好いい。


 柚子は、和室の詩乃を見ながら、もじもじしていた。見つめていても、モニターがあるので互いに顔は見えない。カチカチと、キーボードの音が響く。


 詩乃に構ってもらいたい柚子だったが、詩乃の邪魔をするわけにもいかない。だけどちょっとは構ってほしい――と、そんな気持ちを柚子は持て余していた。


「あ、テレビ点けていいからね?」


 突然、詩乃がモニターの縁から顔を覗かせて、柚子に言った。


「え? あ、うん、わかった!」


 柚子は返事をし、折角詩乃がそう言ってくれたのだからと、テレビを点けた。


 わははは、という笑い声と共にテレビモニターがバラエティー番組の一コマを映し出す。テレビ城東の番組である。プロレス好きな芸人がレギュラーをしていて、番組のどこかで、その乱闘を見ることができる。それがこの番組の売りではあるが、この番組のアシスタントをしている二人の先輩アナウンサーは、BPOが大変だとこの一年ずっと嘆いていた。絶対に公にはされないであろう裏話や、番組に対するクレームなども柚子は聞いていたので、芸人の言動よりむしろ、先輩二人が冷や汗を流しながら番組を進行する様子を見て、柚子は笑ってしまうのだった。


 柚子がそんな風に、たまに思わず笑い声を上げながら番組を見ていると、すっと詩乃が立ち上がり、和室の襖を閉めようとした。


「あ、ごめん! うるさかった!?」


 柚子は慌ててテレビを消した。


「え?」


 驚いたのは詩乃だった。


 テレビの音がたまに聞こえるので、それが少し思考の邪魔になると思っただけで、柚子の笑い声がうるさいだとか、そういった不快な感情のために襖を閉めようとしたわけでは無かった。


「いや、大丈夫だよ。テレビ、見ててよ」


 詩乃はそう言って、襖の片方を閉めた。


「え、待って待って、邪魔なら私テレビ消すよ」


 柚子はそう言って立ち上がり、襖を閉める詩乃の手を止めた。


 和室とリビングの分断を、柚子は心の分断のように考えてしまうのだった。詩乃は、そういう柚子の、女性らしい考え方を理解してはいなかった。見てていいのにな、というくらいにしか詩乃は思っていなかったので、柚子の妙な必死さが不思議だった。


「いいよ、見てなよ」


「ううん」


 と、頑なに柚子は首を振り、襖を閉める詩乃の手を握る。


 詩乃は思わず笑って、柚子の頭を撫でた。


 柚子は頭を撫でられながら、詩乃を上目遣いで見つめた。柚子も、今はその上目遣いが男全般にどう映るかを知っていて、わざとその可愛さを使っていた。今日は帰ってきてから、詩乃は夕食も食べず、会話もほとんどしていない。今日だけでなく最近は、詩乃はずっと朝から執筆ばかりなので、柚子はそれを、詩乃らしい、格好いいと思いながらも、もう少し二人の時間が欲しいとも思っていた。


 詩乃は柚子の頭から背中に手を移した。


 柚子の背中を撫でていると、執筆のために殺気立った詩乃の感情も、穏やかになった。小説の方はすでに、クライマックス直前まで書きあがっていたが、その直前のワンシーンでの文章が定まらず、煮詰まっていた。このまま座って考えていてもダメだろうなという気もしていたので、柚子を撫でるというのは、詩乃にとって丁度良い息抜きになった。


「お酒飲もうかな」


 詩乃はそう言いながら、和室を出た。


 柚子は、待ってましたとばかりに、詩乃の肩を叩いた。


「そうだよ、少しは休憩した方が良いよ。――何飲む? カクテルにする?」


「うん。強めのショートカクテルがいいかな」


「オッケー」


 柚子はそう応えると台所に行き、早速シェイカーを準備した。少し前まで、詩乃は、柚子に酒を飲ませたくなかったので、自分も酒を飲まないようにしていたが、柚子が美奈とワインを飲んで酔っ払って帰ってきた日からは、詩乃も禁酒を解いていた。そして詩乃の酒を用意するのは柚子の役だった。カクテルバーテンダーの資格を持つ柚子は知識だけでなく、〈カクテル・コレクション〉の番組内で見せていたシャイカー捌きも健在で、詩乃は柚子のシェイクパフォーマンスを楽しんだ。


 三角形のカクテルグラスに、飴色の液体が注がれ、詩乃の前に提供された。グラスの端に、檸檬の皮が飾り付けられている。


「いいね、檸檬」


「ね、可愛いでしょ」


 柚子はそう言いながら、詩乃に出したものと同じものを持って詩乃の隣に座った。


「乾杯」


 柚子が、グラスを持ち上げて言った。


 乾杯と、詩乃も応えて、一口飲んだ。


 すっきりとしたレモンの風味が口の中に広がる。微かに甘いが、重さもある。


「ブランデーベース?」


「おぉ! すごい! 正解」


 詩乃は、もう一口飲んだ。


 アルコール度数はかなり高そうだが、爽やかな口当たりで、飲みやすい。


「これは、なんてカクテル?」


「サイドカー」


「へぇ」


 詩乃は、カクテルグラスを傾けて、液体の光の反射を楽しんだ。


「こういうカクテルはねぇ、難しいんだって」


 柚子そう言って、一口飲んだ。


「材料、いっぱい混ぜてあるの?」


「ううん、逆。シンプルなの」


「あぁ、シンプルな方が難しいっていうのは、なんか、何でもそうかもね」


「そうだよね、やっぱり。特にこういう王道はね」


 うん、と柚子は頷いた。


「そうなんだ。いや、ビールの勉強はしたんだけど――」


「ビール勉強したんだ」


「勉強というか……勝手に調べてただけだけど」


「小説のために?」


「うん、今書いてるやつね」


「ファンタジーなんだよね?」


「そうだよ」


「魔法でひょっと作っちゃう、っていうのはやっぱりダメなの?」


 詩乃は、柚子の「ひょっ」という擬音語を面白がって笑った。


「私小説、書く方のことは全然わからないからさ」


「いや、難しく考えることないよ。魔法でひょいも、全然いいと思う」


「いいの?」


 柚子は、笑いながら聞き返した。


「そういうファンタジー世界の在り方というか、哲学も有りだよ。でも自分は、そういうのはしないだけ」


「そうなの?」


「うん、自分の考える魔法は、本当の魔法は……便利とかどうとか、人間の価値観の外にあるものなんだ。だから、お手軽便利みたいな、そういう魔法はない。例えば――酒があふれ出す樽みたいな魔法は無いけど、酒樽に集まってくる妖精はいるよ。あとは、祭りの日には本物の魔女が混ざってる。酒を飲むとたまに、酔っ払いだけが行ける世界の扉が開く。――そういうのが、自分が考えてる『魔法』かな」


 面白そう、だけどやっぱり詩乃君の話は複雑すぎると柚子は思った。それでも、詩乃がそういう話をしてくれることが、柚子には嬉しかった。

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